お泊まりは突然に
「だからね、ここはこうやって解いてあげると」
「あっ、本当ですね」
美咲には軽い軽食を、俺たちは晩飯に炒飯を食べた後。輝子が美咲の勉強を見てくれている。
ちなみに、炒飯は輝子のリクエストだ。なんでも、美咲の食べていた炒飯が美味しそうに見えたとか。それとも、食べている美咲の表情が幸せそうだったから、食べたくなったのか。どちらかはわからない。
「そろそろ一時間経つんじゃないか? ココアを入れたから一休みしたらどうだ」
ココアの入ったピンクのカップを二つ、それとステックシュガー数本を木製のお盆に乗せて二人に近づく。
「ココア! ちょうど一休みしようと思っていたんだよ」
輝子が嬉しそうにカップを受け取ると、息で少し覚ましてから一口飲んだ。
「美咲もどうぞ。砂糖はどうする?」
「ありがとうございます。砂糖は……」と、受け取ったカップに口をつけ、「お願いします」
「わかった」
スティックシュガーを美咲に渡す。彼女はそれをココアに溶かして、飲んだ。ホッとしたような表情を浮かべて、
「甘くて、美味しいです」
笑顔でそう言った。
「そうか、ならよかった。勉強はどんな感じなんだ?」
「今掛け算を教えてもらってます」
「美咲ちゃん凄いんだよ。ちょっと教えるだけですぐ理解できる、賢い子なんだよ。ちょっと応用が苦手なところがあるけど、それだってすぐに慣れちゃいそう」
「それは凄いな」
俺は九九を覚えるのに六ヶ月かけたっていうのに。覚えるまで指折り数えていたのを思い出す。
「これならすぐに年相応の学力までいけるかも」
「あ……いえ、わたしは……凄くなんかない、です」
「いや、十分凄いさ。俺は勉強ができなかったからな」
「そうだったんですか?」
「そうなのよ。慎二ったらいっつもテストで低い点だったんだから。昔っから勉強を教えるのがわたしの役目だったんだよ」
えっへん、と自慢げに言う輝子。確かに助けられたが、その話は美咲に知られたくない話だ。理由は単純に、
「恥ずかしいからそれ以上はやめてくれ、輝子」
「ごめんごめん。けどさ、慎二いつのまにか良い成績とるようになっちゃって、おねーちゃん悲しいよ」
オヨヨ、と泣き真似をする輝子に呆れる。
「お姉ちゃんってお前、俺と同い年じゃないか」
「細かいことはいーんだよぉ」
クスクス、と笑い声が聞こえた。見れば、美咲が笑っていた。
「初めてです。こんなに面白くて、暖かいのは」
「そうか。暖かいか、ここは」
「はい」
笑顔で美咲が答える。少しずつ、彼女の笑顔が増えていっているのが実感できる。それはいいことで、喜ばしい。
「ん?」と、ふと彼女が目元を押さえているのに気がついた。「目が疲れたか。ちょっと待ってろ」
キッチンに向かい、壁にかけたれた袋から目薬の入った小さい紙袋を取り出す。居間に戻って正座で座ると、ポンポンと膝を叩いた。
「どうぞ」
美咲が膝の上に寝転がる。紙袋から目薬を取り出して蓋を開けると、彼女の右目に点眼できるように準備する。
「目を閉じるなよ──っと、よく頑張ったな」
彼女の目に点眼して、溢れて涙のように頬を伝う薬を手で拭う。薬の蓋をして、彼女の頭を撫でてやると、気持ちよさそうな表情を浮かべた。
「こればっかりはどうしようもないからな。張り切って勉強するのはいいけど、疲れたらきっちり休むんだぞ」
「はい。けど、なんでこんなに疲れるんでしょうか?」
「片目で物を見ると負担が倍増する。だからだよ」
彼女に使用した薬は、目の疲労回復を目的とした薬だ。とにかく長時間──一時間以上──負担をかけないように、というのが医者からの指示だった。
ちなみに、美咲の目の事は輝子も知っていて、無理しているようなら休ませるように言ってある。
「って、もうこんな時間か。そろそろ帰らないといけないんじゃないか、輝子」
「ああ、今日は帰らない事にしたから」
「了解。連絡は?」
「すでに済ませてあるよ」
輝子は時々突然泊まると言い出すことがある。実家暮らしの時からそうだった。そういった時用の服を彼女はこの家の何処かに隠してある。
人の家をなんだと思っているのか、なんて文句が出ないわけではない。けどなんだかんだで受け入れている自分がいる。が、そういうことは事前に伝えて欲しい。
「じゃ、そういうわけでわたしは服をとってくるねー」
居間を出ていく輝子。普段なら後ろをついていくという選択肢もなくはないが、今日は無理そうだった。なぜなら、
「気持ちよさそうに眠ってやがるもんな」
「あらー、寝ちゃっているかぁ」
残念そうに輝子が言う。美咲を起こさないようにという配慮なのか、少し小声だ。
「色々お話ししたかったんだけどなぁ」
「また明日があるだろ? つってもそっちは大学、こっちは高校か」
答えながら美咲を抱える。
「そうだね。こんな寝顔されたら起こせないよね。かわいい」
美咲の寝顔をマジマジと見つめながら、輝子が呟く。実際相当気持ち良さそうで、気を抜けばこちらまで寝てしまいそうだった。
彼女は今どんな夢を見ているのだろうか。平和な夢を見ているのか、それとも悪夢なのか。
「っと、悪い。俺の部屋の扉、開けてくれないか」
「ん、わかった──って、まさか一緒に寝ていたりしないわよね」
「あー、うん。そのまさかだけど」
「慎二、彼女は女の子なんだよ」
「けど、まだ子供だ。それに、なによりも人の温もりを知る必要がある。心配しなくても、襲ったりなんかしないって」
少し怒り気味な輝子をなだめる。彼女の言い分はもっともで、確かに咎められるべき行為かもしれない。けれど、いきなり環境を変えたら美咲を不安にさせてしまうだろうし、今の彼女が一人で寝付けるとは思えない。
「ならいいけどさ……信用できない人間じゃないし」
納得いかないと言わんばかりの表情ではあるものの、扉を開けてくれる。先に入って布団を敷いて貰い、そこに美咲を寝かせる。
「彼女、ずいぶんと懐いているみたいね」
「そうだな」
思い返してみると、初日に比べてだいぶ打ち解けた。それはいい傾向だ。ただ、時々出る謝り癖が気になってしまう。帰ってきた後、腹が鳴ってしまったあとで謝っていたのを思い出す。
「まったく。悪いことしてないなら謝らなくていいって言ってるのに」
「そうだね。けど、ある種のトラウマみたいだし、すぐにはね」
「ああ。難しい問題だな」
扉を閉めて、居間に戻る。
「それで、これからどうするつもりなの? わたしや慎二が勉強を教えるっていっても限界があるけど」
「そうだな──理想はやっぱり高校に入学させることだけど、そのためにはこちら側で最低限の学力、つまり中卒レベルまで引き上げないといけない。ただ、どれだけ時間がかかるかだな」
「そうだね……双方ともに学校があるから、夕方以降しか教えられないか。自習してもらうっていうのは?」
「できなくはないけど、難しいところもある。漢字の読み書きや社会のような、資料を読めばとりあえず最低限何とかなる教科ならともかく、教科書と講師の二つが揃って初めて理解できる算数と監督しないと危険な理科の実験類、対話によって学ぶ英語なんかは難しい」
「そっか……意外と問題は多いんだね。道徳も難しいか」
「道徳は、そもそも授業として成り立っていない節があるからな……学ばなきゃいけないことではあるんだが、俺が小学の時からあの時間は教師の気に入りそうな回答を推理する時間だったからさ」
「やっぱり慎二もそう思っていた?」
「ああ」
考え込む。家庭教師の案が一瞬脳裏に浮かんだが、知らない人に教えてもらうというのは危険だ。美咲が集中して勉学に励めないだろうし、怖がる可能性もある。他人と接触させるのはもっと後のほうがいい。
結局、他のアイディアは浮かびそうになかった。
「ひとまず、自習できる物を一人でやってもらって、ということになるだろうな」
「わかった。わたしのノート探して持ってくるね」
「ああ、頼む。俺のはどこに仕舞い込んだっけかな」
「土蔵じゃない?」
「ああ、そうだったような気がする」
自信はない。そもそも、探し出したところで役には立たないだろう。あれは解読しなければ読めない文字だ。
要するに読んでもない悪筆だったというわけ。流石に今は改善されたが、今度は昔書いた日記が読めなくなってしまった。
そういうわけで、使うなら使うでまず
「じゃあそれで決まりだね」
と、輝子が欠伸をした。
「眠くなってきちゃった。お風呂、先に入ってくるね」
「ああ。風呂の中で寝るなよ。危ないからな」
と、意地悪げに言ってみると、
「もう、子供じゃないんだから寝ないよ」
そう返された。彼女は一ヶ月前うちの風呂場で熟睡していた事をすっかり忘れてしまったようだ。
「まったく──っと、俺も眠くなってきちまった」
風呂にだけ入らないとな、と眠気を噛み殺して待つことにした。
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