夕食と散髪


 日用品を買ったりしながらショッピングモールを周った後、買った物を車に積み込んだ。


「じゃあ、帰るか。そろそろ日も暮れるしな。名残惜しいかもしれないけど、また今度来ればいい。時間はたっぷりあるからな」


 車に乗り込んで、エンジンをかける。美咲がシートベルトをしたのを確認して発進させた。俺は立体駐車場が好きだ。とりわけ二速でエンジンブレーキを効かせて降るのが好き。けどそれだと速度が出過ぎてしまうので、軽くブレーキも踏む。

 道に出て、家に向かう。


「今日は楽しかったか?」

「は、はい。今までで一番楽しかったです」


 そんな事を、なんの疑問も持たずに言う美咲に言葉を失った。今日という一日は、当たり前の日常の内の一つでしかないからだ。

 だから、当たり前の楽しさでなくてはいけない。まして、それが今までの人生で一番楽しかったなど、間違ってもあってはいけない事だ。だから胸が痛む。

 けど、その感情を悟られてはいけない。彼女が感じた楽しさを壊すわけにはいかないから。


「そうか、ならよかった」精一杯の明るい声で返す。「これからはもっとたくさん楽しいことがあるさ。それこそ、いくらでもな。山に行ってキャンプをし、遊園地に行って絶叫マシンに乗る。映画館に行けば未知の世界を体験できるし、なんならまたショッピングモールに行くだけでも楽しいさ。絶対楽しませてやっから、期待しとけ」

「は、はい」


 彼女の声が弾む。あえて海は入れなかった。だって、傷だらけの体を晒すのは美咲が嫌だと思うだろうから。けど、それ以外のところで思う存分楽しませようと思う。

 今までの出来事を、苦しみを忘れることはできないだろうから、せめてそれ以上に楽しめるように。


「今日のご飯は何食べたい?」

「あ、じゃあ……カレーライスを、食べてみたいです」

「カレーだな。じゃあ商店街寄ってから帰ろうか」


 曲がらずに商店街に入る。カレーライスなので、スーパーマーケットに寄る必要があるだろう。

 駐車場に車を止め、店内に入る。ここで買うのはカレールウだけだ。いつもの癖で辛口を手に取って、美咲には辛すぎるかもしれないと気がついた。代わりに甘口を手に取る。


「そういえば、お茶菓子が無くなってたよな」


 ふと思い出したので、カゴを取ってお菓子売り場に移動する。煎餅と、饅頭詰め合わせと、クッキーをカゴに入れた。

 会計を済ませると、今度は八百屋の前に移動して、車を停める。八百屋に入ると、


「慎二か。何を求めるかね?」


 野菜屋の主人がそう尋ねてくる。身長百八十、肩ほどまである髪が威圧感を出している男性だ。

 変わった言葉使いの変人だが、取り扱っている野菜の質は最高だと思っている。


「にんじんとじゃがいもと玉ねぎを」

「ほう。となると、シチューか……否だな。その袋から見える箱の色から察するに、今日はカレーライスと言ったところか」

「正解。隠し味にリンゴも頼む」

「いいだろう。全部で五百五十円だ」


 財布から五百五十円取り出して手渡す。


「確かに。そら、商品だ」


 袋に入った野菜を受け取る。


「っと、聞こうと思っていたんだが──弁当屋の主人がゴミ箱を漁られているとこぼしていた。何か知っているかね?」


 ドキリとする。十中八九美咲のことだからだ。もしそれがバレた場合、彼女が責められる可能性がある。だからできるだけ早く、


「しらん。知るわけないだろ」


 そう答えた。


「そうだろうな。聞いてみただけだ──また寄ってくれ」


 表情に出さないように安堵し、八百屋を出て隣の肉屋に入る。揚げ物の匂いが腹を空かせてしまう。


「しんちゃん、今日は?」

「カレーにする。牛肉をくれ」

「いいわね、カレー。私も好きよ」


 ちょっと待ってね、と肉屋のおばさんが告げてから肉を用意してくれる。白い容器に入れられた赤い肉は、やはり上質な物なのだろう。

 この店は上質な肉を安く仕入れて安く提供してくれる。地域に根差した運営方針だからそれでも十分やっていけるのよと言っていた。

 実際この周囲の住民の大半が、スーパーではなくこの肉屋で買っている。スーパーからしてみればいい迷惑――かと思いきやそうではなく、商店では手に入らない商品を重点的に売ることでうまく差別化している。


「はい、六百円ね。それと、これはサービス」


 おばさんがくれたのは、茶色の包み紙に入れられたメンチカツだ。記憶通りならこの店がメンチカツを取り扱ったことは無かった。


「新商品の試食?」

「そうよ。やっぱり客観的な視点で感想を貰わないとね」

「じゃ、熱いうちに──いただきます」


 一口食べると、口の中に熱々の肉汁と、肉の旨味が広がっていった。衣はサクッとしていて、肉はしっとりジューシーだ。


「うまいな、これ」本心からそう言って、「これなら大ヒット間違いなしだ。一個買っていってもいいか?」


 満足そうにおばさんは笑みを浮かべた。


「もちろんよ。これで自信を持ってお店に並べられるわ。百円でどう?」

「個人的には五百円でもいいぐらいだけどな」

「それじゃいくら味が良くても売れないわ。薄利多売が一番この店にあっているのよ──合計七百円ね」

「はい、ちょうどだ」


 小銭を渡して商品を受け取る。また来てね、という声を背中に車まで戻り、乗り込む。


「はいこれ、新商品だって。俺はもう食ったから、食っていいよ」


 美咲にメンチカツを渡す。本当は食事前の間食はいけないと思うが、どのみち帰ってから調理するわけだし、今の美咲はとにかく栄養を摂取する必要があるので容認する。


「あ、ありがとうございます……美味しい」


 美咲が一口食べると、彼女の顔に笑顔が浮かんだ。

 あっという間に彼女はメンチカツを平らげてしまった。


「いい食べっぷりだな。良いことだ」


 車を発進させる。まばらに人がいる商店街は運転しづらい。商店街を行き交う人々は皆楽しそうで、平和だなと思った。




 車を自宅まで転がして、駐車場に停める。買ったものを家に運び込んで、リビングにまとめて置いた。


「さて、さっさとやっつけちまおう」


 手を洗って、お米を洗う。炊飯器にセットしてから、カレーの材料と道具を用意する。

 野菜を切って、火が通りにくい食材から順に炒めていく。

 ガラガラ、と家の扉が開けられる音がする。ややあって、


「たっだいまー! 美咲ちゃん、ただいま」


 扉を開けた人物が現れた。


「お、おかえりなさい?」

「おかえり輝子。すっかり自宅気分だな」


 振り返らずに返答する。


「だってそうでしょ? ここが、わたしの家なのだ!」

「龍さんが聞いたら泣くぞ、それ」


 鍋に水を入れて、煮込む。別の鍋を用意しながら、


「ま、いいけどさ。たまには親孝行もしろよ」


 そう言った。


「はいはい、耳タコですよー。今日のご飯なぁに?」

「カレーだ。デザートがあるんで、程々にしとけよ?」

「おっ、デザート! 楽しみだね、美咲ちゃん!」

「は、はい。楽しみです」

 

 輝子は少し考え込むような声を出した後、


「やっぱりなぁ。美咲ちゃん、帰ってきたときから思ってたけど、どこか他人行儀というかよそよそしいというか。なんていうの、借りてきた猫みたい。慎二もそう思うでしょ?」


 突然こちらに話を振ってきた。


「んまあ、確かにな」


 肯定する。実際そう感じていたのだから、否定する理由もない。それに、いつまでもこのままっていうのもここにいる全員にとって居心地のいいものではないだろう。


「そ、そうですか? ごめんなさい」

「ま、無理することないさ。慣れない環境だしな」


 野菜を煮込んだ鍋にカレールウを入れる。冷蔵庫から昨日もらった肉まんを取り出して、もう一つの鍋に水を貼った。その中心に小鉢を入れ、その上に金属の板を設置する。そして板の上に肉まんを三つ置いて、火をつける。自動で火が消えるタイマーの設定も忘れない。


「輝子、手伝ってくれ」


 炊飯器が炊き上がりのサインとして音を鳴らしたので、輝子を呼ぶ。


「はいはーい。何をすればいい?」

「お皿にご飯を頼む。そしたらそこにカレーを載せるから」

「りょうかーい」

 



「いただきます」


 手を合わせてカレーを食べる。口の中に広がる辛さと、ほんの少しの甘さが中辛だと感じさせてくれる。正直少し物足りない。


「美味しい! けど、いつもとちょっと違う?」

「ああ、辛口だと美咲が食べれないかもと思ってな。美咲、美味いか?」

「はい、美味しいです」

「ならよかった」


 美咲は満足そうな笑みを浮かべている。


「美咲ちゃん、髪を切らないの? だいぶ邪魔そうだけど」

「あ、その……誰かに切ってもらうのが怖くて……」

「だったらさ、自分で切るってのはどう?」

「自分で、ですか?」

「そうすれば安心でしょ。慎二、大きい鏡ってなかったっけ?」

「あるぞ。土蔵の奥に仕舞い込んであるはず。けど、危険じゃないか?」

「大丈夫よ。わたしが手伝うから」

「む……まあ、それなら問題ないか」


 輝子の散髪の腕前はといえば、時々組の者の髪を切ってやってるそうで、確かなものだ。最も髪で遊ぶ、という目的ありきだが。

 しかし最後はキッチリと仕上げてしまう。その彼女が手伝うというのなら問題ないだろう。


「じゃあ、それで決まり。準備はよろしく」

「わかった。どう切るかは完全に任せていいんだな?」

「大丈夫!」


 輝子は自信たっぷりにそう言った。


「話は変わるけど、商店街の幽霊って美咲ちゃんでしょ?」

「ああ、多分な。知ってたのか、あの噂」

「そりゃ知ってるわよ。わたしだって、花の女子大生なんだから」

「そっか……じゃあさ、噂の動向に気を付けてもらえるか?」

「いいけど、なんで?」

「噂とは恐ろしいものだ。美咲に危害が加えられないように、知っておく必要があるんだ。噂だけで非難されたり、攻撃されないようにな」

「なるほど。やっぱり慎二は賢いなぁ……わたしには勝てないや」

「それ、留年した奴に言うセリフか?」


 輝子は肩を竦めた。視線を美咲に向けると、彼女はカレーに夢中だった。


「こっちでも噂は集めとく──っと、食い終わっちまった」

「わたしも。デザートちょーだい」

「はいはい。まったく、食い意地の張った奴だ」


 立ち上がってキッチンに。お皿を三枚取り出して、鍋の蓋を開ける。


「おっと、これは凄い」


 瞬間、視界を覆う蒸気。なかなか熱い。視界が回復すると、中にほどよく柔らかくなった肉まんがあった。すごく美味しそうだ。トングを使ってお皿に移す。


「ごちそうさまでした」


 美咲の声が聞こえた。ちょうどいいタイミングだ。


「はい、デザートの肉まん」


 居間に移動して、皿を美咲と輝子の前に置く。一度キッチンまで引き返して、自分の分を持ってくる。こういう時、人間の腕はなんで二本しかないんだと思う。

 それこそインドの神々みたいに、四本ぐらいあってもいいのではないか――いや、やっぱり無し。人が神に近づくのは止めたほうがいい。


「ん、いい感じにできたな」


 一口かじって、こぼす。実際、いい柔らかさだ。


「なにこれ、めちゃくちゃ美味しいじゃん! なんかこう、ジュワッとしてて、フワッとしてて!」


 輝子のテンションが振り切れる。美咲の様子を伺うと、彼女は少しずつ、大事に食べていた。


「美味しいです、温かくて」

「そうか、それは良かった」

 幸せそうな美咲を見て、こちらまで暖かい気持ちになった。

 



「よっと。これでいいか?」

「大丈夫だよ。じゃあ始めよっか、美咲ちゃん」


 居間に新聞紙を敷き、その上に鏡を置く。新聞紙を敷いたのは、髪の毛が散らばらないようにだ。


「じゃあ美咲ちゃん、ここを切るからね。ハサミの使い方はわかる?」

「わ、わかります……」


 輝子が美咲の髪を彼女の前に持っていく。丁寧に教える様は、まるで姉が妹にものを教える時のようだ。

 邪魔をするのもアレなので、食器を洗うことにした。


「アレックス、プレイリストクラシックを再生」


 ドビュッシーの月の光が再生される。落ち着いた曲で、リラックスできる一曲だ。

 ハサミを動かす音と、水道の音、食器が擦れる音と、クラシックだけが静寂に響く。時々、輝子が指示を出す以外の言葉は無い。

 静かで、けれども落ち着いた環境。暖かいと感じる。


「こんな時間が、いつまでも続けばいいな」


 そう呟いた。

 時間は流動的なもので、同じ時は一瞬として訪れない。だからこそ、そう望んでしまったのだろう。誰かと共同生活をするこの時を。この家に住み始めてから、いつも一人だった。

 それがいつのまにか輝子が入り浸るようになって、美咲と暮らすことになった。それはきっと、運命なのだろう。


「っと、終わり! ねぇ、慎二。感想もらえる?」

「え? ああ、ちょっと待ってな」


 洗っているお皿を台に置いて、タオルで手を拭く。


「どれどれ……おっ、いい感じじゃないか」


 美咲の髪は、肩より少しだけ上のところでバッサリ切られていた。はっきりと顔が見える分、不健康な顔色が目立つが、それは栄養をしっかりとっていれば改善されるだろう。それに、その髪型は――。


「よく似合っている。可愛いと思うよ」


 本心からそう言った。


「でしょ? なんたってこのわたしが指導したのだから」


 ふふん、と胸を張る輝子。相当自信があるようだ。手伝ってもらった手前、若干左右でバランスが悪いことを言うのもなんなので、そのままにしておく。

 時計を見ると、時刻は午後八時半。


「じゃあ、わたしはそろそろ帰るね。美咲ちゃん、また明日」

「は、はい……また明日」

「気をつけてな。暗いし」

「大丈夫だって。わたしに手を出したら、お父さんが──しまった、忘れてた!」


 唐突に輝子がおでこを抑えた。かと思えば、こちらを見据えて、


「明日お父さんがこっちに来るから。十時ぐらいだって言ってた」

「十時? ずいぶん早いな。わかった」


 おそらく美咲のことだろう。なら今日は早めに寝るべきかなと思う。


「じゃ、そういうことで。バイバーイ」


 元気に家から出ていく。その姿を見送った。

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