喪われていたモノ

「さて、どこから説明したものか」


 午後、時刻はすでに五時を回ったところだ。場所は病院の診察室で、医師の篠原と二人っきりだ。美咲は別室で待機している。


「まず、栄養失調はだいぶ改善されている。話を聞く限り、廃棄された残飯とはいえ食っていたのが幸いしたのだろうな」


 目の前にいる篠原が、資料を見ながら説明してくれる。


「傷跡も問題無し。一ヶ月前の傷だから悪化することもそうないだろう。ただ……」

「ただ?」

「問題はこれだな」


 篠原が見せてくれた資料は、視力の測定結果だ。右目は一・一だが、左目が、


「測定不能?」

「ああ。つまり、失明している」


 左目が見えていない。普通なら産まれつき、あるいは病気やけがの後遺症だと思うだろう。ただ、美咲の事をよく知っている人はそうは思わないだろう。


「それは、精神的な失明ですか?」


 わずかな希望を込めて聞いてみる。精神的なものなら回復するかもしれない。しかし篠原はその希望をいとも簡単に、蜘蛛の糸を断ち切るように答えた。


「視神経自体が損傷してる」と篠原は瞼を指さし、「ここを損傷すると失明する可能性があるんだ。で、深い切り傷があったとくれば――」

「自分の子供を斬りつけた?」

「おそらくな」


 言葉を失ってしまう。とても正気とは思えない。否、すでに正気ではないのだろう。でなければそんな事できるはずがないのだから。


「ただ、眼球自体は機能しているみたいだからそのままだ。摘出するよりもそのままにしておいたほうが良いと判断した」

「そうですか……他には?」

「ああ。とりあえず詳しい検査結果待ちだが──今わかる範囲では肉体面の問題は眼球以外確認できなかった」


 わずかな引っ掛かりを覚える。何か言葉に違和感があったから。少し考えて、その引っ掛かりに思い至った。


「肉体面では? 精神的な問題ですか」


 とはいえそれは予想できたことだ。幼いころから虐待されていた、という記憶が精神を侵すというのは自然なことだから。


「そうだ……時に慎二。君は注射の時、全くの無反応でいる自信はあるか?」

「誰だってそんなの無理だと思いますけど」

「そう。注射とはすなわち痛みを伴う行為だ。本能的な反応として表情に出たり、筋肉が強張ったりする」


 いまいちピンとこない。それと美咲の精神と何か関係があるのだろうか。


「ところが、美咲ちゃんの場合それが一切確認できなかった」

「それは、どういう意味ですか?」

「要するに、許容量の問題だ」

「許容量?」

「そう。人間は痛みに敏感だ。髭を剃る時とかに顔にできたニキビとか引っ掻いて、痛ってなったことあるだろ?」

「ええ、まあ」

「あれは痛みとしてはそんなに脅威じゃ無い。せいぜい十あるうちの一か二だ。ただ、注射の場合は五ぐらいになる。通常なら、然るべき反応が返ってくるはずだ。けど、彼女の場合は全くの無反応だった」


 そこから推測されるのは、と彼は言って少し黙った。そして数秒後、


「美咲ちゃんは、痛みに対する許容量が壊れかかっているかもしれない」


 そう言った。

 



 許容量が壊れてかかっている。その言葉は俺の中でずっと逡巡していた。帰りの運転中も、料理をしている最中も。

 許容量が壊れる要因はいくつか考えられる。薬物によるもの、病気などによって神経に異常が生じるもの、自傷行為によるもの、そして虐待によるもの。

 薬物によるものは、単純に脳の痛みを感じるモジュールが破損するからだ。神経の異常は、単純に痛みを感じることがなくなること。

 だが、自傷行為や虐待が原因となると話は変わってくる。単純な話だ。痛みを感じないのでは無い。痛みは感じている。

 では、どこが壊れているのか。要するに、心が壊れているのだ。

 痛みは心にとってストレスになる。自傷行為の原因となるストレスや、虐待によるストレスに加えて、痛みのストレスまでもが重なった場合、人間は耐えられなくなる。で、真っ先にカットされるストレスが痛みなのだろう。


「美咲……」


 静かに、呟いた。彼女の体にある傷痕、そして痛みを感じない心。


「慎二、顔が怖いよ?」


 輝子に言われて、我に帰る。


「あ、ああ……痛みを感じなくなるほどの苦痛を、美咲が十五年も耐え続けてきたと思うとな……」

「そうだね……わたしなら耐えられないと思う」


 それっきり言葉はなかった。きっと、俺も輝子も言葉が見つからなかったんだと思う。十五年、長い年月だ。俺たちが平穏を享受している間、美咲はずっと耐えていた。

 この日本で、平和なはずの国で。きっと、地獄という言葉すら生温いものなのだろう。もしかしたら、首を絞められるという経験をしたかもしれない。骨を折られたこともあるかもしれない。


「って、慎二! お味噌汁!」

「え? うわっ、危ねぇ!」


 思考が引き戻され、最初に目に入ったのは沸騰した味噌汁だった。


「しまったな……これじゃ風味が台無しだ」


 味噌汁は沸騰させてしまうと風味が飛ぶ、つまり不味くなってしまうのだ。食えないわけではないが、進んで食べようとも思わない。


「でも作り直している時間もないし……失敗したなぁ……」


 ため息をつく。こんな初歩的な失敗は久しぶりだ。それほどにショックだった、という事実が驚きだった。


「ま、そういう時もあるわよ。けど、今の表情の方がよっぽどいい。さっきまでよりはね」

 そうか、と呟く。今だ心は晴れないが、それでも少しだけ

「じゃあ、飯にしようか」

 



 飯を食って、片付けを終わらせてから風呂に入る。それでだいぶ感情の整理ができた。

 結局、俺がやらなくてはいけないことは一つだけで、それは怒ることじゃない。美咲を守ることこそが、やるべきことなのだ。


「本が好きなんですか?」


 本棚に入っている本を見ながら美咲が聞く。


「ああ、本が好きだし、仕事でも使ってるからな。読みたいなら勝手に読んでいいぞ」

「いいんですか?」

「ああ。おすすめはこれだな」


 一冊の本を手渡す。アーサー・コナン・ドイルのロストワールドだ。


「小説や映画は、知らない世界を見せてくれる。それが美咲を成長させてくれると思う」


 美咲がピンときてないような表情をしたので、


「ま、とりあえずいっぱい読めばいいってことだ。けどま、今日はもう寝ちまおう。疲れた」


 布団の中に入る。少しひんやりとした掛け布団は、二人分の体温でじきに暖かくなるだろう。


「あ、おやすみなさい」

「ああ」


 美咲が眠りに落ちる。相当疲れていたのだろう。知らない人と会ったのだから。


「っ……ヤダ、止めて……痛いの、ヤダ……」


 美咲が呟く。夢を見ているのだろう。表情が苦しげだ。

 戦場でもない限り、睡眠時は人間が最も安らげる時間だ。そんな時間だからこそ、苦しんで欲しくない。


「あ、嫌……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」 

「大丈夫、大丈夫だから──」


 ――これ以上、苦しまないで欲しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る