気付かされる感情
別荘の浴室は極々シンプルだが豪華な作りをしている。ヒノキのいい匂いがする正方形の浴槽だったり、三人まで同時に体を洗える横並びのシャワーだとか、小さな銭湯といった感じだ。
壁に設置されている白い機械を操作して、追い焚きする。その後で脱衣所に戻り、タオルで濡れた髪の毛を拭いている美咲に声をかける。
「沸くまでの間に体を洗ってな。上がったら教えてくれ」
「慎二さんは入らないんですか?」
「俺より美咲のほうが長く外に居たんだから、その分体が冷えてる。だから美咲が先だ」
「やっぱり、慎二さんはそう言うんですね。自分の事よりも、わたしの事を優先してくれる。けど――」
美咲が脱衣所の鍵を閉める。寝る前とは違う、強い意志を目に宿してこちらを見据えてくる。
「どうしたんだ?」
「慎二さんはわたしを受け入れてくれた。だからこそ見て欲しいんです」
「見て欲しいって、何を――」
言い切るより早く、美咲が服を脱いだ。
「おい、何をしているのかわかっているのか?」
「わかっています。これはわたしの意志ですから」
いまだ肋骨が浮き出るほどには痩せている体、傷だらけの体だ。目を逸らしたくなるほどに痛々しい。
「逃げないでください。お願いします」
強い目で美咲が見つめてくる。そう、それは傷跡を含めて受け入れて欲しいという意思表示なのだろう。
初めて、美咲が強い意志を持って何かを求めてきた。ならば俺はそれを受け入れるだけだ。
彼女の体を見つめる。下着で隠されている部分を除外しても、かなりの数の傷があるように見える。
左下腹部には大きな火傷の跡、おそらくは熱湯をかけられたのだろう。タバコを押し付けられた火傷の跡に、全身切り傷だらけ。以前服屋で見た時には目立たなかった傷跡も多数あって、今までよく生存出来たなと素直に思うほどに酷かった。
胸部から首下、今まで服で隠されていた場所は爛れていた。刃物で横一線に斬られた所に高熱を押し付けた、というような感じだ。おそらくアイロンか何かを。
彼女が受けてきた虐待の跡、彼女が生きてきた
「醜いですよね……ほんとは、誰にも見せるつもりはなかった。けど、慎二さんには知っておいて欲しかったんです」
美咲が背中を見せる。そこは赤黒く変色した肌があった。火傷の跡とも違う、何か別のものだ。
「これは、わたしの持つ痛みの中で最も痛かったものです。わたしが痛みを失った理由。あの時、何かよくわからない液体を掛けられたんです。燃えるような痛みと暗闇の中で、わたしの心は一度死にました。目を失ったときよりも、その時のほうが痛くて、心を殺すしかなかった。けどそれでも良かったんです。だって、その日から何をされても痛くなくなったんですから。ある日、唐突に逃げ出そうって考えた日も、心は死んだままで。あの日、慎二さんに会うまでずっと死人のままでした」
そんなのは間違っている。それは何一つだっていいことじゃない、と否定したかった。けど、彼女はそうするしかなかった。だから否定できない。
「俺には美咲の痛みや苦しみは解らない。それは俺の経験じゃないから、想像しかできない。だけどそれは美咲が歩んできた人生だ。俺はそれをすべて受け入れて、美咲を明日に導いていくよ」
「――ありがとうございます、全部受け入れてくれて」美咲はその返事を大切そうに語り、「後ろを向いて貰えますか?」
頷いて後ろを向くと、背中に衝撃と柔らかさが訪れた。ひんやりとした、それでいてハッキリと温かい体温が俺の背中を支配する。美咲が抱きついているのだろう。
「わたし、ずっと考えてました。わたしの中にあるこの気持ちは何なんだろうって。慎二さんの傍にいると、それだけで気持ちが落ち着かなくて、狂ってしまいそうで」
ドキリ、とする。その言葉の続きが予測できたから。
「これ以上迷惑を掛けたくなかった理由はもう一つあって……わたし、慎二さんの事が好きです。だから……」
美咲の絞り出すような声に体中が凍っていく錯覚に陥る。美咲の告白に、思考のヒューズがどっかに言ってしまった。
美咲が俺の事を好いてくれている。そりゃ、美咲は傍目に見ても美少女だと思う。
けど、俺は美咲の保護者だ。その言葉に応えることなんて、出来るはずもない。ただ、同時に彼女が勇気を出して告白してきたのなら、真摯に受け止めて返事をしないといけない。
「ごめん、すぐには返事できない。大事なことだから、ちゃんと自分の中で納得のいく答えを出したいんだ。だから、夜明けまで待ってくれないか」
「……わかりました。今日は、一番奥の部屋で寝ますね」
美咲が離れていく。この場に居るのが耐えられなくて、たまらず脱衣所から逃げ出した。
そのまま走って自分の個室に入る。息を深く吸い込むと、少しだけ思考がクリアになった。
寒さは感じられなかった。そんな事を感じている余裕はない。ただ、今のままだと無意識下で感じているはずの寒さのせいで思考を止めてしまいそうで、エアコンのスイッチを入れた。
いや、いっそ思考を止めてしまえたらと思う。このまま俺も美咲も、世界さえも今この瞬間のまま止まってしまったらと思わずにはいられない。
向き合うのが怖かった。どう返事をしても、今の関係性が壊れてしまう。いっそ、それは俺が好きなんじゃなくて、恋に恋しているんだって諭せれば良かったのに。それはひと時のまやかしなんだって、ハッキリと否定出来たらいいのに。
でも、あの声は紛れもなく俺に向けられたものだった。俺を経由して他の何かに向けて紡がれた声じゃなかったんだ。だから向き合わなくちゃいけない。美咲の俺に対する恋心と、俺自身が彼女に対してどう思っているのかを。
「俺は……どうなんだ」
目を閉じる。思考はぐるぐると渦巻のように螺旋していて、答えが見つかりそうにない。
美咲――俺の大切な家族。俺に笑顔をくれた人。目を閉じて彼女の事を想うと、彼女の笑顔が浮かび上がってくる。どこか影のある、控えめで可愛らしい笑顔が。
彼女には笑っていて欲しい。最初に会った日、何もないその空虚な目が辛かった。彼女が両親に連れ去られた時、俺が助けに行ったときの目は空虚だった頃に戻っていて、それが嫌だった。
ずっと一緒に居たい。その笑顔をずっと見ていたい。それは家族としての感情だ。というよりも、そう思わずにはいられなかったのだ。
儚く、消え去りそうな少女に対する感情として、それを持ってはいけないんだと無意識化で自分に言い聞かせてきた。今やっと、それを自覚できた。
なんだ。答えはとっくに出ていて、ただそれに気が付くという当たり前の事を恐れていただけだったんだ。
思えば、最初から妹や娘のような感覚を抱いていなかった。否、抱けなかった。そう思おうとしたことはあった。クリスマスの時、フードコートで自分に言い聞かせた。けどそれは意味を成さない事だった。
美咲を助けるとき、家族だから命を賭けた。けどそれは理由の一つに過ぎなくて、もっと単純で複雑な感情に動かされていたんだ、とも理解した。好きになってしまったから、離れて欲しくなかった。ただ、その好きから逃げていただけで。
「答えは簡単だったんだな……俺は、美咲の事が好きだ」
明確に、言葉に出してその感情を確かめる。もう、この気持ちから逃げることはしない。
目を開ける。テーブルの上には出しっぱなしの日記帳。それに触れる。この最期の文を彼女がどんな気持ちで書いたのか、少しだけ理解した。好きな相手に綴る別れの言葉。自分の心を押し殺して、ただ去ろうとした。ただ、彼女は俺と違ってその気持ちと向き合っていたのだろう。そうでなければ告白なんて出来ないだろうから。
時計を見ると、間もなく夜明けだろうという時間だった。そもそも帰ってきた時間が遅かったのだろう。あるいは思っていたよりも長い思考だったのか。兎に角、答えは出た。後はそれを伝えるだけだ。
けれど、濡れたままで伝えるのはどうかと思ったので風呂に入ることにした。
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