かくして、同居生活はこう始まる

「じゃあ、また明後日の検査でな。なんかあれば言ってくれ」


 別れ際に篠原がそう言った。

 病院を後にして、車に戻る。すっかり暗くなっていた。


「ずいぶんと冷えるな……美咲、さっさと車に戻ろうぜ」


 夜となると一段と冷え込む。車まで急いで戻る。鍵を開けて乗り込み、クラッチペダルを踏み込んでエンジンをかける。

 それと同時にエアコンを動かし、暖を取ろうとして──やめた。メーターの右下、水温計が上がらないと冷たい風しか出ないことを思い出したからだ。

 最新の車ならすぐに暖かい風が出るのだが、とため息が出る。数少ない不満点だ。


「少し寒いけど、すぐ暖房が効くようになるからな」


 ギアを入れて軽くアクセルを煽る。クラッチペダルを徐々に上げていき、発進させた。


「なあ、本当に俺でよかったのか?」


 車を走らせながら美咲に聞く。


「はい……初めてだったんです。あんなに暖かくて、安心できる人って……だから、慎二さんと一緒にいたいって思っちゃったんです……わがままですよね、わたし」


 呆れた。周りの大人は彼女のことを本当に気にかけてやらなかったのだ。

 だって、安心できる人のそばにいたいって感情は人として当たり前のことで、気にかけられていたのなら、その人が安心できる対象になるはずだ。


「そんなのわがままでもなんでもない。美咲はまだ子供なんだから、もっと遠慮せず言ってもいいんだぞ」

「う、うん……ありがとうございます」


 車の暖房が効き始める頃、商店街に入った。そういえば、魚屋に後で買いに行くって言っちまったな、と思い出した。思い出してしまったので、魚屋の前で車を停める。こういう約束事は守るに限る。でなければ、割引の機会を失うことになってしまうから。


「悪い、ちょっとだけ待っててくれ」


 リュックサックから財布を取り出して、車を降りる。


「お、慎二じゃねぇか。そろそろ店を閉めようと思ってたんだが……客が来れば売るのが仕事だ。いい魚が揃ってるぜ」

「悪いな、遅くなって。そうだな……」


 サケ、サバ、アジ、ヒラメ、金目鯛。どれも良いが、どうしようか。そう考えていると、白い花が舞いはじめた。

 綺麗な結晶の花。手のひらに乗せると、スウッと溶けていく。


「お、雪だ。今夜は冷え込むぜ、慎二」

「本当だ……そうだな、今日は鍋にしよう。タラを二尾くれ」

「あいよ」

「あと明日の朝飯か──鮭を三尾くれ」

「合計で六百円だな」


 財布から小銭を出して手渡す。


「しかし鍋か。俺も今日は鍋にするか──っと、ほら」


 魚屋が袋を投げて渡してくる。中を覗くと、蒸す前の肉まんが入っていた。


「お裾分けだ。安売りしてたから、ずいぶんと買っちまった」

「ん、サンキュ。ありがたくいただく」


 礼を言って車に戻る。


「じゃ、帰って飯にするか」

「は、はい」




 病院に行く直前に飯を食った事を考えると、残ってしまうかなと思っていたのだが、


「ご馳走様でした」


 結局、タラを入れた鍋は二人で完食してしまった。食べている間の美咲は幸せそうで、見ているこちらまで幸せになれた。

 思った以上に健啖家けんたんかなのだろうか、それとも栄養を摂取するために肉体側が許容量を増やしているのかはわからない。

 これからは美咲と食事をする事が日常になっていく。彼女がそれで幸せになってくれれば、それはとても嬉しいことだ。


「さて、寝る前に風呂入らないとな」


 時刻は既に午後十時。肉まんは明日にまわそう。


「アレックス、追い焚き」


 スマートスピーカー経由で湯を温める。便利な時代だ。


「んじゃ、湯が沸くまでに部屋を決めちまおう。ついて来てくれ」


 居間を出る。奥の方に行くと曲がり角があるので曲がる。その後すぐ右手の部屋が俺の部屋。


「ここが俺の部屋だ」


 大きさの同じ部屋があと三つ並んでいる。どの部屋も寸分たがわず同じ構造をしている。


「で、この奥の部屋はどこも空き部屋だから、好きな所選んでいいぞ」


 そう言うと、美咲はその一個奥の部屋を覗いて、


「ここがいいです……」

「え? まだ他のとこ見てない──ああ、そうか。わかった」


 なぜ彼女がここを選んだのか。その理由を理解してそう答えた。

 彼女は一人になりたくないから、できるだけ近くの部屋を選んだのだろう。であれば俺は受け入れるだけだ。


「よし、じゃあさっさと風呂に入って寝ちまおう。明日はいろいろ買いに行かないといけないからな」


 衣類や日用品が全く足りていない。確かに日用品の予備はあるにはあるが、大人用のものばかりだ。歯ブラシや、バスタオルなどの雑貨は体の大きさに適した物を使う必要があるだろう。

 故に買い出しに行かなければならない。

 美咲を脱衣所まで連れていく。


「さすがに一緒ってわけにはいかないから、この辺で待ってる。ゆっくり入っておいで」


 脱衣所を出て、ドアを閉める。浴室のドアが閉められた音を確認してから、


「さて、さっさとやりますか」


 静かに移動する。近くにいると思わせたいからだ。

 居間の前まで移動して、そこから庭に出る。庭には倉庫にしている土蔵があるので、そこまで移動する。

 土蔵はそこそこの大きさで、意外と暖かい。さすがに冬場の寝床としては使えないけれど。

 中に入ると、自動車の回転計タコメーター──つけようとして断念した──や家具家電が散乱している。

 時季外れの家電や、使っていない家具などだ。その中から電気ストーブを探し出して、持ち上げる。コンセントケーブルを肩にかけ、家に戻る。

 脱衣所から最も近い廊下のコンセントに差し込んで電源を入れると、しっかり稼働した。これなら問題ないだろう。


「あ、あの……上がりました」


 確認していると、良いタイミングで美咲が戻ってくる。火照っているのか顔が少し赤い。


「ほいじゃ、部屋に──」

「あ、あの。慎二さんはいつ入るんですか?」

「ん? ああ、布団引いてから入ろうかなって」


 ストーブを抱える。美咲がそれを不思議そうに眺めているので、


「冬は寒いからな。ストーブあったほうがいいだろ」

「そんな……わたしは平気ですから……」

「そんなこと言うな。ここに居るからには、そんな事で我慢なんてさせてやるもんか」


 ストーブを美咲の部屋に運ぶ。コンセントを差して電源を入れる。ややあって部屋がほのかに暖かくなっていくのを感じた。これで彼女が凍えることはないだろう。

 押入れから布団を取り出して、床に敷く。


「家にはベッドなんてないからな。悪いけど布団で我慢してくれ」

「あ……いえ、いつも床で寝ていたので……」

「床でって……それじゃ疲れも取れないだろ」


 美咲の親は何を考えているのか。確かに俺も仮眠するときなんかは床で寝ることもあるが、肉体の疲れはそれでは解れていかないし、心だって休まってくれはしない。


「じゃあ、これを機にそんなバカげた眠り方から脱却しないとな。俺は風呂に入ってくるんで、寝るならストーブのタイマーを使うようにしてくれ。起動しっぱなしだと危険だからな。で、起きたら布団を畳むのだけよろしく。じゃあ、おやすみ」

「あ……おやすみなさい……」

 



「いろいろあったな……なんか、たった一日で一週間分ぐらい疲れた」

 天井を見上げて、左腕をダランと浴槽から出して呟く。明日は服や日用品を買いに行かないと。学校は休むしかないだろう。

 しかし、問題は山積みだ。まずは戸籍の問題。法的な問題もあるし、彼女の心の問題もある。

 最優先するべきなのは心の問題だろう。戸籍は龍さんに頼めばすぐに済むし、捜索届けさえ出されなければ──そしておそらくは出されないだろう──法律もなんとかなる。

 だが、心の傷だけはすぐにどうにかできる問題でもない。

 結局のところ、俺は無力だ。カウンセリングの経験なんてあるわけないし、龍さんに頼まなければ、戸籍の一つすら用意できない。


「慎二、手を取ったなら見捨てるな」


 篠原が帰り際にそう言ったのを思い出す。俺にできることはそれだけ。要するに、


 見捨てない事。

 そばにいる事。

 大切にする事。


 それだけなのだ。

 そうやって考えていると、のぼせてきた。浴槽から出て脱衣所に戻る。バスタオルを手に取って、体を拭いて、下着とパジャマを着る。冬の空気が火照った体を程よく冷やしてくれて、ありがたい。

 自室に戻る。仕事用のノートパソコンが置かれた小さな机と、本が無数に詰め込まれた本棚、畳まれた布団しかない和室だ。

 布団を敷いて潜り込む。風呂で火照ったからだと掛け布団の暖かさで、今が雪の降る冬ということを忘れてしまいそうだ。

 美咲の部屋に意識を向ける。物音がしたり、といったことは無いからもう寝たのだろう。布団を敷いて潜り込む。

 けど、なかなか寝付けない。目を閉じると、彼女の親に対する怒りが湧き出てくる。なんだって彼女が苦しまなければならないんだって、そう考えて眠れない。

 物音がした。隣の部屋だ。ドアを開ける音と足音。疑問に思って体を起こす。足音は、俺の部屋の前で止まった。少しして、


「あ、あのっ……まだ起きてますか……」


 遠慮するような声で声の主──美咲が言った。


「ああ、どうかした?」

「あ、いや……その……」

「とりあえず、入ってきたらどうだ?」


 ゆっくりとドアが開かれる。


「あ、その……」

「眠れないってところか?」

「は、はい……ごめんなさい」

「別に謝ることじゃないさ。なんで眠れないんだ?」

「その……」と彼女は数秒沈黙して、「怖いんです。これは夢で、目を覚ましたらまた寒いところで一人に……」


 彼女は震えていた。恐怖する姿は、不謹慎ながらも小動物のようだった。


「そうか……じゃあ、一緒に寝るか? そうすれば間違いなく現実だって、ちゃんと信じられると思うからさ」


 彼女は言葉を発さず、ただ頷いた。ゆっくりと、こちらに来るので、掛け布団をめくって入るよう促す。彼女が恐る恐る入ってくる。


「いいのかな……こんな幸せ……」

「いいに決まっているだろ。大体、今まで散々な目にあってきたんだから、その分まで幸せになんなくちゃ帳尻が合わないってもんだ」

「けど……」


 抱きしめる。小さい体は、今にも壊れてしまいそうだ。


「俺の鼓動が聞こえるか?」

「え……はい、聞こえます」

「なら、その音に意識を集中させろ。そうすれば、あっという間に眠れるさ」


 優しく、背中を撫でてやる。幼い頃、母にやってもらったように。

 そうしているうちに、俺の意識も徐々に消えていく。

 そうして、美咲と出会った最初の日が終わった。

 この頃に比べれば、随分と健康的になったものだな、と思う。とはいえまだ痩せすぎだが。

 その小さな命を感じていると、今度は本当に眠りにつく事ができた。

 


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