第二八回(文政六年三月)


 暦は若干前後し、ときは文政六年三月、西暦なら一八二三年四月。「古事記絵本」「古事記絵図」の第一弾が刊行された直後のこと。同時期には縁為亭未来の「鎮西武英闘七兵伝」肇輯が脱稿し出版準備が本格化、山青堂は何かと慌ただしくなっている。

 その中で、達郎の身の周りではちょっとした事件が起こっていた。

 ある日の夕刻、達郎が右京を連れて銭湯に行き、その帰り道。春となり日が暮れても寒くならず、湯上りに火照った身体に夜風が心地よい。達郎が右京と手をつないでのんびり歩いていると、


「? どうした、右京」


 右京が転びそうになり足を止めた。達郎はしゃがみ込んで目の高さを合わせる。が、右京は視線を合わせずに元来た方向を見つめている。その顔は普段と変わらぬ仏頂面なので判りにくいが、どうやら何かを警戒しているようだった。

 右京の見ているものを達郎も見ようとし、その方向へと視線を向ける。するとそれを避けるように一人の男が身を翻して物陰に隠れた。

 少しの間様子をうかがうが男が出てくる気配はない。達郎は再び帰路へと就いた。右京はずっと後方に視線を向けたままで、達郎もだんだんと誰かに尾行されている気がしてくる。我知らずのうちに足早となっていた。

 不審人物の存在は達郎や右京の気のせいではなく、その日以降山青堂周辺で目撃例が頻発した。


「職人っぽい若い男がうちの様子をうかがっていました」


 と手代の銀吉。


「お隣のおかみさんに見知らぬ男の人が話しかけてきて、裏太郎さんのことを聞き出そうとしたそうです」


 と左近。二一世紀には近所付き合いが完全に廃れ、何年も住んでいても隣の住人と一言もしゃべったことがない、という話は珍しくない……むしろそちらの方が一般的かもしれない。が、この時代の近所付き合いは達郎が辟易するくらいに濃密だった。それに娯楽の少ない時代でもあり、噂話は光の速さでご近所に広がっていく。


「どこかの職人と思われる若い男が山青堂の周りをうろつき、裏太郎の様子をうかがっている」


 という話は山青堂の周辺で周知の事実となった。この間わずか二日三日のことである。


「どうしますか、兄さん」


「どうすると言われても」


 そうお内に問われ、達郎は困惑した。


「相手の目的が判らないことには……」


「捕まえて話を聞き出せたらいいんですけどね」


「捕まえてきました!」


 金吉と手代の二人が簀巻きにした男を担いで店に戻ってきたのは、まさにそのときだった。捕縛には何人ものご近所の男衆も加わっており、まるでお祭り騒ぎだ。達郎とお内はまずご近所の皆さんに深々と頭を下げてくり返しお礼を言った。


「それで、どういうことだ?」


 ご近所への応対をお内に任せた達郎が金吉に問い、彼は誇らしげに胸を張った。


「こいつが物陰に隠れてうちをうかがっているのを見つけたんです。だから逃げられないように人を集めて」


 なるほど、達郎は頷く。金吉達へのご褒美もお内に任せるとして、達郎の役割は問題の男に対処することだった。

 男は既に拘束から解放されているが金吉達に完全包囲されたままだ。男は店の三和土にあぐらで座り込み、開き直ったように腕を組み堂々と胸を張っていた。年齢は、達郎とあまり変わらないくらいだろう。服装や雰囲気は職人のそれのように感じられる。火消し人足のように非常に威勢の良い、粋な江戸っ子の典型例のように思われた。


「どうした、何の騒ぎでい」


 そこにふらっと現れたのは葛飾北斎だ。先生、と達郎は背筋を伸ばした。


「ええっとですね」


 と達郎がどこから説明しようとか考えて男に目を向けると、彼はいつの間に正座に姿勢を変えている。


「もしやこの方は……」


 と大きく目を見開きそう問う職人風の男。葛飾北斎先生です、と達郎が答えると男は「やはり」と背筋を伸ばした。


「なんだ、こいつは?」


 それは俺が訊きたい、と思う達郎だがその間に男は手を突いて大きく伏せて、


「どうか俺を先生の弟子にしてください!」


 土下座して頼み込む。達郎と北斎は顔を見合わせてしまった。

 ……それからしばらくの時間を置き。達郎、北斎、そして問題の男は奥の居間へと移動している。北斎は上座であぐらをかき、少し離れてその横に達郎。その男は二人の向かいで正座である。


「それでお前さん、名前は?」


「今は採芳舎国芳と」


 その名乗りに達郎は「ん?」と首を傾げた。


「絵は誰に教わっている?」


「師匠は豊国先生です」


「歌川門下か」


 思わず立ち上がった達郎が愕然とした顔でその男を見つめる。大声を出さなかったのはほとんど奇跡だった。男が「なんでい」と訝しげに問う。


「……まさか。まさかあの――歌川国芳」


「今は採芳舎だ」


 国芳が世を拗ねたように言う。達郎が何とかその事実を呑み込み、再び席に着くまでそれなりの時間が必要だった。

 ――歌川国芳。天保から幕末にかけて人気を博した、時代を代表する浮世絵師。優れたデッサン力と豊かな発想で武者絵から美人画、戯画、怪奇画まで幅広い作品を数多く残している。特に怪奇画の奇想鬼才ぶりはあの北斎にも匹敵すると言われているくらいである。


「でも、あの歌川国芳がどうして……あ、北斎先生に弟子入りするためにうちのことをうかがっていたんですか」


 急変した達郎の態度を不審に思いつつ、国芳はその問いに「ああ、いや」と応えにくそうにした。


「何にしても歌川門下を勝手に弟子にするのはなぁ。豊国のやつから学ぶこともまだまだ多いだろう」


 北斎はそう言ってその弟子入りを断ってしまい、国芳は大きく肩を落とした。史実でも国芳は北斎に弟子入りしようとするがそれはずっと先、弘化(一八四四年)以降のことだ。なお史実でもその弟子入りは断られたという。


「それに、この店の周りでうろついていたのは俺に弟子入りするためじゃあるまい。最初はこいつの弟子になるつもりだったんじゃねえのか」


 北斎がそう言って達郎を指し示す。国芳は何も言わないままだがどうやらそれは正鵠を射ていたようだった。ただ、どこか悔しげな表情からして、


「知り合いを介さずに飛び込みで弟子入りするのは難しく、迷っていたと」


 それにこの時期の国芳は兄弟子の国貞に人気の面で遠く及ばず、不遇と低迷の時代だったはずである。水滸伝の武者絵が大評判となり一躍人気絵師となるのは文政一〇年頃、そう遠い未来ではないがそんなことは当人だって知るはずがない。それに対して草生ル萌は浮世絵の歴史を変える絵、「萌え絵」を生み出し、その衝撃は画壇だけでなく江戸中を席巻する勢いだ。自分よりも若い達郎に(国芳は一七九八年生まれで、達郎よりも二歳年上となる)鬱屈した嫉妬を感じ、弟子入りに抵抗を覚えるのも当然のことだろう。


「絵を教わりたいというのなら構いません。むしろ喜んで教えましょう」


 国芳が顔を上げるが、何を言われたのかいまいち理解が及ばないようだった。


「もちろん無償ただで、ってわけじゃないですけど」


 すぱぁん!と勢いよく襖が開いて満面の笑みのお内が登場。達郎は即座に襖を閉めた。


「……ええっとその、謝儀は払ってもらおうと思います。こんなもので」


 と算盤を弾いてそれを示し、国芳は渋い顔となった。だがその授業料は英泉や応為のそれと同額であり、それを伝えると彼も納得したようだった。


「判った。だがあいにく今は手元不如意でな。支払いはしばらく待ってほしい」


「それは構いませんけど……ああ、そうだ。それならいっそ謝儀の代わりにうちで絵を描きませんか? 今やっている『古事記絵図』に絵師として加わってもらうんです」


「それは……」


 と呆然としたようになる国芳。絵を教わるだけでなく仕事を回してもらい、さらにはその仕事が北斎や英泉との競作なのである。あまりに旨い、都合の良すぎる話であり、国芳はかえって警戒した。


「願ってもない話だが、いいのか? 俺の絵を出すなんて」


山青堂うちしても願ってもない話ですよ? あの歌川国芳の絵を刊行できるんですから」


 お内はあまりいい顔をしないかもしれないが達郎は彼を絶対に逃がさないつもりだった。歌川国芳という絵師がこの先どれほどの存在となるか、達郎はこの時代の誰よりもよく知っているのだから。


「……ふん、そこまで言うなら是非もない。描いてやるよ」


 国芳はそう言って偉そうに胸を張った。


「渓斎英泉や葛飾応為も目じゃないくらいの、草生ル萌だって喰っちまうような絵をな!」


 燃え上がる闘争心や対抗意識をぶつけるようにそう宣言。だが達郎はそれを涼風のように受け流し、


「ええ、期待していますよ」


 心からそう言い、笑うだけだ。国芳は肩透かしを受けたような顔となり、北斎はそんな二人を面白そうに見物するばかりだった。






「遠近法と陰影法、西洋絵画の真髄は畢竟この二つです」


 翌日から達郎の絵画教室が開講され、国芳がそれを受講した。彼は達郎の教えをあっという間に、見る見るうちに吸収し、消化していく。さらには貪欲に新たな知識や技法を求め、達郎は何度もたじたじとさせられた。さすがに歴史にその名を残す天才鬼才という他ない。

 どうやら弟子入り前から達郎の萌え絵に着目し、模写などでその極意を手に入れようとしていたらしい。このためほんの数日で教えることがなくなり、絵画教室は卒業の運びとなった。

 ただし、教わったことを消化して自らの血肉とし、そこから自分流の新たな絵を生み出すのはそう簡単にできることではない。英泉がそうであったように国芳もまた壁にぶつかったようだった。


「兄さん、いい加減歌川さんに絵を仕上げてもらわないと間に合わないんですけど」


 お内に急かされた達郎は進捗をうかがいに国芳の家を訪れた。絵師としてなかなか芽の出ない国芳は一時期兄弟子の一人、国直の家に居候をしてその仕事を手伝っていたという。この時期には既に一人暮らしだが住んでいるのは国直宅のすぐ近くの長屋だった。

 玄関を開ければ、文机に向かう国芳の背中は数メートル先だ。ごめんください、と一声かけ、返答はないが勝手に家の中へと上がっていく。部屋の中は、北斎のそれほどではないにしても非常に乱雑だった。達郎はゴミか何かよく判らないものを避けながら進んでいく。


「どうですか? 進み具合は」


 不注意で足元の壺を倒してしまう達郎。その中に入っていたのは液体ではなく、何匹もの蛇だった。蛇が思いがけない速さで四方へと這って逃げ、達郎が短い悲鳴を上げて硬直する。


「あ、あの、すみません。蛇を」


「今描き上がったところだ」


 逃げた蛇のことなど一切気にせず、国芳が絵を達郎へと差し出す。達郎もその絵を受け取ってじっと眺めた。


「……」


 達郎は何も言わない。だがその不満げな目は何よりも雄弁に「この程度なのか」と物語っていた。強く舌打ちした国芳が絵を取り返し、それをびりびりに破り捨ててしまう。彼は達郎に背を向けて文机に向かい、次の紙を置き、筆を手に取った。だがその手は長い時間動かないままである。達郎は彼の傍らに置かれていた草稿を手に取り、目を通した。

 そこに記されているのは古事記の中の一場面、スサノオの八岐大蛇退治を簡潔にまとめたものである。渓斎英泉の話に絵を付けるのが国芳の役目であり、彼に描かせるのにそのエピソードを選んだのが達郎であることは、言うまでもなかった。勇壮な武者絵で名を成し、奇想天外な怪奇画で名を残した歌川国芳だ。日本神話最大のモンスターとそれを倒した勇者の絵を描いてもらおうとするのは、達郎にとっては当然以前の話である。

 だがそれは達郎だけの都合だった。今の彼は兄弟子の国貞の陰に隠れた、無名の二流絵師でしかない。


「下手な絵は描けん。世間をあっと言わせるものを……!」


 今回は国芳が単独で絵を出すわけではなく、北斎や英泉との競作だ。その絵はどうしたって彼等と比較され、好き勝手に批評されることだろう。ここで北斎や英泉に負けない絵が描けたなら国芳の名は一夜で江戸中に広まるだろうが、もしつまらない絵しか描けなかったならあるいは二度と日の目を見ることができなくなるかもしれない。客観的に見れば、達郎は無名の若造を伸るか反るかの大博打に引きずり込んだようなものだった。達郎にはそんなつもりは欠片もないし、国芳にしてもたとえ博打だろうとこんな絶好の機会を見逃すはずはないのだが。


「見る者の度肝を抜いてやれるような絵を……!」


 が、今さっき国芳が仕上げた絵はどこかで見たような、ありきたりのつまらない絵でしかなかった。スサノオと八岐大蛇が向き合うのを横から描いた構図なのだが、スサノオは棒立ちだし八岐大蛇はただ蛇を大きくしただけだ。綿密でリアルな蛇の描写にはさすがと言いたいが、達郎が歌川国芳に求めているのはそんなことではないのである。


「おい」


「はい?」


 振り向いた国芳が剣呑な目を向け、達郎は間の抜けた声を出した。


「俺の絵の何がつまらなかった」


「八岐大蛇小っちゃ!って思いました」


 達郎が身も蓋もない物言いをし、国芳が苦虫を噛み潰したように唸っている。国芳はスサノオと八岐大蛇両方の全身を描き、このため八岐大蛇のサイズがせいぜい数メートル程度となってしまったのだ。達郎が英泉の草稿を手にし、それを読み上げた。


「頭と尾は八つあり、眼は赤き鬼灯ほおずきの如し。背には松や柏が生え、八つの丘、八つの谷にまたがる也――顔だけでもきっと見上げるほど大きくて、口を開ければその辺の家くらい軽く一呑みできて、牙の大きさが人の膝丈くらいになるかもしれません」


 達郎が脳裏の八岐大蛇を虚空に口で描いて示し、瞠目した国芳がそれを見つめた。


「這って進めば地震のように地面が揺れて山崩れが起き、家が傾き屋根の瓦が落ちてきて。八つの首はそれぞれが動いて、大きく鎌首を持ち上げればまるで天を全て覆うよう。口から吐き出される怪光線が大地を切り裂き焼き尽くし!」


 回航船?と国芳が首を傾げ、達郎は咳払いをしてごまかした。八岐大蛇を描写するのに参考としたのがキングギドラだったため、つい両者を混同してしまったのだ。


「ええっと、毒を吐き出すという伝承もあるとかないとか」


 言い訳のように説明するが、国芳はそれを聞いていなかった。顎に手を当てて一心に何かを考え込んでいる。かと思うと筆を手に取り、一心不乱に絵を描き出した。達郎はただその背中を見守っている。


「……描き上がった。見てくれ」


 その絵が完成したときにはもう日が暮れ、夜となっていた。拝見します、とそれを受け取り、じっくりと見つめる。

 ――全体的に黒ばかりの、非常に暗い絵だった。背景は夜、暗闇の中の八岐大蛇をほとんどシルエットだけで描写している。ギラギラと光るのは目だけだ。あるいは手抜きのように感じられるかもれしないが、八岐大蛇の不気味さを表現するのにこれ以上の手段はないように思われた。背や足元に木々が描かれていて、その対比からちょっとした山ほどもある八岐大蛇の巨大さがよく判る。その鼻先に人影があり、おそらくこれがスサノオだろう。だがその大きさは米粒ほどで、人であることがかろうじて判るだけだ。

 ボツにした絵ではスサノオの勇壮さと八岐大蛇の不気味さ、その両方を描こうとしてどっちつかずの中途半端な絵となってしまった。今回はその反省を生かし、八岐大蛇の巨大さと恐ろしさを描くことに全てを集中させたのだ。史実でも歌川国芳は巨大なものをより大きく見せるために極端に小さなものと対比させる手法をよく使った。巨鯨と宮本武蔵の錦絵などが有名だが、今回の絵はその手法を史実よりもずっと早く開発したと言える。


「……これこそ歌川国芳、って感じです」


「ふん、まあまあそこそこの出来だな」


 満足げな達郎に対して国芳はそう言いながらも偉そうに胸を張る。ひねくれた物言いに達郎は苦笑するばかりだった。






 歌川国芳が描いた「古事記絵本」及び「古事記絵図」が刊行されたのは文政六年六月のことだった。この時点の国芳は全くの無名ではなくとも世間の評価は低く、錦絵の売れ行きも当初は伸び悩んだ。が、その奇抜な絵がやがて評判となり、次第に買い求める人が増えていく。最終的には充分黒字となってお内を満足させ、達郎も胸を撫で下ろした。

 そして「古事記絵本」「古事記絵図」の第五弾刊行は翌七月、絵師は達郎である。八岐大蛇退治の次は大国主命が登場し、その後は天孫降臨や神武東征と数々のエピソードがあるのだが達郎はそれを全部すっ飛ばした。そして一気に日本武尊まで行ってしまう。

 ヤマトタケルは達郎が最も好きな英雄であり、「鎮西武英闘七兵伝」では主人公の使令サーヴァントに配置しているし、元の時代でもヤマトタケルをサーヴァントとした「Fate」シリーズの二次創作を書いていたりする。それ等では当然のように男装の麗人としていたが、今回は普通に少年として登場させた。

 錦絵としたのはその死の直前、望郷の念を抱きながら立ち尽くす姿だ。彼が亡くなったのは三十の手前のとき。妃がいて子供もいるいい年の大人なのだが、達郎のイメージでは最期まで未成熟な少年のままであり、それをそのまま絵とした。顔立ちも女の子のように中性的で可愛らしくしている。

 ――そのヤマトタケルが故郷の方を、地平線の彼方を見つけている。描いたのは胸から上の大首絵で、全力を投じたのは表情の描写だ。もう帰れないことを理解し、それでも望郷の思いを捨てきれず、今にも泣き出しそうな子供のような顔となっている。それを少女漫画のように繊細な絵柄で最大限美しく描いたのである。当然のようにその絵は大評判となり売れに売れまくった。特に女性への人気が高かったという。

 「古事記絵本」や「古事記絵図」の人気の高さに、やがては他の絵師や書肆もこれを真似て古事記を題材にした錦絵を描き、古事記に関した本を出版するようになる。以降、古事記は出版界の一大ムーブメントとなりそれは長く続くこととなった。本来の歴史ではなかった展開である。

 後世、この時期の古事記ブームが民衆レベルでの日本神話の浸透に大きな役割を果たし、やがてはそれが黒船襲来時のナショナリズム高揚につがなった……と評されている。だがそれが春画の刊行から始まったことは歴史家の間でもあまり知られていないか、知られていても故意に無視される類の史実である。




参考文献

悳俊彦「もっと知りたい歌川国芳 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)」東京美術

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