第二三回



 文政七年一月の下旬。山青堂の前には何十人という貸本屋が列を成している。


「おい、まだ届かないのかよ」


「今日には仕上がるはずだろう」


 文句を言う貸本屋の面々をなだめるのは達郎の役目だった。


「済みません、もう少し待ってください」


 そうやってひたすら頭を下げて同じ台詞をくり返すこと数時間。日差しが傾きかけた頃にようやく手代の二人が戻ってきた。二人は大きな風呂敷包みを背負い、さらに両手に提げている。


「ご苦労様、早く早く」


 心底安堵した達郎は風呂敷包みを奪い取るようにして店の中へと運び込み、手代の二人が続いた。


「やっと届いたぞ」


「順番に並べてください」


 会話する時間も惜しんで作業を進めようとするお内。達郎達はその指示に従い紙の束を畳の上に並べていった。墨の匂いも鮮明でまだ乾ききってすらいないそれは、七兵伝の各丁である。七兵伝の増刷分がようやく委託先から届き、全て揃ったのだ。

 主に達郎や左近が各丁を順番に揃えた束にして、綴り紐を添付。お内はそのままの状態で、製本前の紙の束と綴り紐を販売した。貸本屋の仕事をしていれば古本の修繕で本の綴り直しをするのは通常業務で、彼等にとって苦になることでも何でもない。製本の工程を飛ばしてでも一日でも早く七兵伝が販売され、購入できる方がよほどありがたかったのだ。

 蔦重以来絶えてなかった伝説の再現にお内は勝ち誇ったような顔を達郎に示し、彼は困ったような苦笑を返すしかなかった。

 ――一月月初から販売開始しした七兵伝の売れ行きは、一月中旬に一旦底を突いた。ここからはもう時折思い出したように売れるくらいだろうと考えていた達郎だが、その予想は大いに裏切られる。下旬から貸本屋が再び七兵伝を買い求めるようになり、在庫はすぐに払底する。お内がかけた増刷分五百部もたった一日でほとんど売り切れてしまう有様だった。


「あの、前にも買いましたよね、七兵伝。どうしてまた同じものを」


 達郎が顔見知りの貸本屋に訊ねると彼等は口をそろえて言うのだ。


「そんなの、あちこちの客が読みたがってせっつかれるからに決まっているだろう。まだ貸してもらえないのか、って」


 この時期、七兵伝がないことには貸本屋は顧客に相手にしてもらえなかった、と伝えられている。江戸市中の七百軒とされる貸本屋の全てが最低一部七兵伝を有し、二部三部持っている者も珍しくはなかった。それでも過熱する一方の需要に供給が追い付いていないのである。お内はさらに千部増刷をかけるが、刷り上がるのは早くて二月の中旬から下旬の見通しだった。


「大丈夫なのか? そんなに刷って」


 と不安がる達郎に対してお内が示したのは、巻物のような長い紙に何百という名前を書き連ねた書面。増刷分の予約表だ。


「これだけで千部に届きそうな勢いですよ!」


 浮かれたお内がステップを踏んでくるくると回る。予約表の長い巻物がまるで天女の羽衣のように風になびいた。


「去年から売っている八犬伝の第五輯もまあまあ売れているみたいですねぇ! まあ、うちの七兵伝ほどじゃありませんけど!」


 お内は腰に手を当ててそう高笑いをした。


「ざまあみやがれってなもんですよ、あの因業じじい!」


 お内は七兵伝が八犬伝を圧倒したことに有頂天となっている。達郎も笑顔だが無言を通して節度を守り、左近はちょっと苦笑した。


「でもすごいです。『八犬伝よりも面白くて売れる話を書く』って言って、本当に書いてしまうんですから」


「あちこちで『七兵講』というのが作られているそうですよ。七兵伝を買うために知り合いが集まってお金を出し合っているとか」


「そんなの初めて聞きます」


 左近が手放しで賞賛し、お内もまた頷く。達郎はその賛辞に「ありがとうございます」と簡潔に返すだけだった――仮面のような笑顔のまま。

 二月に入ったある日、所用で柳亭種彦に会いに行ったときのこと。


「徹夜して二度三度読んだよ。今は奥(妻)の知り合いに貸し出している」


 戻ってくるのはいつのことか、と苦笑する種彦。


「お役に立っているような何よりです」


 達郎はそう言って笑顔を示した。

 またある日、渓斎英泉が山青堂へとやってきたときのこと。


「こんな奇想天外な話、よく思いつく」


 英泉はそう言って感に堪えぬとばかりに首を振った。


「八犬伝も破天荒だったが七兵伝はその上を行く。それに、八犬伝はどうしても翁の説教臭さが鼻についてしまうからな。七兵伝にはそれがないし、作中の人物は誰もが生き生きとしている。おお、そうだ。あれには腹を抱えて笑ったぞ」


 英泉が七兵伝の感想を延々と述べ、達郎は笑顔で相槌を打ち続けた。

 またある日の山青堂。


「七兵伝の第二輯は是非うちと半株で!」


「いやいや、何をおっしゃる。うちと組むに決まっているでしょう」


「あんたのところはもう八犬伝があるでしょうが!」


 青林堂越前屋長次郎(為永春水)、文溪堂丁子屋平兵衛、それに涌泉堂美濃屋甚三郎。彼等三人がたまたま同時に山青堂を訪れて鉢合わせとなり、その途端もめ出したのだ。


「山青堂さんだって一軒だけであれだけの大作を刊行するのは大変だったでしょう。うちと組めば負担は半分以下です!」


 丁子屋平兵衛が熱心に口説こうとするが「儲けも半分ですよね」とお内の反応はつれなかった。


「文溪堂さんには八犬伝を半分負ってもらっていますし」


 利益も半々で山分けにしている、とまでは口にしなかったが充分伝わったようである。そんなぁ、と情けない声を出し、丁子屋平兵衛はがっくりと肩を落とした。その一方で為永春水と美濃屋甚三郎は勢いづく。


「半株とは言いません、三分の一でも、四分の一でも! この通り!」


「先代とは長い付き合いもあることですし、うちと組んでくれてもいいんじゃないですか?!」


 為永春水は土下座せんばかりで、美濃屋甚三郎はこれまでの関係を持ち出す。さすがのお内も閉口し、達郎は我関せずとばかりにただニコニコしているだけだった。

 はたまたある日の山青堂。


「大したもんだな、大評判じゃねえか」


 その日、山青堂にふらっとやってきたのは葛飾北斎である。


「この間ようやく読んだが、途轍もなく面白かったぜ」


「恐縮です。一部献本しようと思っていたんですが」


 くれるというならもらってやる、というので北斎用に保管していたそれを進呈。


「弟子どもも喜ぶぜ」


 と北斎は相好を崩した。


「しかしまあ、あれだ。ここ十年二十年で随分とたくさん本が出されるようになって全部は読み切れないくらいだが、このうち百年先まで残るのはどのくらいなんだろうな」


「八犬伝は残ります。二百年先まで」


 達郎はまずそう即答した。


「十返舎一九の『東海道中膝栗毛』も、誰でも知っている本として名前が残っているでしょう。実際に読んだことのある人がどのくらいいるかはともかくとして」


「八犬伝もか?」


「八犬伝は、二百年先でも実際にくり返し読まれる本です。くり返し絵草紙やお芝居になる本です」


 まるで断言に北斎は少し怪訝な思いを抱くが、それを問いはしなかった。


「それだけか? 山東京伝や山東京山、恋川春町、式亭三馬は? 柳亭種彦は?」


 達郎は首を横に振る。


「名前も本も残ります。でもそれを、一部の学者や物好き以外の市井の町人が知っているかは、その本を読むかは……」


 しいて名を挙げるなら上田秋成の「雨月物語」くらいではないだろうか。一般レベルの読書好きが読むとするなら。


「はあ、二百年も経つとそうなっちまうのかい」


 と北斎は天を仰いだ。


「俺の名前も二百年後には一部の好事家以外には忘れられちまうのかねえ」


「葛飾北斎の名前は千年先でも不朽不滅です。日本史上最大の絵師として」


 達郎は本気でそう言うが北斎は単なる追従として受け止めたようで、苦笑するだけだ。達郎は重ねて、


「二百年後には英霊になって聖杯に召喚されますから!」


 北斎は爆笑して息も絶え絶えとなり、「しかも女体化して」という説明は続けられなかった。

 ……と、そんな世間話をし、七兵伝を受け取り、北斎は山青堂を辞去する。


「ああ、そうだ」


 と北斎は最後に、


「七兵伝はこの先ずっと市井でくり返し読まれ続けて、くり返し絵草紙やお芝居になるだろうよ。二百年経とうと三百年経とうと」


 達郎が返礼を口にしようとし、


「――おめえの名前も不朽不滅だよ」


 何も言えなくなり、ただ仮面のような笑顔となった。その、貼り付けたような笑みのまま達郎は北斎の背中を見送った。その内心を誰一人悟らせることなく。


 ――反吐が出る。


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