第二二回
文政六年の年末、「鎮西武英闘七兵伝」の刊行準備は最終段階となっていた。
二〇世紀以降の本では表紙の上にカバーをかけるのが一般的だ。表紙は簡素な印刷でもカバーはイラストや構成に凝り、手に取ってもらえるよう努力するのが当たり前である。この時代でもそれと同じように多色刷の華やかな絵を描いた袋入りの本が出されているが、それは廉価版とは別の特製本だった。
達郎もできればそういう特製本を作りたいと思っていたのだが、読本の主要な購買層は一般消費者でなく貸本屋である。一般の読者は貸本屋から本を借りて読む、という現状を鑑みるに、華やかな錦絵の袋入り本を出すことにどれだけ意味があるかは疑問だった。
元の時代の本のようにカバーをかけることも考えたが、それをやるとただでさえ高い値段がさらに上がってしまうので断念した。七兵伝の肇輯(第一集)は七冊一組という大作であり、その価格も実に銀一四匁。二一世紀の価格に換算するのは難しいが大工の日当が五匁なのでそれを基準とすると、一匁は三二〇〇円程度、一両は約二〇万円になるという。七兵伝の肇輯は約四万五千円にもなるのである。一般消費者にはなかなか手が出ないのも当然だった。
ただそれでも、できる範囲で表紙にも凝りたい。そこで選んだのが「使令(サーヴァント)のシルエットを黒一色で描写する」という手段だった。まず第一にお内の財布に優しいし、黒一色のシルエットだけでも躍動的なポーズを取らせて人目を惹きつけることは充分可能である。むしろ下手に多色刷りの表紙とするよりシルエットだけの方がすっきりしていてシンプルで格好良く、また読者の期待感をより高めるものとなったかもしれなかった。
「南総里見八犬伝」がそうであるように、「鎮西武英闘七兵伝」もまた表紙・序文・目次・口絵・広告・本文という構成である。八犬伝で宣伝されているのは滝沢家が内職で作っている薬だが七兵伝では「祓い屋三神」等の山青堂の本……というのはただの余談で、まず重要なのは序文だった。
「――明にて羅漢中『三国志演義』『水滸伝』綴り、本朝にて上田秋成、山東京伝世に問うを読本といふ。読本、曲亭馬琴をもって完成に至れり。我、曲亭馬琴なる巨人の肩に乗る小僧に過ぎず、かの翁が未到の荒野に切り拓き道にただ続く者に如かず」
この辺は本音そのままだが、正確を期するなら達郎が乗る巨人は馬琴一人のことではない。馬琴以来の歴史を引き継ぎ、二〇世紀から二一世紀にかけて活躍した巨星の数々、それに那須きのこ。達郎は先人の積み上げてきた成果をただ掠め取ったに過ぎなかった。
「――翁の八犬伝に比して七兵伝一足りず、学問の足らざるは百にも二百にもならん。己の至らなさをただ恥じ入るばかり也。地理人文青史ことごとく怪しければ、我を天下の阿呆と一笑に付されば幸い也」
この辺も本音そのままだったが、ただ高い金を出して本を買ってくれたお客さんに対してこんなことを書くのは失礼どころの話ではない。たとえどんなに自信がなくとも書くべき内容ではないのだが、それでも書く必要があったのだ。
「――『三国志演義』『水滸伝』を白話小説といひ、小説此れ『取るに足りぬ小話』の意也。拙作また小説に如かず。七兵伝此れ酔人の痴夢の如きもの。胡蝶の夢、一炊の夢、槐安の夢、ただ春の夜の夢の如し、金々先生栄花夢。婦幼がひととき浮世より離れ、夢幻の世に揺蕩うもの。それより上でも下でもなし。読者諸氏、ひととき拙作に夢中になりしを本望とす」
要するに、「七兵伝は婦女子を相手としたただの取るに足りない小話で、士大夫がまともに受け取るような代物ではありませんよー」とひたすら訴えているのだ――主に幕府に対して。馬琴の名前を出したのも、それを散々持ち上げているのも、「八犬伝が許されるならこれだって問題ないでしょう?」という姑息なアピールの意味もあった。そして「夢」という言葉をくり返して使っているのも「全てただの戯言であって真に受けるもんじゃありませんよ」という韜晦である……表向きは。
「胡蝶の夢」は荘子に伝えられる「蝶になった夢を見たが、果たして夢を見たのは自分か蝶か」と疑う故事。「一炊の夢」「槐安の夢」も、ひとときの夢の中で一生分の体験をしたという故事。「ただ春の夜の~」は平家物語の冒頭で、平家の盛衰を夢に喩えたもの。「金々先生栄花夢」は恋川春町の草双紙で、「一炊の夢」などに着想を得た内容だ。いずれも夢と現実の曖昧さ、現実が夢のように儚いものであることを表す言葉だが、達郎が言いたいのはそれではない。優れた物語に夢中になったとき、人は一生分に匹敵すると思えるような濃密な数時間を経験することができる――七兵伝もまたそんな物語だという自負の表現だった。そしてそれは最後の一文に集約されている。
「――その面白さ、八犬伝に勝るとも劣らぬと己惚れるもの也」
文政七年一月、西暦なら一八二四年二月初め。縁為亭未来の「鎮西武英闘七兵伝」肇輯が発売となった。前年刊行の「祓い屋三神」の広告で情報を小出しにして期待感を高め、前評判は上々だったがそれだけで満足する達郎ではない。
まず制作したのはキャラクターの等身大パネルだ。肇輯では坂田金時の見せ場や戦闘シーンがあり、またそれを切り取って広告にもしているので、彼を選ぶ。高さ二メートルにもなる、大雑把な人型にした木の板に紙を貼り、そこに坂田金時の絵を描くのだ。これだけ大きな絵を描くのは初めてのため何度か失敗するが、それでも最後には見栄えのするパネルを完成させて店先に置いた。
「おお、これが槍兵の使令か」
とやってきた貸本屋が感心する。何人もの貸本屋がそのパネルを囲み、山青堂の新奇な広告に関しておしゃべりに興じた。
店内に入ってきた貸本屋を出迎えるのはコスプレ店員である。もっともコスプレをしているのは一人だけ。右京に三神巳夜のような巫女服を着せて帳場に立たせているのだ。右京の仏頂面は相変わらずだがどうやらまんざらでもない様子で、また来客もその愛らしさに相好を崩している。神通棍とお札を手にした右京は適時ポーズを変え、来客の目を楽しませた。
なお、お内もまた七兵伝をして市中の話題をさらうべく手を打たんとしたのだ。が、
「どうしてこれは製本しないんですか?」
「いいんです、それは」
製本前の紙の束を前にした達郎の疑問に、綴り糸を手にしたお内が得意げに答える。
「製本が間に合わないので客に製本をしてもらおうと思います」
それは寛政元年(一七八九年)、耕書堂蔦屋重三郎が「天下一面鏡梅鉢」という草双紙を売りに出したときのこと。客が長蛇の列を成して製本が間に合わず、仕方なしに製本前の紙の束と綴り糸を渡して客に製本をさせたという。お内はその伝説を再現しようというのである。
「やめましょうよ、そんな姑息なことは」
伝説を作り出すためにわざと製本を遅らせるなど、本末転倒もいいところだ。達郎が強硬に反対し、左近もまた加勢したことによりお内のその案は断念となった。普通に製本した七兵伝を千部、店先に並べて売っていく。
発売一日目が終わり、売れたのは三百部ほど。思ったより売れなかった、というのが達郎の正直な所感だった。この時代、本は千部売れれば採算に乗る。が、千部売れれば「千部振舞」という特別なお祝いをしたくらいで、初版でそこまで売れることはほとんどなかったのだ。強気に初版で千部も刷ったせいでその分経費もかさみ、このまま失速してしまえば山青堂の経営が傾くことにもなりかねず、達郎は浮かない顔となった。
「値段のわりによく売れた方だと思います」
とお内は平静を保っている。
「噂が広がればきっと売れるようになりますよ」
と左近も言い、達郎も気を取り直した。
「ともかく、何とか売り切る方法を考えないと」
一つ思いついたのは、友人知人を起点として口コミで評判を広げてもらうことだ。
「葛飾北斎、柳亭種彦、渓斎英泉。為永春水は……送らなくていいか」
お内の許可をもらって何冊かを献本に回してもらい、翌日。達郎は柳亭種彦と渓斎英泉の下を訪問し、七兵伝を進呈した。
「貸本で読むつもりだったのだが、有難くいただこう」
と柳亭種彦。
「毎回もらいっぱなしで申し訳ない」
と渓斎英泉。達郎は「気にしないでください」と手を振った。
「その代わりこの本のことを周りに言い広めてもらえれば」
それは必ず、と二人ともが言ってくれ、達郎は山青堂への帰路に就く。到着したときは夕方だったが、ちょうど貸本屋の一人が七兵伝を買っていくところだった。
「戻りました。何部売れましたか?」
「今日は二百部ほどです」
挨拶もそこそこに達郎が問い、お内が答える。そうですか、と達郎は顔を曇らせた。
江戸市中の貸本屋の総数は正確には不明だが、おそらく七百軒くらいにはなるだろう。七百の市場に対して既に五百売ったわけで、発売二日目としては望外の数字と言えるかもしれない。ただこれ以上の拡販はなかなか難しく、その上でまだ五百も在庫が残っているのだ。
「初版千部は失敗だったか? 六百くらいで抑えるべきだったか」
深い後悔に囚われる達郎の横顔を、お内がじっと見つめている。
「兄さん」
「何でしょう妹さん」
「そろそろ増刷にかかりたいと思います。もう千部」
何を言われたのか数瞬理解できず、理解が及んだ途端「はあ?」と素っ頓狂な声が出てしまった。
「何言ってるんだよ、見ろよこの在庫の山。増刷するにしてもこれが全部はけてから」
「それじゃ機を逃してしまいます。今から動いていかないと」
「いやいやいや、あり得ないって。まだ五百も売れ残っているのに」
「近いうちに売り切れます」
お内は「これから売上が伸びるので増刷しないと欠品する」と主張し、達郎は「そんなことはあり得ない」と反論する。両者の論争はかなりの時間続くが平行線をたどったままだった。
「それじゃ間を取って五百だけ増刷したらどうかしら」
お内も達郎もかなり疲れてきたところに左近がそう妥協案を提示。疲れで頭が回らなくなっていた達郎がそれを呑み、増刷がかかることが決定された。翌日、達郎は安易に妥協したことを後悔する。
「ああ、どうしよう。在庫がこんなに残っているのにまだ増やすなんて」
発売三日目の売れ行きは五十程度。日が経つほどに売れ行きが悪くなるのは当然で、それが反転することはあり得ない――達郎はそう考えていたのだが。
貸本屋が再び山青堂に列を成し、七兵伝を買い求めるようになったのは一月も下旬となる頃である。
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