第二九回(文政六年六月)


「ただいま戻りました」


「ああ、お帰りなさい」


 所用で出かけていたお内が山青堂へと戻ってきたのはその日の午後のことだった。お内にはご隠居こと先代の山崎屋平八が同行している。ときは文政六年六月上旬、西暦なら一八二三年七月。強い夏の日差しは表の路地を焼くかのようで、お内は流れる汗を手拭で拭った。


「どうぞ」


「ああ、助かるよ」


 左近がお内とご隠居に冷えた麦茶を出し、二人はそれを飲んで人心地着いている。二人が一息ついたのを見計らって達郎が問うた。


「今日はどちらに?」


 お内はそれに答える前に視線である方向を指し示した。それは山青堂から見て西の方角だ。


「すぐそこに馬琴翁のご子息が住んでいるのは知っているでしょう」


「もちろん」


「先日からその隣家が売りに出されていて、馬琴翁がそれを買いたいと言い出したそうです。それで父が頼まれてその交渉に」


 そしてお内の役目はそのサポートだ。達郎はまず驚いたように目を見開き、


「ああ、なるほどなるほど。そうか、確かこの時期だったな……」


 何やら一人納得し、くり返し頷いている。今の話に何をそんなに感心するところがあるのだろうかと、お内は首を傾げた。


「買い取ったその家に曲亭馬琴が住むようになるのは……」


「そういうつもりだとは聞いていますが、家の修繕もありますし住めるようになるのは大分先でしょうね」


 史実ではそれは来年、文政七年五月のはずだった。二一世紀で言えばそこは外神田秋葉原の芳林公園付近。芳林公園の一角には馬琴居住跡の案内板が立っている。なお山青堂があった場所はそこから東の、中央通りに面したどこかとなる。本当に目と鼻の先の距離なのだ。


「まあ、あの曲亭馬琴がこのご近所に」


 と左近が目を見開く。本好きの左近は八犬伝を初めとする馬琴の読本の愛読者でもあった。


「それならお目にかかる機会もあるかもしれないですね」


 と嬉しそうな左近に対し、お内は苦笑と困った顔を半々にしたような表情だ。これまで様々な経緯があり、お内と達郎は馬琴から嫌われ、絶縁されていた。


「ああ、それなら左近さん」


 とご隠居が目を輝かせる。


「馬琴翁の長男の宗伯さんはまだ独り身なんだが、後添いの旦那にどうだね?」


 左近が驚きに「まあ」と目を見張り、それはお内も同様だ。


「ちょっと待って――」


「ちょっと待ってください!」


 まず異議を唱えようとするお内だが、達郎がそれに先んじた。


「反対です。絶対にやめた方がいい。左近さんが不幸になるだけです!」


 その強硬な反対姿勢にご隠居が唖然とし、左近もまた目を見開いて固まったままだ。お内も少しの間呆然としていたがいち早く再起動する。


「それにねえさんがいなくなったらわたしも困ります」


「でもねえ」


 と困惑顔のご隠居はわがままな子供に言い聞かせるように……実際本人的にはそんな気分なのだろうが、


「左近さんだってまだまだ若いんだし、お前の都合でいつまでも山青堂(うち)に縛り付けておくわけにもいかないだろう」


 その指摘に「ぐ」と詰まるお内。ご隠居はさらに重ねて、


「それともいっそ、お前が宗伯さんに嫁ぐかい? お前が片付いてくれるなら私も本当に一安心なんだが」


 ぐぐぐぐ、と歯軋りするように唸るお内は助けを求めるように達郎へと視線を送った。


「あー……その展開も面白いかも」


「面白いってどういう意味ですか!」


 噛みつくようなお内の剣幕に達郎は「ごめんごめん」とまず謝った。


「いや、妹さんくらいしっかりちゃっかりしていて面の皮が厚ければあの舅と姑相手でも何とかやっていけそうな……」


 立ち上がったお内が達郎の背中に蹴りを入れ、達郎がむせた。お内は座布団に座って不機嫌そうにそっぽを向く。一方左近は顔を曇らせて、


「そんなに大変なんですか?」


「それはもう」


 達郎が力強く頷いて断言する。


「一年で下女が七人入れ替わるような家ですよ? 嫁だってよほどの根性がないと絶対に務まりません」


 そんな話があっただろうか、とご隠居は首を傾げている。達郎は嘘をついたわけではないがそれは本来の歴史での、さらには天保二年頃のエピソードだ。この時間軸のこの時代ではまだ発生していない出来事なのである。

 が、それでも達郎の言葉を信じない理由は左近にもお内にもない。二人ともどの程度この話を真剣に受け止めていたかは判らないが、今はもう宗伯との結婚など検討にも値しない与太話だった。


「そもそもわたしは馬琴翁から絶縁されています。馬琴翁がこんな縁談に頷くはずがないでしょう」


 白けた顔のお内にご隠居は「それはそうなんだがね」と頷くが、それでも彼は未練の感情を覗かせていた。

 肩を落とし、哀愁を漂わせて山青堂を後にするご隠居。達郎が同情しつつそれを見送るが、だからと言って左近を宗伯に嫁がせるなど論外だった。その左近は、


「……あの、何か?」


「いえ、何でも」


 どこか熱い、艶っぽい目で達郎のことを見つめている。達郎は気まずげに顔を逸らすことしかできず、さらにはそんな二人を不機嫌そうなお内が眺めていた。






 さて。滝沢宗伯のことである。

 寛政九年一二月(一七九八年)生まれで、この年満年齢で二四歳。今の達郎からすれば一歳ほど年上なだけでほぼ同年代だ。曲亭馬琴の長男で、名乗は滝沢興継。通称を鎮五郎といい、琴嶺という号も持つが、宗伯という呼び方が最も一般的である。蝦夷地松前藩の前藩主・松前道広の出入りの医者として三人扶持を受けている。

 馬琴が宗伯に神田明神下同朋町の家を買い与えて独立させたのは文政元年。馬琴の妻のお百が息子と同居し、馬琴は長女のおさきと飯田町で二人暮らしだった。が、おさきが結婚することとなったので飯田町の家を娘夫婦に譲り、自分は息子と同居することにした――というのが表向きのストーリーである。別にこの話が嘘というわけでないが、内向きの話はもう少し色々とあるのだった。

 滝沢宗伯が特別愚鈍だったというエピソードは残っていないが、特別優秀だったという逸話もまた存在しない。つまりは凡才凡人だったということで、さらには彼は、特別病弱だった。彼の一生は、特にその晩年は、病魔との苦難苦闘の、血塗られた生涯だったと言える。

 士分出身の馬琴は市井の戯作者という今の立場を大いに恥じており、滝沢家を武士として復興させることは馬琴生涯の悲願だった。そしてその重責を担わせたのが嫡男の宗伯だったわけだが、その宗伯の凡人ぶりには馬琴も失望を禁じ得なかった……らしい。最初は儒学者に仕立てようとしたが病弱のために失敗し、続いて画家にしようとして物にならず、高名な医者に弟子入りさせて何とか医者として身を立てさせたのだ。そして文政三年に松前侯の出入りの医者となり曲がりなりにも士分となったわけだが、それは医者としての宗伯が評価されたからではない。松前侯が馬琴の愛読者ファンだったから、というのが理由の全てである。

 が、せっかく手に入れたその地位も病気のためにろくに出仕することができなくなり結局手放すこととなるのだが、少し先の話は置いておいて。

 ともかく、宗伯は非常に虚弱・病弱であり、また極端に神経質でヒステリックでもあったという。おそらくは何らかの体質的な疾患を抱えていたのだろうが、それに拍車をかけたのが馬琴の教育方針だった。

 儒教の徳目を絶対視する馬琴は宗伯を「理想の士大夫」に仕立てようとし、たとえば長年にわたって集めた元禄享保の好色本を「士人の家に見るべき書ならず」として惜しげもなく売り払ったり、断じて家内に三味線を入れようとしなかったという。要するに宗伯が俗悪な大衆文化に汚染されるのを恐れてのことであり、また馬琴は幼い宗伯が市井の子供と遊ぶことも好まなかった。宗伯は獄卒のような父親に監視されながら子供らしい楽しみも知らずに成長し、大人となっても遊里にも行かず、戯場にも滅多に行かなかった。宗伯は馬琴の理想通りの、非常に生真面目で潔癖な人間に仕上がったのだ。


「市中にて無疵にそだてあげ申候、手段いろいろ也」


 馬琴は鈴木牧之への手紙に誇らしげにそう記している。

 後に馬琴が住むこととなる宗伯宅の隣家には何某という刀研師が住んでいたが、この家には博徒の類が集まり騒ぎ、宗伯の神経を逆なでしていたという。幸いその研師は借財のためにその家を売って立ち退くこととなった。次の隣人が真っ当な人間である保証がないために馬琴が先回りして購入し、宗伯と同居することとしたのである。

 飯田町と神田明神下、離れた場所の二つの家を家長として管理監督するのは何かと不便だったから――そういう理由もあったというが、そもそも、


「父子の業大にちがひ申候故、同居いたし候ては、発達の為によろしからず」


 宗伯を独立させて別居したのは元々こういう理由だったはずなのだ。要は、馬琴は独立し別居した息子の家にも細々とくちばしを突っ込み、息子の方も箸の上げ下げまで父親の指示を仰いだのだろう。

 二〇世紀、二一世紀の人間なら馬琴の振る舞いに「極めて過干渉な、厳格な教育ママ」の姿を想起するだろうし、そんな親に矯正された子供がまともに育つかどうかを危惧することだろう。そして実際、宗伯の心身は歪み、破綻した。心の歪みは癇性の発作となり、病魔はついにその生命を枯らしめる。宗伯が三九歳の若さでこの世を去ったのは天保六年(一八三五年)のことである。

 その死後母親のお百は、


「宗伯がここまで病弱で臆病となったのは馬琴の教育があまりに行き過ぎたためで、宗伯は馬琴に教え殺されたのだ」


 そう馬琴を終始責め立て、馬琴もまた内心忸怩たるものを抱えていたという。有責の割合は神のみぞ知る話だが、「理想の人間」という鋳型に押し込むがごときの馬琴の教育方針が宗伯の生命力を育むよりも蝕む方向に作用したことを、疑う必要はないものと思われた。

 ともかく、宗伯の生涯は幸福とは到底言い難いものだった。馬琴の嫡男として生まれた時点である意味かなりの不運と言うべきであり、さらにはその父親に立ち向かう心身の強さを持ち得なかったことが最大の不運であり不幸だった。後に彼に嫁ぐお路もまた、その不幸に巻き込まれたと言える。舅はあの狷介固陋の代名詞というべき馬琴であり、その馬琴が辟易する癇癪持ちのお百が姑であり、そのお百が裸足で逃げ出すようなヒステリーをときとして爆発させる宗伯が婿なのだ。こんな家を嫁ぎ先として紹介するなど、八岐大蛇に生贄として差し出すのと変わらない。

 が、だからと言って達郎は宗伯に対して「一生独身でいろ」と言いたいわけではない。所詮は他人の家のことで、他人事である。口出しをするような話ではないし、そもそもそんな立場でもない。ただ単に左近やお内が滝沢家のあれこれに巻き込まれさえしなければいいだけのことなのだ。そして実際のところ、二人が宗伯の嫁に選ばれる可能性はほとんどないと思っていたし、その予想は何日か後に現実のものとなる。






「いやあ。言うだけは言って様子をうかがってみたんだが、左近さんは馬琴翁のお眼鏡にかなわなかったようでねぇ」


 数日後、山青堂を訪れたご隠居がそう報告。それに対して左近は「まあ、そうですか」と他人事のように言うだけで快不快、どちらの感情も示さなかった。一方お内は安堵半分、不快半分といった表情である。


「ねえさんに何の不満があるって言うんですか」


「はっきりそう聞いたわけじゃないが、どうも年上の後家ってことが引っかかったみたいだねぇ」


 その回答にお内の不快感はさらに強まったようで、一方達郎は皮肉げな顔である。


「自分の嫁さんだって年上の後家なのに」


「まあ、そうなんですか」


 と目を丸くする左近と、「ああ、確かそうだったねぇ」とご隠居。馬琴の嫁のお百は下駄屋の未亡人で、馬琴よりも年上だった。容貌も優れず、無学でひがみっぽく愚痴っぽく癇癪持ちだったという。馬琴は生活の糧を得るためにお百の婿となり下駄屋の主人となったわけだが、馬琴がこの妻を特別粗略に扱ったことはない。ただ価値観の違いは大きく――どちらかと言えばおかしいのは因習に凝り固まった馬琴の方なのだが――馬琴にとっては疎ましい存在だったようである。

 元々の教条的な倫理観と、自分自身の失敗が重なり、馬琴にとって左近は「後家」というだけで宗伯の嫁としては論外の存在となったのだろう。


「それじゃ妹さんの方は……」


 その確認にご隠居は苦笑して首を振るだけだ。お内のことなど、口ににするだけで馬琴の怒りを買うのは目に見えていた。


「さて、困った。どこかに適当な人がいないものかねぇ」


 と途方に暮れた様子のご隠居。一方お内は白けたような顔である。


「うちが世話をしてやる義理もないでしょう」


「そもそも、武家の娘でないと馬琴翁は絶対に首を縦に振らないと思いますよ」


 左近は最底辺でも武家出身だがお内は完全無欠の町娘だ。その意味でも馬琴にとってお内は一顧だに値しないものと思われた。

 それもそうか、と頷くご隠居はその視線を左近へと向け、


「左近さんの身内や知り合いには?」


「嫁ぎ先を探している子はいるでしょうけど……」


 小首を傾げてそう答える左近。達郎の言葉を信じるなら宗伯はまごうかたなき事故物件だ。紹介していいものかどうかはためらわれた。


「何かの折に話をしてくれるだけでいいから!」


 ご隠居にそう強く言われ、無下にもできず、左近は不承不承頷く。一方ご隠居は左近だけを頼りとはしなかった。左近の実家は小普請組で、小普請組と言えば柳亭種彦。ご隠居とも古い付き合いで、そもそも左近もそのつながりで山青堂に嫁いできたのだ。当然そちらに話を持っていき、


「乗り気になっている娘さんがいるそうでねぇ」


 ご隠居が達郎達にそう報告したのは七月に入る頃だった。そうですか、と口を揃えるお内と左近だがその口調には差異があった。全く無関心でどうでもよさそうなお内に対し、左近はちょっと複雑そうな様子である。


「馬琴翁の感触も悪くない。このまま話が決まってくれれば私も一安心だよ」


 とご隠居は笑い――


「どうかしましたか? 兄さん」


 様子のおかしい達郎にお内がそう問う。達郎は「いや、なんでも」とごかますがその内心は大いに動揺している。


(いや……ちょっと待て。このままお路以外の誰かが滝沢宗伯の嫁になったら)


 その誰かがお路並みに辛抱強い人間とは限らず――宗伯の嫁の土岐村路は、宗伯の死後も滝沢家にとどまり、馬琴失明後は八犬伝の口述筆記を担い、その完成を助けた。彼女の筆記者としての苦難苦闘は明治期より広く知られるようになり、貞女として称揚されるようになる――だが逆に言えばこの事実はお路のような人間の希少性を証明しているようなものなのだ。お路以外の誰かが宗伯に嫁いでも長続きせず、早々に宗伯と離婚するかもしれない。あるいは宗伯の死後に実家に帰るようなことがあれば口述筆記をする人間がおらず、八犬伝は未完のまま終わることになるかも……


「御免」


 そこに何者かが山青堂の戸をくぐった。


「おやまあ珍しい。何かありましたか?」


「いえ、この度は私事でお手数をおかけしましたのでそのお礼に」


「いやいやそんな」


 とその若い男はご隠居と親しげに話しをしている……いや、馴れ馴れしいご隠居に対してその男は疎ましげであり、距離を置こうとしているように見受けられた。


「その方は?」


「ああ、この人が宗伯さんだよ」


 ご隠居が軽い口調で紹介し、達郎は思わずまじまじと彼を見つめた。

 ――それから少しの時間を置き。達郎と宗伯は連れ立って中庭へとやってきている。宗伯が何か話したそうにしていたので達郎が誘ったのだ。ご隠居やお内には遠慮してもらい、この場にいるのは二人だけだった。宗伯は中庭に佇み、達郎は縁側に腰かけている。

 宗伯は達郎よりも大分背が低く、極端な痩身。顔もまた細く、その分目ばかりが大きいように感じられる。その目は何かを警戒するように始終せわしなく動き続けていた。顔色が悪いように思えるがおそらく元からがそうなのだろう。後世の評価を待つまでもなく、見るからに神経質そうな男だった。


「――何か話が?」


「え……いや、その」


 宗伯に促されるも何から話すかを全く考えていなかった達郎は少しの間口を濁した。


「今回の縁談、気乗りしていないように見受けられましたので」


「知らない人間と夫婦となるのは不安がある。だが世の中そういうものだろう」


 この時代の結婚はそれがデフォルトであり、恋愛結婚の方が例外中の例外だった。


「私もいい年だし、何より滝沢家を後世につないでいくには世継ぎをもうけなければならない」


 滝沢家を、と達郎は失笑をかろうじて堪える。が、その思いは顔に出ていたようで、宗伯はそれに過敏に反応した。


「何がおかしい! 所詮町人に武家をつなぐことの重みは判らん!」


「いや、不快にさせたのなら申し訳ないです。謝ります。ただ……」


「何だ」


 達郎は一呼吸置き、


「そもそも武家としての立場を投げ捨てたのは馬琴翁ではないでしょうか?」


 滝沢家は江戸深川の旗本・松平家に仕える武家だった。松平家自体がわずか千石の家だったのでたかが知れているが、馬琴の父はその筆頭家老として松平家を切り盛りする立場だったのだ。が、その死後は家禄を大幅に減じられ、滝沢家は困窮する。それでも幼い馬琴は滝沢家を継ぎ、主君の孫・八十五郎の小姓に任じられた。この八十五郎は家督を継ぐ立場でなかったが、それでもそのまま仕え続けたなら武士としての滝沢興邦を全うできたのだ。

 いくら八十五郎が愚鈍・病弱だったとしても、それを我慢できずに松平家を出奔したのは馬琴自身の選択である。さらには馬琴はその後仕えた戸田家も自ら辞しているのだ。


「仮に滝沢家が潰えたとしてもそれは馬琴翁の責任です。宗伯さんが気にすることじゃありません」


「何を勝手なことを……!」


 宗伯は怒りのあまり罵詈雑言が渋滞しているような様子だ。なだめようとしてかえって怒らせてしまったが、もう仕方ない。この際だから言いたいことを言ってしまえ、と達郎は決断した。


「宗伯さんも父親の言うことなんか気にせず好きなように、自分の思うように生きたらいいんじゃないかと思います。曲亭馬琴だって結局はそうやって生きてきて、今戯作者なわけでしょう? 宗伯さんに偉そうにどうこう言える立場ですか?」


「この無礼者が!」


 宗伯はそう言い捨て、憤然と山青堂を後にした。だが達郎には彼がまるで逃げ帰ったように思われた。店の中で宗伯の背中を見送った達郎が踵を返すと、そこに立っているのはお内である。


「わざわざ怒らせることもないでしょうに」


「わざわざ怒らせたわけじゃないんだけど」


 ただ伝えたいことを伝えただけで。お内は呆れたようなため息をついた。


「まあ、兄さんもわたしも馬琴翁に絶縁されています。その息子に嫌われようと今さらです」


 お内はそう言って店の中へと戻っていき、達郎がその後に続いた。

 ――滝沢宗伯の縁談話が無期延期となったと伝えられたのはそれから一月ほど先、八月のことである。






「母親のお百さんがかなり悪いらしくてねぇ。今は縁談を進められる状態じゃないそうだよ」


 文政六年八月。宗伯の縁談についてご隠居がそう報告。そうですか、と達郎は気の毒そうな顔で相槌を打った。この年、宗伯とお百が死に瀕する大病を患ったと記録されている。それがこの時期か、と達郎は頷き、


「宗伯さんご自身の容態は……」


「? 頑張って親御さんの看病をしているそうだよ」


 達郎は大きく目を見開き、しばらく何も言えないままだった。ご隠居は不審そうに首を傾げている。

 ――本来の歴史において宗伯とお百がいつ、どのくらいの期間大病を患ったのかまでは判らない。単に少しばかり時期がずれていて、宗伯もそのうち倒れるのかもしれない。それが本来の歴史そのままなのかもしれない。だがあるいは、もしかしたら、


「あの会話がきっかけで少しでも自分の意志で生きるつもりになったのなら、それが体調に好影響を与えたのなら」


 その死の運命だって変えられるかもしれない――達郎はそうなることを祈らずにはいられなかった。






参考文献

麻生磯次「滝沢馬琴(人物叢書)」吉川弘文館

真山青果「随筆滝沢馬琴」岩波文庫

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