第一二回



「もう、笑いが止まりませんね!」


 そう言うお内は自分の言葉通りに高笑いをし、左近は苦笑した。

 文政五年の四月、まずは葛飾北斎の勧請錦絵で名を上げた山青堂は、続けて和泉屋のおたきの大首絵を刊行。これまでの浮世絵とは全く違う、斬新なこの絵は江戸中を席巻することとなった。

 まず絵自体が飛ぶような勢いで売れに売れ、何枚刷っても全く追いつかないような状態だ。品薄が続く欠乏感が絵の評判と需要をさらに高めた。刷られた絵を元に勝手に板木を作って売る、重板(海賊版)が広く出回る始末である。


「浅黄裏 紅の代わりに 墨をつけ」


 そんな俳諧が詠われて人口に膾炙した。浅黄裏とは「野暮な田舎侍」の代名詞であり、彼等がおたきの錦絵に口吸いキスをして、口紅の代わりに墨を付けている――その情景を詠ったものだ。

 次に、絵の評判はモデルの価値に連動していく。和泉屋のおたきの下には大店のお大尽が殺到した。彼等はおたきの水揚げの客になるべく競い合い、ついにはある若旦那が水揚げ前の彼女を身請けしてしまった。錦絵一枚で水揚げ前に苦界から抜け出したおたきは吉原の伝説となり、当然「次はわたしも」と誰しもが考える。達郎に絵を描いてもらうべく、山青堂には妓楼の使いが列をなした。


「ところで兄さんは?」


「今日も吉原に行っていますよ」


 もちろん裏太郎が、表太郎のように吉原で放蕩しているわけでは決してない。達郎は遊女の絵を描くために吉原に行っており、あくまで仕事だった。ただ、妓楼や遊女は達郎を最大限もてなそうとし、達郎がその気になれば酒池肉林に浸ることも難しくはないだろう。


「……」


 お内の機嫌がやや傾げるが、彼女自身はそれに全く気が付かなかった。そんなお内に左近が微笑ましげな顔となる。


「あの人が他所の女に盗まれるのが心配?」


「はい?」


 やや甲高い声で問い返してしまうお内。


「あの人が吉原の女に目移りしたら……って」


「いやいや、あり得ないでしょう。あの甲斐性なしがそんなこと」


 お内は笑い飛ばそうとして失敗したような顔となった。


「……前の兄さんみたいに遊女の手練手管に取り込まれることも絶対にないとは言えませんね。そうなる前に、兄さんが逃げられないようねえさんがしっかりとくわえ込んで」


 下品な物言いに左近は困った顔をするが、まんざらでもなさそうだ。ただ、


「わたしじゃなくてもいいんじゃないかしら。お内ちゃんが相手でも」


「はい?」


 目を真ん丸に見開くお内に対し、左近は韜晦したような笑みを向ける。


「何を言っているんですか? わたし達は兄妹ですよ?」


「でも、山崎屋平八の二代目になったのは外次郎じゃなくて養子として迎えた次郎兵衛でしょう?」


 外次郎に戻ってきてもらった、というのは山青堂に近い人間に対する言い訳であり、人別帳の上では左近の言う通りである(なお表太郎の二代目就任はなかったことになっている)。


「それならわたしじゃなくてお内ちゃんと夫婦になった方が筋が通るんじゃないかしら」


 実際本物の次郎兵衛との縁談も一時期考えられていたわけで、達郎を婿とするに何か社会的な障害があるわけではない。お内は、あるいは初めてその可能性を真剣に検討した。――未婚のまま年齢を重ねることに、世間体の悪さを感じないわけでは決してない。その結婚相手としての達郎だが……正直言って、まず非常に頼りない。彼はあまりにお人好しで世間知らずだった。が、達郎自身がそれを充分自覚しており、このため山青堂の経営もお内に任せっきりだ。夫婦になってもこの力関係が変わることはないだろう。この何ヶ月かを家族として過ごし、達郎の人柄はよく判っている。商売上の都合で選んだ他の誰かと夫婦になるとして、その誰かは達郎と同じくらいに善良で温厚な人間だろうか? どちらかと言えばその逆の可能性の方がよほど高く、それは非常にリスキーな賭けとなると考えられた。それに何より、


「今の兄さんは金のなる木。それを他所の女に渡すなんて……!」


 それは絶対にあってはならない未来図だ。それを避けるために我が身を呈することくらいなんだというのか? 悲壮な覚悟を決めるお内に対し、


「いえ、そういうことじゃなく……」


 と左近はちょっと途方に暮れたようになった。


「ただいま」


 とそこにいきなり帰ってくる達郎に、お内の心臓は口から飛び出そうになる。


「どうした? 妹さん。写楽の大首絵みたいな顔して」


 お内が無言で達郎のすねに蹴りを入れ、達郎は痛そうな顔をした。


「おう、帰ってきたか。裏太郎」


 と奥から顔を出したのは葛飾北斎その人だ。「はい、ただいま」と達郎は背筋を伸ばした。


「さっさと来い」


「はい、今行きます」


 達郎はお内も左近もほったらかしにし、大急ぎで奥へと向かう。その後ろ姿にお内は大きくため息をついた。

 ――葛飾北斎が山青堂に居候するようになったのは半月ほど前からだ。山青堂に転がり込んだ北斎はその一室を勝手に占拠し、日がな一日そこで絵を描いている。お内はさっさと北斎を追い出そうとしたのだが、


「何言ってるんだよ、あの葛飾北斎がうちに逗留してるんだぞ! 末代まで自慢できるじゃないか!」


 達郎が断固として北斎を擁護し、お内もその意向は無視できないのだった。お内は頭痛を堪える顔となる。


「あの散らかし癖がなければ大目に見てもよかったんですが」


 北斎は片付けるということができない人間で、彼が逗留している部屋は一日でゴミ屋敷と化していた。


「でも北斎の散らかしたゴミって貴重じゃないか? 二百年くらいこのまま保存すれば世界遺産にもなるかも」


「お釈迦様が出そうとゴミはゴミです!」


 お内の雷に達郎は首をすくめる。結局、北斎の部屋は達郎が掃除をすることでお互いが妥協した。以降、達郎はまるで弟子のようにかいがいしく北斎の世話をしている。師匠と弟子という関係ならそれも当然かもしれないが、西洋画の技法を北斎に教えているのは達郎の方なのだ。一見すると立場がまるで逆である。だがもちろん、北斎が達郎の献身を一方的に享受しているだけ、というわけではない。


「それで、どんな具合だ?」


「はい、こちらに」


 達郎が広げたのは遊女の大首絵、その彩色済みの絵だ。多色刷りのために手で彩色した見本絵である。おたきのそれとは逆に、今回は扇子で口元を隠して目の描写に集中している。二一世紀の漫画絵や萌え絵のように誇張した大きさではなく、あくまで現実的な範囲だが、それは浮世絵としては規格外に大きな目だった。また、かんざしや着物の柄も非常に細かく色鮮やかに描き込まれている。おたきの二番煎じにならないよう、全てを逆に行った大首絵である。


「ま、悪くはねえんじゃねえか? 北亮だったか北恵だったか、あいつもいい仕事をしたみたいだな」


「はい、非常に助かりました」


 この大首絵は達郎一人で描いたものではない。目や輪郭、顔については達郎でなければ描けないが、着物やかんざしの細かい描写は他の絵師に任せたのだ。それを手掛けたのは北斎の弟子の一人であり、紹介してくれたのは言うまでもなく北斎である。

 元々達郎は人物の顔や表情の描写には熱心だが、それ以外にはそこまでのこだわりはない。また、この時代の浮世絵には細かい決まりごとがあり、特に着物の柄や家紋はモデルの立場を明確にするなどの意味があり、非常に重要である。が、今の達郎はそれをろくに把握しておらず、その点でも他者の知識と力を借りる必要があった。それに何より、こうでもしなければ到底注文がさばけないのだ。


「おう、ところで裏太郎」


「はい、何でしょう」


「おめえの絵を学びたいって言ってる奴がいるんだが、一つ教えてやってくれねえか?」


「判りました」


 あまりにあっさりとした返答に北斎の方が戸惑った顔となった。


「……いや、構わねえのか? 他人に自分の絵を盗まれて」


 その確認に達郎はふてぶてしく笑った。


「できるもんならやってみろ、と思います」


 そりゃそうだな、と北斎も納得する。それに、と達郎が補足した。


「正直言って、亜流が出てきてくれた方が助かるんです。俺一人じゃ注文に対応しきれなくて……他にやりたいこともありますし」


 なお、レベルは低いが達郎の真似をした絵を描く者は既に世に出てきている。「草生ル萌」自身とその亜流の独特の絵柄は世の人々に「」と呼ばれていた。


「まあ、あの二人ならおめえの猿真似じゃなく、おめえの絵を自家薬籠にした上で自分流の絵を作り出すだろうよ」


「二人? どなたとどなたですか?」


 その問いに北斎が当たり前に答える――英泉と応為だ、と。

 渓斎英泉と葛飾応為! その二つの名に達郎は雷に撃たれたように硬直した。


「おい、裏太郎?」


 北斎の呼びかけも耳に入らず、彼は彫像のように固まっている。長い時間を経て、やがて達郎は大きくため息をついた。


「……確かにその二人ならできるでしょうね。俺の絵を自分のものにした上で、新しい自分の絵を作り出すことが」



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