第一三回
山青堂に渓斎英泉と葛飾応為の二人がやってきたのは翌々日のことである。
場所は山青堂内の、北斎が占拠している一室。左近にも手伝ってもらいゴミを片付け、一応人間の住居らしい場所となったそこで、達郎はその二人と対面していた。なお北斎も当然そこに同席している。
一人は三十路の、流行の着物を粋に着こなした色男。だがどこか暗い陰と斜に構えた印象があり、あるいはその点もこの男の魅力の一つなのかもしれない。彼が渓斎英泉、艶やかで退廃的な美人画で一世を風靡した浮世絵師だ。
もう一人は英泉とは対照的に、身なりに無頓着な女性。年齢は二十代半ばと見られるが化粧も全くしておらず、美人とは言い難い容貌だ。彼女が葛飾応為。葛飾北斎の三女であり、「人物画の腕なら自分より上」と北斎も認めた天才絵師。晩年の北斎の絵の多くを彼女が代作していた、という説もあるくらいである。
「このたびは無理を聞いていただき、まことにかたじけない。どのように礼をすればいいやら……」
土下座せんばかりに深々と頭を下げる英泉に達郎は慌てた。
「頭を上げてください。そんな、お礼なんて」
「お気持ちは形で示してくだされば結構ですから!」
すぱぁん!と襖を開け放って笑顔のお内が現れ、指で円を作って示す。即座に達郎が襖を閉めた。
「……ええと、今のはお気になさらず」
「いや、もらいっぱなしは沽券にかかわる」
「謝儀(授業料)くらいは出すさ。その方がこっちも教わりやすい」
と応為も言うので、達郎もそれ以上は固辞しなかった。
「えっと、それじゃ始めますが、これが筆の代わりです」
達郎は用意していたそれを二人に手渡した。また自分と北斎の分も用意済みだ。
「これは?」
「木炭鉛筆……じゃなくて、炭筆です」
木炭鉛筆は北斎に西洋画を教えるために自作したものだった。
「へえ、こんなので絵を描くのか」
「練習用です。これに描けば、洗えば何度でも描けますから」
と達郎は布を張ったキャンバスを取り出して示した。ただ、
「そんなケチ臭い真似してられるかよ」
と北斎。北斎は練習だろうとちゃんとした紙を使い、達郎もそのおこぼれに預かっていた。北斎は超売れっ子の絵師で潤筆料も高額であり、収入は非常に多い。それでも長屋で貧乏暮らしをしているのは絵の具や道具に金を惜しまないからだった。
惜しまず紙を使うとなると木炭鉛筆を使う理由がなくなるように思えるが、その意味は順に説明していくことになるだろう。
「ここで教わったことは口外無用でお願いします――俺の師と言うべき方は西洋画の技法を学び、それを体得しました。お二人にはその真髄を伝えるつもりです」
それで二人も「口外無用」の理由を理解する。
「判った。貴殿には決して迷惑をかけん」
応為もしっかりと頷いたので、達郎は講義を開始した。
「西洋画の真髄を理解するにはまずその背景にある考え方、キリスト教……伴天連のものの見方を知る必要があります」
二人がまるで刃物を突き付けられたような顔となったので、達郎は笑って手を振った。
「連中がそういうものの見方・考え方をしている、というのを知るだけです。先生にはくり返しになりますが」
水を向けられた北斎は「けったいな話で面白かったぜ」と笑う。それで二人の緊張もほぐれたようだった。
「まず彼等の教えでは『神は自分に似せて人間を作った』となっています。つまり人の姿とは神の姿、人の姿をありのままに描いていけばそれは神を描くこととなり、神に近付くことができる――そう考えた彼等は、人の姿を目に映るままに描き出そうとします。そのための手法が二つ、遠近法と陰影法。畢竟、西洋画の真髄はこの二つです」
達郎はまず遠近法について詳しく説明し、実際の絵を炭筆で描いて見せた。点透視図法、消失点、空気遠近法など。遠近法は既に日本に伝わっており、文化一二年(一八一五年)刊行の「北斎漫画」第三編には透視遠近法を図解した絵が載っている。だがそれは見様見真似であり、その理論的な説明を受けたのは達郎によるものが初めてだった。
「続いて陰影法です。光が当たれば陰ができる、影を描き込むことで絵を立体的に見せるのが陰影法です」
これも口で説明するより実際に描いた方が早い。達郎はキャンバスにまず円を描いた。その上で影を描き込み、さらに陰影をつけることで、ただの丸が球となる。それを目の当たりにした応為と英泉の目はそれこそ真円となった。
「なんと……」
英泉は感に堪えないというため息を吐き、応為の目は爛々と輝いている。応為は自分のキャンバスに飛びついて達郎の絵の真似をした。
「なるほどね、この絵を描くための炭筆か」
達郎がそれに慣れていることもあるが、クロッキーを描くには墨と筆よりは木炭鉛筆の方が圧倒的にやりやすかった。それに影を重ねる立体描写にも向いている。
「正直言って俺も理論的なことはそこまで詳しくないので、あとは修練あるのみだと思います」
「いや、充分だ」
英泉のその一言には深い感謝の念がこもっていた。
「あんなはした金でこれほどの奥義を伝授してくれるなんて……ちょっと申し訳ないくらいだよ」
「それならその分謝儀を割り増ししてくれれば!」
お内が襖を開け放って満面の笑みを見せ、達郎が即座に襖を閉めた。
「……ええっとですね。本邦ではともかく西洋では、絵を描く人間ならこの程度は誰でも知っていることですから」
「なんと。ならば西洋画にはさらに深い奥義があるということか」
英泉は慄くように感嘆し、達郎はその誤解を解かなければならなかった。
「奥義と言いますか、理論が数字を使ったより緻密なものになっていきます。言葉を尽くして理屈を突き詰めていけば美の極致に至れる――西洋人はそう信じていますから」
「なんだそりゃ」
と北斎はせせら笑った。
「口で言える『美しさ』なんてのは、所詮その程度ってことだろうが」
そうですね、とそれに同意するし、また感覚的にも西洋のその思想は理解の外である。「『美』とは言葉や理論を越えた先にある」という東洋思想の方がよほど判りやすいし、達郎自身もそう思っている。が、だからと言って西洋思想を否定するつもりはなかった。両者はただ違う、そこに上も下もないのである。
その日は夕方まで四人でひたすらクロッキーを続け、それは翌日以降も続いた。英泉は自宅に帰ったが応為は山青堂に残り、北斎に続いて居候二号となったのだ。
「……出すものを出してくれるなら文句は言いませんが」
北斎と比較すればまだ社会適応能力を有する応為は色を付けた下宿代を支払い、このためお内も二人の居候を容認した。
「ねえ、この絵おかしな感じがしない?」
「ああ、光の向きと影の向きが合っていないですね」
応為は陰影法の習得にこだわり、ひたすらその練習ばかりくり返している。また、達郎の絵柄を真似て描けるようになるのも早く、今はそこから独自の絵柄を生み出そうと試行錯誤をしているところだった。
一方、応為と比較して足踏みを続けているのは英泉だ。
ときは文政五年六月。しばらく顔を見せていなかった英泉が山青堂を訪問。応対するのは達郎だが、英泉はずっと無言のままだった。英泉は中庭に立ち尽くし、達郎は縁側に腰かけてその後姿を見守っている。中庭の片隅では、右京がどこからか迷い込んできた仔猫と戯れているところだった。
「……今日も暑いな」
英泉の呟きに達郎は「そうですか?」と首を傾げてしまった。西暦なら今は七月下旬、季節は夏本番であり気温はおそらく摂氏三〇度に達している……が、達郎からすればこの程度、暑いうちには入らない。温暖化の進行する二一世紀では最高気温が四〇度の手前、夜間の最低気温ですら三〇度超という日が続くのが当たり前だったのだ。日中の最高気温が三〇度超、という程度なら避暑地の高原にいるようなもので、非常に快適な気候だった。
「絵の方はどうですか?」
「うまくない」
英泉の返答は端的なものだった。彼は首をうなだれ、掌で顔を覆い、
「萌え絵が描けない……!」
血を吐くようにその苦衷を吐露した。
「胸の内には描きたいものが確固としてあるのに、それを紙の上に現すことができない。萌え絵を知ってしまった以上今までのような絵はもう描けないのに、俺は萌え絵を描くしかないのに……!」
英泉の懊悩はこれ以上ないくらいに真剣で、下手をすると自死を選びそうなくらいに思われた。達郎は何とも言い難い顔をしてしまったが。
旧来の浮世絵の絵柄は描かないではなく描けなくなり、その一方で新しい絵柄でも思うように絵が描けない。それは全く新しいことに挑戦する中で直面する過渡期の苦しみだった。応為がそれをあっさりと乗り越えたのは才能の違いもあるのだろうが、決してそれだけではない。
「描けない、というのは美人画ですよね」
その確認に頷く英泉。達郎はキャンバスと炭筆を二人分用意してその一つを英泉に手渡した。
「描きましょう。美人画が描けないなら何か他のものを」
英泉は筆を手にするがただ立ち尽くすだけだ。一方の達郎は軽やかに筆を動かした。
「頭の中にある理想の線を紙の上に描き出すのは簡単じゃありません。あの葛飾北斎だって未だ自分の絵に満足してないんですから、俺達みたいな凡人は一生涯をかけて追い求めていくことだと思います」
それは判っている、と英泉の背中が物語った。
「思いや理想を線に込める前に、それができるだけの技量を上げることが必須です。技量を上げるにはただひたすら、手を動かすのみ」
「俺の技量が足りないと?」
「理想には届かないんでしょう? だから手が止まってしまう」
英泉は沈黙するが、それは何も言い返せないからだ。英泉の中には美人画の理想があり、それ以上に怨念にも似た暗い情熱がわだかまっている――英泉のことを知らずとも、その絵を見ればそれは誰にでも判ることだった。英泉が懊悩するのは美人画に対してそれだけ執着しているからであり、一方応為にとっては数ある画題の中の一つに過ぎない。両者の差はそこにあるものと達郎は判断していた。
「だから今は一旦美人画から離れて、トンボでもバッタでもいいから違う絵を描くべきです。それらの絵をあるがままに、思う通りに描けるようになってから改めて美人画に挑んではどうですか? 確か喜多川歌麿も美人画を世に出す前に虫の絵を描いていたでしょう」
その例を引き出され、英泉は闇の中に光明を見た様子となった。蔦屋重三郎にその才能を見出された喜多川歌麿は耕書堂から「画本虫撰」という本を出しており、美人画で名を馳せたのはその後である。以前読んだある小説では蔦重が歌麿に虫の本を描かせたのは修行の一環、という解釈をしていたが、それが事実かどうかは判らない。判らないが、この際は参考にさせてもらうことにする。
「右京、ちょっとこっち」
達郎は猫とにらめっこをしている右京に声をかけて自分の方を向かせる。そのままさらさらと筆を動かし、
「よし、完成」
絵の出来栄えに満足げな顔となるが、それがいたずらっぽいものに変化した。その顔のままキャンバスを裏返しにして英泉に歩み寄り、英泉は訝しげとなる。
「虫も猫も人間も、目は二つ鼻は一つ口も一つ。目が十も二十もあるわけじゃなし、大した違いなんかないでしょう」
達郎はキャンバスを表向きにしてそこに絵が画れた絵を示す。それは、右京が仔猫の手を取ってそれと向き合う姿を描いたものだった。一見では何の変哲もない写生のように思えるがそうではない。特筆するべきは右京と仔猫の、その容貌だ。輪郭、目の位置と大きさ、鼻筋、口元――それらがまるで鏡に映したように同じなのである。それでいて猫は猫、子供は子供にちゃんと見えている。
「は……はは」
英泉はまず驚き、次いで呆れたような笑う。笑いはやがて朗らかなものとなり、英泉は憑き物が落ちたような顔となった。
「金言痛み入る。そうだな俺も、猫の絵からやり直すことにするか」
……家路に着く英泉を見送り、達郎が店の中へと戻ってきたとき、
「助かったぜ、裏太郎」
そう声をかけてきたのは北斎だった。
「本当なら俺が相談に乗ってやるべきだったんだろうが」
「いえ、俺はちょっとおしゃべりしただけです。今ぶつかっている壁を本当に乗り越えられるかどうかは当人次第です」
達郎は突き放すようにそう言い、
「――ま、心配無用だと思いますけど」
と笑って肩をすくめた。北斎も「違いない」と笑う。
「さて、俺はもう行くぜ」
と北斎は達郎に背を向けた。
「行く? どちらにですか?」
「ここも飽きた。
葛飾北斎は引越魔で知られ、生涯の間に九三回転居をくり返したとされている。そうですか、と残念そうに言うが引き留めはしなかった。
「おめえには娘共々世話になったからな。何かあったら力になってやる」
「ありがとうございます」
達郎が深々と頭を下げ、それが別れの挨拶となった。葛飾北斎と葛飾応為は山青堂を辞去し、
「なんか、広く感じるな」
ゴミの山も、寝転がって絵を描く二人ももういない。塵一つなく掃除され、家具も最小限のその部屋に一抹の寂寥を感じている。
達郎はキャンバスと炭筆を手に縁側に腰かけ、「さて何を描こうか」と中庭を見渡した。そのとき、達郎の横に誰かが座る。それは自分用のキャンバスと炭筆を手にした右京だ。右京は大真面目な顔でキャンバスに落書きを始め、顔をほころばせた達郎もまた筆を走らせた。
さて。葛飾北斎、葛飾応為、そして渓斎英泉のその後のことである。
北斎には大きな変化はない。遠近法と陰影法をマスターしながらもそれにこだわらず、自由奔放に「北斎の絵」を描き続けるだけである。ただ、本来の歴史に残された絵と比較すればあるいはその変化が見て取れたかもしれない。
英泉が達郎と交わした会話は、彼が壁を乗り越えるきっかけにはなったかもしれない。だがそこから先の道程も決して平坦なものではなかった。それでも彼は「萌え絵」を自分の中で消化し、独自の絵柄を生み出していく。英泉の暗い情念が込められた絵は、達郎の目からすれば一九七〇年代の劇画を想起させるものとなった。
一方応為が生み出した絵柄はそれよりもずっと軽やかであり、竹久夢二のそれに近い。大元の草生ル萌、それに続く渓斎英泉と葛飾応為は萌え絵の三大潮流として後世に多大な影響を与えていくが、それはずっと先のことである。今は直近の話を続けるとしよう。
参考文献
浦上満「北斎漫画入門」文春新書
檀乃歩也「北斎になりすました女 葛飾応為伝」講談社
増田晶文「稀代の本屋 蔦屋重三郎」草思社文庫
柊・オ・コジョ「文化の逆転―幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)」同人誌(Kindle版)
他
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