第三七回(文政七年四月)
【前書き】
時系列としては30回と31回の間のお話となります。
ときは文政七年四月、西暦なら一八二四年五月。江戸の町は春真っ盛りの、麗らかで穏やかな陽気に包まれている。達郎はその日、お内や左近、それに右京を連れて外出していた。やってきたのは浅草を過ぎてさらに東に行き、隅田川の対岸、向島の長命寺。
「ああ、あそこみたいだ」
門前にはいくつもの屋台が連なっており、その中でひときわ長い行列のできている店があった。達郎達がその最後尾に並んでおしゃべりをしながら待つことしばし。目当ての商品を購入した彼等は墨田川の堤に移動し、土手に並んで腰かけた。
「さて」
笹の葉の包みを開けると、その中には桜の葉が巻かれた何個かの餅。長命寺桜餅は江戸桜餅の元祖とされ、長命寺の門番をしていた山本新六という人物が享保二年(一七一七年)に考案し、売り始めたという。「今」の時点でも百年以上の歴史があり、さらに彼の「山本や」は本来の歴史通りならもう二百年この場所で営業を続けることが確定している。この長命寺名物は江戸の人気を博し、曲亭馬琴編の「兎園小説」には「文政七年の一年で三八万七五〇〇個を売り上げた」と記されている。
眼前には春の日差しにきらめく墨田川の水面、それに木々の緑。それを眺めながら、達郎は桜餅を頬張った。塩漬けの桜の葉は剥がすがその塩っ気が程よく残り、それがあんこの甘みを引き立てている。
「うん、おいしい」
「ええ、本当に」
お内や左近もそう頷き、四人はそのまま餅の甘味と爽やかな春の風を、他愛のないおしゃべりを楽しんだ。
……その後、達郎達は隅田川沿いを散歩のようにのんびりと歩いている。
「どこに向かっているんですか?」
「え、神田はこっちの方だろう?」
お内の問いに当たり前のように答える達郎。が、何故かお内は呆れたような目をし、達郎は首を傾げた。
「どうかしましたか妹さん」
「いえ、何も。ただ、本当に桜餅を食べに来ただけだったんですね」
達郎はさらに首を傾げて、
「おいしかっただろう? 桜餅」
「せっかくここまで来たんですから他にもちょっと立ち寄ってみたらいいんじゃないんでしょうか」
とお内の内心を代弁する左近。それに反対するわけではないが、
「別にいいけどどこに……」
とちょっと困った顔をした。
「それに晩御飯には早すぎるし」
「食べることしか頭にないんですか」
お内の突っ込みに「そういうわけじゃ」と言い訳をする達郎。だが実際、食べ歩きは数少ない達郎の趣味の一つだった。元の時代と比較すればこの時代は娯楽が非常に限られているし、食生活もまた極めて質素……語弊を恐れず言い切ってしまえば、極めて貧しい代物である。二一世紀の日本であれば最下層の貧乏人でももっとマシな食生活を送っている。普段の食事は栄養補給のためと割り切っているが、やはり時々は甘いもの旨いものを求める根源的衝動を解消させねばならないのだった。
「まあ、吉原通いで身代を潰しかけた誰かを思えば可愛いものですが」
吉原の高級遊女と遊んだなら一晩で何十両という金が溶けていくわけで、それと比較するなら達郎の趣味はごくごく慎ましいものだった。なお山青堂の財布はお内ががっちりと握って離さず、達郎はお内から小遣いをもらってやりくりをしている身分である。山青堂が七兵伝などで大繁盛をしている現状を鑑みるなら達郎は山青堂の経営権を要求してもいいくらいだろうが、
「なんでわざわざそんな面倒なことを」
彼にとってそれは一考だに値しない話だった。達郎がやりたいのは頭の中にしかない物語を紙の上で形にすることであり、それ以降の出版やら収益化やらの雑務は妹さんが全部進んで引き受けてくれているわけで、大いに助かっているのだ。
また、達郎は形式上の店主でありながら山青堂の経営にはほとんど口を挟まず一切をお内に任せきりにし、売れる話を書くことに専念しているわけで、お内にとってもこれ以上ありがたい話はちょっと考えられないくらいだった。つまり、山青堂を経営するにあたってお互いがお互いにとって最上不可欠のパートナーなのである。
話がややずれたが、山青堂の経営における達郎の貢献をお内が認めていないわけではなく、彼の自由になるお金をもっと増額するくらいは構わないと思っている……むしろどのタイミングでそれをやるかを悩んでいるくらいなのだが、達郎の側からそれを言い出さないので渡しているのは未だに丁稚時代に毛が生えた程度のお小遣いだった。
山青堂に住んでいれば食と住には金はかからず、仕事に必要なものは経費で落とし、趣味の一つである読書については手元に読み切れないくらいの本があり、たとえば着物を新調するなどの多額のお金が必要なときはその都度申し出ればお金を出してもらえて――食べ歩きができるくらいのお小遣いがあれば特に不自由することはないのである。
「そうか、食べ歩きを本にすればそれも経費で落とせるかな」
この時代に必要経費や税金対策などという考えは存在しないが妹さんに対してはそんな言い訳も必要――と達郎は勝手に思い込んでいる。
「ああ、『江戸買物独案内』でしたっけ。確かにあの本は売れていますね」
とお内はちょっと悔しそうに言う。「江戸買物独案内」は大阪の板元が刊行した、江戸の飲食と買い物のガイドブックである。序文を書いているのは太田南畝、口絵イラストは葛飾北斎。江戸へとやってくる地方者のためのガイドブックの元祖というべき本であり、また非常に好評を博し、これを真似たガイドブックが多数刊行されたという。
「それにあの本、広告を載せるのにお店からお金を取っているって聞きます。すごく上手いやり方です」
とさらに悔しそうに言うお内に左近がやんわりと異議を唱えた。
「でもああいう本を
「確かに人手も伝手も足りませんし……」
「いや、あんな案内の本を出そうって言うんじゃない」
達郎の言葉に二人がそろって小首を傾げ、右京もまた同じような姿勢となった。
「じゃあどんな本を書くつもりなんですか?」
「書き上がったら見せるよ」
達郎は煙に巻くように言い、二人の前を歩いていく。お内達はそれ以上の追及をせずただその背中を見守っていた。
「ものを食べるときはね、誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……」
「済まん、意味が判らんのだが」
渓斎英泉の突っ込みに達郎は「気にしないでください」と笑ってごまかそうとする。何日かを経てその日、達郎は英泉と連れ立って食べ歩きに出ているところだった。
「しかし、食べ歩きを絵草紙になどできるのか?」
「できなくはないと思いますよ」
そう答える達郎の念頭にあったのは二一世紀に出版されたグルメ漫画の数々、その中でも「孤独のグルメ」であることは言うまでもない。原作は久住昌之、作画は谷口ジロー。連載は一九九四年から一九九六年(その後二〇一五年まで読み切りが掲載)。輸入雑貨商を経営する井之頭五郎という男が仕事の合間に立ち寄った店で食事をする姿を描いた、ただそれだけの漫画である。
刊行当初は特別ヒットしたわけではないが息長くじわじわと売れ続け、TVドラマ化をきっかけに一気に知名度を上げた。台湾ではローカライズされたTVドラマが制作され、漫画版は世界各国で刊行されて好評を博している。
「仮に絵草紙にしたとしてそんなものが売れるかどうか」
「その辺の判断は妹さんに任せます」
まずは実際に行ってみて、絵にすることです、と達郎。英泉もそれ以上は疑問を挟まなかった。
場所は外神田から歩いてすぐ、両国橋を渡った隅田川の向こう岸の、回向院の向かい側。
「ええっと確かこの辺のはず……」
「あれじゃないのか?」
と英泉が指し示す先には一軒の飲食店が。店先の暖簾には「与兵衛鮓」の文字が記されている。
「おお、ここが……」
達郎は感無量の思いを抱きながら、喜び勇んでその店へと入っていく。英泉がそれに続いた。
店はかなり手狭で、客は十数人しか入らないだろう。この時代なのでカウンター席はなく座敷の席がいくつか並んでいるだけ。客はあまり入っておらず、二人は座敷の一つに着いた。
「それじゃ、海老と鯛と玉子と……」
お品書きから適当に選んで厨房の店主に直接注文。店主はにこやかに「少々お待ちを」とそれを受けて、調理を開始した。魚の切り身をさらに切って、飯を握って、切り身を乗せて、皿に盛って完成だ。瞬く間に出来上がったそれが達郎達の前へと配膳され、その速さに英泉が目を丸くしている。
達郎と英泉がそれを手に取り、ちょっとだけ醤油を付けて口へと運ぶ。酢飯と鯛が口の中で協奏曲を奏で、ワサビの刺激が彩りを添えている。達郎はそれをしみじみと味わった。
それは言わずと知れた、世界に冠たる日本料理のエース――寿司である。
寿司の起源を遡ると東南アジアの山岳地方にまで行き着くという。保存のために魚と飯を一緒に漬け込んだ発酵食品、「
熟鮓ではどろどろに溶けた飯は捨ててしまって魚だけを食べていた。時代が下がって室町時代、漬け込み期間を短くした「生なれ」が食されるようになる。早ければ漬け込んで四、五日で食べるようになり、この場合飯は充分に形を残していくらか酸味を帯びた味わいとなっている。魚よりも飯を食うことに比重を置いた食品へと形を変えたのだ。
江戸時代に入ると漬け込み期間はさらに短くなり一夜で作られるようになる。乳酸発酵を待たずに飯に酢で酸味を付けて、具材を入れて重しを乗せて一昼夜。「一夜すし」「早すし」と呼ばれるが、二一世紀では「押し寿司」にその形を残している。
そして江戸後期の文政年間、達郎が生きているこの時代。酢飯に生魚の切り身を乗せるだけという、早すしの究極形態が誕生する。それこそが「握り寿司」であり、せっかちな江戸っ子の気風に合ったのか一気に普及し、人気食品となった。これ以降「寿司」と言えば握り寿司のことを指すようになったくらいである。
「うん、面白い、旨い。もう一つもらおうか」
英泉が追加でさわらを注文をし、店主がそれを握っている。その姿に、
「まるで忍術使いだな」
と英泉が笑い、達郎はその見立てに感心した。言われてみれば寿司を握るその手つきは、忍術使い(忍者)が妖術を使う際に印を結ぶその両手とよく似ていた。そしてまたあっと言う間に握られた寿司が配膳され、
「この早さも忍術のようだな」
と英泉が言う。一方達郎は「この台詞は是非ネタにしなければ」と固く決意しているところだった。
この「与兵衛鮓」の店主・華屋与兵衛はその後ほとんど変わることのない握り寿司の原型を考案した人物とされている(諸説あり)。「与兵衛鮓」の営業開始は文政七年、つまり今年。要するに、達郎は握り寿司発祥の地まで握り寿司の原点を食べに来たわけだ。そしてその成果は充分以上に満足するべきものだった。
それから間もなく、達郎と英泉は膨れた腹を抱えて「与兵衛鮓」を後にし、帰路に就いた。
「なかなかいい店だったが……絵草紙になりそうなのか?」
「ええ。多分」
断言は避けるが、今日の取材の結果は既に達郎の頭の中で絵となっている。あとはそれを紙の上で現実とするだけだ。
英泉と別れた達郎は急ぎ足で山青堂へと戻り、筆を手にする。完成状態の草稿をお内と左近へと示したのはそれから数日後のことだった。
いつものように、お内と左近は横に並んで草稿を一枚一枚読んでおり、達郎はその向かいだった。達郎の描く絵草紙は大半が笑えるものなので、普段は読みながら左近が吹き出したりしている。が、今回は笑いが一つもなかった。
絵草紙の書題は「江戸美食
やがて二人がそれを読み終え……お内も左近も黙ったままだ。何を言うべきか、これをどう評するべきか迷っているような様子だった。
「その……どうでしたか?」
「ええっと……これはこれで乙な味わいだと思いますよ?」
と左近。ただ彼女は達郎の何を読んでも決して否定しない人なのであまり参考にはならない。一方お内は難しい顔で唸っている。散々唸った揚げ句に、
「……面白いんですか? これ」
「面白くなかったですか? これ」
ほとんど罵倒に等しいような酷評に達郎が疑義を返し、お内はまた唸った。本当に面白くないのなら彼女は遠慮会釈もなくそう直言する。読みどころがあり、面白いと感じるところがある。ただこれまで読んだことのないタイプの絵草紙であり、これを上手く評する言葉がないだけなのだ。
「ええっとその……絵はきれいだし台詞回しも面白いと思いますよ?」
左近が何とか頑張って自分が感じた面白さを伝えようとするが、伝わらないことの方がずっと多かった。元ネタの「孤独のグルメ」の魅力は谷口ジローの重厚な絵と、久住昌之の軽妙な台詞回しだが、それだけではない。作中に漂う独特の間と空気こそが最大の魅力であり、それは決して言葉にならないものなのだ。達郎はそれを再現するべく悪戦苦闘したわけだが、多少なりとも形になったようで一人安堵していた。
が、二世紀は未来を生きているこの作品が世に受け入れられるかどうかは別問題であり、その前にお内に認めてもらえなければ本として刊行することは不可能だった。達郎は御機嫌をうかがうように、
「その、どうでしょうか。やっぱり売れないと思いますか」
こんなの面白いとは思えない、売れるわけがないと、切って捨てることだろう――これを描いたのが達郎でないのなら。縁為亭未来のネームバリューと、これまでの実績、その二つはお内の不安を覆し、
「判りました、これを本にして出します」
彼女をしてそう決断させた。ことを決めたのなら後は決心が鈍らないうちに動き出すだけであり、お内はその日のうちから刊行準備を開始する。「江戸美食独歩」が本となって刊行されたのはわずか三ヶ月後、文政七年八月のことだった。
ときは文政七年閏八月、西暦なら一八二四年一〇月。「江戸美食独歩」が刊行されて約一月。七兵伝のような爆発的な大ヒット、とはいかなかったが、その売れ行きはまあまあの好調だった。悪い評判を聞くこともなく、その結果にお内も達郎もひとまずは満足している。
この絵草紙の影響で「与兵衛鮓」に長蛇の列ができ、自分の店を取り上げてもらうべく飲食店の店主が入れ代わり立ち代わり山青堂を日参して達郎を拝み倒し、達郎が逃げ出す羽目になったりもしたが、些細な余話……かもしれなかった。
また「江戸美食独歩」を真似た絵草紙が雨後の筍のごとく粗製乱造され、グルメ絵草紙の大流行が巻き起こるがさほど長い期間ではなかったし、達郎達に何か実害が生じたわけではない。
はたまた約百年後、「私小説」なるものが日本文学界に登場した際、
「縁為亭未来の『江戸美食独歩』こそが私小説の嚆矢というべき作品である」
などと評されたりもしたが、それこそ今の達郎には全く関係のない話だった。
そしてその日、達郎はお内と左近と右京を連れて「与兵衛鮓」へとやってきている。草稿を読んだときから「いずれ行こう」という話は出ていたのだが、夏場に生魚は危ないという達郎の判断があり涼しくなるまで待っていたのだ。
「これはこれは! 縁為亭未来先生じゃありませんか!」
「江戸美食独歩」を刊行する前に華屋与兵衛には断りを入れており、そのときからの顔見知りだ。与兵衛にとっては大繁盛のきっかけとなった大恩人であり、下にも置かぬ扱いだった。大行列を差し置いて達郎達は早々に店内へと案内されて席に着く。
「それじゃ鱸に鰹に鰻と」
四人はそれぞれに寿司を注文し、それを賞味した。右京も玉子を口いっぱいに頬張っている。達郎達が食べ終わった満腹となったのを見計らい、与兵衛がやってきた。
「いかがでしたか?」
「評判になるだけはありますね。とてもおいしいです」
とお内。左近もまたそれに同意した。が、
「でも二つでもうお腹いっぱいです」
「そうですね。もう少し色々と食べたかったんですけど」
とお内も残念そうだった。
この時代の寿司は非常に大きく、二一世紀のそれと比較すれば二倍以上、ちょっとしたおにぎりのようなサイズだった。二一世紀、寿司屋では二貫一セットで出てくるのが一般的だが、これは大きかった寿司を二つに切って食べやすくして出したのが起源だという。
「これの半分くらいの大きさだったらもっといろんな種類が食べられて楽しいんじゃないかと思います」
達郎の提案に与兵衛は「なるほど」と感心し、「考えてみましょう」と頷いている。寿司は元々屋台で提供されてその辺で立って食べることを前提としたファストフードだ。そうであるなら一つ二つ食べて満腹となる大きさが適切なのだろうが、この先「与兵衛鮓」を高級店としようとするなら握る寿司の大きさにも一考の余地があるべきだった。
「あとはそうですね……」
調子に乗った達郎が稲荷寿司や五目ちらしのアイディアを提供、与兵衛は目を輝かせている。両者とも世に登場したのは天保年間、この時代にはまだなかったものである。
その話が終わったところで、
「ああ、汁物もあるんですね。いただけますか」
左近がみそ汁を注文。すぐに四人分のそれが配膳されて、達郎達がそれをすすり、
「……」
一応それを完食した達郎達が店を後にする。帰路の道中、お内達は長らく無言だった。
「……美味しかったですね。お寿司は」
「ええ。お寿司は」
達郎もまた頷いてそれに同意した。本来の歴史においても「与兵衛鮓」は大いに繁盛し、明治期には立派な店構えを有していたが、昭和五年に閉店する。子母澤寛は与兵衛鮓について、
「めしはよかったし、玉子もよかったが、後はことごとく零であった」
と書き残しているという……。
参考文献
飯野 亮一「すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ: 江戸四大名物食の誕生」ちくま学芸文庫
大久保洋子「江戸のファーストフード~町人の食卓、将軍の食卓」講談社選書メチエ
原作久住昌之・作画谷口ジロー「孤独のグルメ」扶桑社文庫
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