第三六回(文政八年六月)
翌日の朝一番、達郎は長崎屋を訪問した。シーボルトに面会を求め、それは即座に承諾されて今、達郎は一室でシーボルトと対峙している。シーボルトの横には登与助が控えているが達郎は彼に一瞥を向けただけだった。
「長らくお借りしていたものをお返しに来ました。西洋画帳と『武器・武具図帖』、ご確認ください」
達郎はそう言ってその二冊と、さらに江戸城の見取り図を差し出す。登与助がそれを受け取ってシーボルトに手渡し、二人が確認した。
「西洋画帳と『武器・武具図帖』、確かにお返しいたしました」
達郎がその二冊の名前をくり返して念押しする。見取り図のことには一切触れないがそれは確かにそこにあった。
「……間違いなく」
登与助がそう頷き、シーボルトもまた同意する。江戸城の見取り図が達郎の手に渡った事実、それ自体をなかったことにすると達郎が言外に示し、二人もそれに合意したのだ。
「今回は色々あって注文を果たすことができませんでした。その代わりと言いますか、西洋画帳を借りたお礼としてこちらの方を、どうぞ」
達郎がそう言って差し出したのは、葛飾北斎の「北斎漫画」や「古事記絵図」の他、「祓い屋三神極楽始末帳」「鎮西武英闘七兵伝」「萌え漫画往来」等、達郎がこれまで描いてきた作品一式である。その中には「天下無双日本号」「天宇受売命舞踏絵図」といった春画本も含まれている。
シーボルトは意外そうな顔をするが、それらの贈り物を喜んで受け取った。達郎がそれらを贈呈したのはシーボルトに対する好意のためでは決してない。彼に対しては恨みつらみしかないがそれはそれとして、シーボルトが日本のことを西洋に紹介する、その役割の大きさは無視し得ないものだった。シーボルトがこれらの手土産をヨーロッパに持ち帰って達郎の絵を紹介し、達郎の絵が北斎の絵とともに歴史に残り――想像するしかないことだがそれでささやかな自己顕示欲は充分満足させることができるのだった。
「プロイセンへの手土産にしてください」
シーボルトの愕然とした顔に多少の留飲を下げて、達郎は長崎屋を後にする。この男とはもう縁が切れた、これ以上関わることはない――達郎はそう思っていたのだが、そういうわけにもいかなかった。
シーボルトが御禁制の日本地図を手に入れた事実が発覚し、いわゆる「シーボルト事件」が始まったのはそれから約二ヶ月後、文政八年五月(一八二五年六月)のことである。
本来の歴史において「シーボルト事件」が起こったのは文政一一年(一八二八年)。今の達郎からすれば三年も先のことだ。シーボルトの帰国直前、荷物を乗せた船が台風で座礁。その積み荷の中から御禁制の日本地図が見つかったのが発端だという。後にこのときの台風には「シーボルト台風」の名前が与えられている。
だが、シーボルト事件の内幕に深くかかわった今の達郎からすればこの経緯には疑わしいところが多々あった。本来の歴史においてもシーボルトは当局の厳重な監視下にあったのは間違いない。そうであるなら台風はただの口実で、当局は彼を摘発する機会をずっとうかがっていたのだろう。
そしてこの時間軸での「シーボルト事件」である。彼の帰国直前どころか江戸参府の直後と言っていいこの時期に御禁制品を手にした事実が発覚。シーボルトは身柄を拘束され、周囲の人間は厳しい取り調べを受けているという。達郎もまた例外ではなく、彼は奉行所に呼び出されて尋問を受けた。
「間宮林蔵に訊けばいい。あの人が一から十まで全部知っている」
と言いたい気持ちをぐっとこらえて表向きは恐れ入りった態度をひたすら装う。「シーボルトとは仕事を依頼されただけ」という内容を言い方を変えてくり返し、延々と主張し続けた。達郎への尋問には一日近くが遣われ、またその追及は生易しいものではなく、それが終わったとき達郎の精根は尽き果てていた。が、逆に言えばただそれだけであり、特におとがめはなし。役人にその場で叱責されただけである。
葛飾北斎もまたシーボルトから仕事を依頼された件で達郎と同時期に取り調べを受けたのだが、それは非常に手短なものだったという。
「すまねえな、とんだことに巻き込んじまって」
「武器・武具図帖」を抱え込んで自分から遠ざけたのはこのためだったのだと北斎は理解。また良かれと思ってシーボルトを紹介したのにそれが裏目に出てしまったわけで、北斎は達郎に頭を下げた。だが、達郎としては尊敬する北斎をこんな事件に巻き込まずに済んで良かったと、心からそう思っている。以前のように親しく付き合ってもらえるなら他に北斎に望むことなど何もなかった。
達郎が事実上処罰なしだったのは、あるいは間宮林蔵や遠山景元の口添えがあったためかもしれない。だが他の人間はそうもいかなかった。真っ先に身柄を拘束された高橋景保を筆頭とし、土生玄碩、長崎屋源右衛門、馬場為八郎、吉雄忠次郎、稲部市五郎、川口源次郎、岡田東輔、門谷清次郎、吉川克蔵、永井甚左衛門、それに川原慶賀。何らかの処罰を受けた者は最終的には五十余人を数えたという。
だがそれはかなり先のことだし、正確なことは達郎の立場では知りようがなかった。事件が始まってから約一月、文政八年六月。シーボルトは長崎の奉行所で拘束中で、江戸では蘭学者への粛清の嵐が吹き荒れ、「今日は誰それが捕まった」という噂話が毎日のように流れてくる最中――だがそれらは結局他人事で、達郎は戯作者としての日常を取り戻している。
「どうしてわざわざ青林堂で合巻を!」
「いやそのー、先日の件で色々とお世話になったしそういう約束だったから」
お内の剣幕に達郎が懸命に言い訳をし、一方の春水は「あっはっは」と余裕の笑みを見せる。それがお内の神経を逆なでした。その日、青林堂で出版する合巻の打ち合わせのために春水が山青堂を訪れたところである。
「でも七兵伝と比べれば大分地味な話だから」
「いやいや。鬼にされてしまった妹を人間に戻すために二人で旅に出る……これだけでもう面白そうじゃないですか!」
まずは何冊刷ろうかと算盤を弾く春水を、
「七兵伝ほどじゃないとしてもすごく売れそうな話なのに……!」
お内は歯軋りしながらにらんでいる。そして達郎は素知らぬ顔でそっぽを向いているが密かに冷や汗を流していた。後にこの合巻が記録的な大ヒットとなったためにお内から雷を落とされることになるのだが、それはかなり先の話――現時点でもう目に見えた話でもあるのだが。
「随分とまた景気がいいみたいじゃねえか」
そこにふらっとやってきたのは、
「新橋の旦那」
春水は遠山金四郎景元のことをそう呼んだ。驚きに目を見開く達郎だが、一呼吸入れた上でいかにも商人という笑顔を作って、
「おや、遊び人の金さんじゃありませんか」
無礼千万の物言いだったが金四郎のツボに入ったのか、彼は腹を抱えて爆笑した。お内と春水は戸惑ったような顔を向け合っている。
その後、達郎は金四郎と二人で連れ立って外へと出て歩き出した。神田川に沿ってしばらく歩けば江戸城のお堀へと行き当たり、目の前には石垣がそびえている。
山青堂からここまでほとんど会話はなかった。達郎は何度も彼の横顔をうかがい、金四郎はその視線に気づかないふりをしている。
――遠山金四郎景元。寛政五年(一七九三年)生まれでこの年満三二歳。景元の父・遠山景晋は元々永井という家の人間だったが遠山家に養子にもらわれ、その後に養父に実子の景善が生まれる。それでも遠山家の家督を継いだのは景晋だったが、景晋は景善を養子にして自分の次に家督を継がせるつもりだった。その中で景晋の実子として生まれたのが景元であり、彼が若い頃放蕩無頼の遊び人だったのはこの複雑な家庭環境が理由と言われている。
「遠山の金さん」と言えば「桜吹雪の刺青」が時代劇でおなじみだが、これが史実かどうかの確定的な資料はない。本当に刺青をしていたのかも定かではなく、その図柄も桜吹雪の他に「首から上だけの、髪を振り乱した美女が紙を噛み締めている」というものだったという説もある。なお「女の生首」の図柄はその当時はありふれたもので、さらには彼のそれはいまいちな出来だったと伝えられている。
「いいんですか? こんなところで油を売っていて。何かとお忙しい中なんじゃ」
「俺の仕事は終わったからな。今は暇なもんさ」
史実通りなら遠山景善は去年に死亡しており、景元は文政八年、つまり今年から江戸城に出仕しているはずである。次期将軍・家慶の側仕えという、およそあらゆる若い武士にとって夢のような要職・顕職で、こんなところで戯作者とふらふらしていていい身分ではないはずだ。あるいは吉原風邪の影響で彼は未だ出仕していないのかもしれないが、そこまで踏み込んだことはさすがに訊ねられなかった。
もし彼がまだ出仕しておらず、身体が空いているなら――「家の仕事をちょっと手伝っている」とは為永春水の証言だ。景元の父・遠山景晋は早くから外交関係、特に対ロシア問題を担当。外交交渉のために東奔西走し目覚ましい活躍をしたという。この年二月に発令された「異国船打払令」を主導したのも景晋である。
遠山景晋は、幕府はロシアの動きに神経をとがらせており、おそらく高橋景保には「ロシアの情報を入手せよ」という圧力が陰に陽にかかっていたことだろう。高橋景保は何としてでもシーボルトからロシアの情報(クルーゼンシュテルンの「世界周遊記」)を手に入れる必要があり、それと交換でシーボルトに売り払ったのが日本の国防機密である伊能忠敬の日本地図(さらには江戸城の見取り図)だったわけだ。
江戸参府を終えて長崎に戻ったシーボルトは、おそらく約束を守って高橋景元に「世界周遊記」を送った。それが手に入るまでシーボルトの告発をストップさせていた……そう考えるべきではないだろうか。単に防諜が目的なら江戸にいる間にシーボルトを拘束してもよかったはずなのだから。間宮林蔵がシーボルトを告発しようとし、遠山景元が待ったをかけていた、今から思えばそういう構図だったのだろう。
では、シーボルトが動かした襲撃者は何者だったのか? あの騒動の後、噂話を聞いたり柳亭種彦に会ったりして情報を収集し、不足していた知識を補い、思考を重ねて得られた一つの推論がある。
「聞いた話ですが、とある大きな家でお舅さんが亡くなったそうで」
達郎が江戸城の石垣へと、その奥へと目を向けながら独り言のようにそう言う。金四郎は「ほう」と面白そうな顔をした。
「外から見ただけで判ることじゃないですが、そのお舅さんは今の旦那さんとあまり上手くいっていなかったのかもしれません」
「とっくに隠居した人間に色々とくちばしを突っ込まれたら、そりゃ面白くはねえだろうな。外の家の者ならなおさらだ」
「そのお舅さん、亡くなる直前に何か大きな不始末をしでかしたそうで……今の旦那さんからお叱りがあったんでしょうかね」
それで気落ちをして……と憶測する達郎。金四郎は「さてな」と他人事のような顔をした。
「そのご隠居の家の者が不始末とやらを何とかごまかそうとしたのかもしれねえが、それこそ外から見ただけで判る話じゃねえだろうな」
達郎は「なるほど」と何度も頷き、「ありがとうございます」と付け加えた。
――島津重豪。西の雄・薩摩藩の元藩主で、その娘は現将軍家斉の正室。家斉だけでなく他の娘も各地の有力大名家に嫁ぎ、また三人の息子を他の大名家の養子とするなど、婚姻外交で勢力を拡大。その権勢は「高輪下馬将軍」と称されるほどだったという。また同時にヨーロッパの学問や文化に強い関心を持ち、「蘭癖大名」としても有名だった。そして江戸参府中のシーボルトにも何度も面会しているのだ。
島津重豪は浪費家として知られ、借金を返すために大陸と密貿易をしている、という噂すら耳にすることがあった。密貿易の相手としてオランダが候補となっていてもおかしくはなく、シーボルトとの密談ではその交渉があったのかもしれない。またそんな理由でもなければいくら何でもシーボルトの言いなりになって藩士を動かしたりはしないだろう。
もし将軍家斉にとって島津重豪が目障りな存在だったのなら。幕府が「シーボルト事件」を引き起こした目的が西洋かぶれの連中に対する綱紀粛正だったとするなら、その標的の中に島津重豪が含まれているのは疑いない。異国の間諜と深い付き合いがあったという事実は島津重豪にとって大きな痛手となったはずである。史実の「シーボルト事件」後、島津重豪はおそらく政治的に無力化されたことだろう。
島津重豪は今年三月、シーボルトの江戸参府中に病没している(史実では一八三三年死去)。彼はもう七十を過ぎており、いつ何があっても別段不思議のない年齢だった。だがそれでも、いくら何でもタイミングが良すぎて不自然であり、何らかの作為があったと考えたくなる。
もしシーボルトが依頼して島津重豪を動かしたのなら、彼の命令により島津藩士が山青堂と達郎を襲撃したのなら。その身柄を間宮林蔵らが確保したのなら。その事実を島津藩が知ったなら――たとえ町人相手だろうと藩士が江戸の町中で火付け盗賊をやろうとしたのだ。最悪のスキャンダルであり、隠居した元藩主だろうと問答無用で詰め腹を切らせて全てをなかったことにしようとしてもおかしくはない。あるいは毒でも盛られたのか――だが全ては推測に過ぎず、「外から見ただけで判る話」ではない。真実はおそらく永遠に闇の中となることだろう。
「全ては『外から見ただけ』の当てずっぽうだ」
金四郎はそれをくり返しつつ、
「いい加減な噂話を言い広めたり何かに書いたりしたなら……」
「しませんよ、そんなこと」
達郎が憮然としながらも即座に断言し、金四郎は「ならよかった」と満足げに笑う。
「俺も七兵伝の続きを読みたかったしな」
逆に言えば今の返答次第で続きを書けない事態もあり得たということで、達郎は改めて背筋が凍る思いをした。今日彼が会いに来た主要な目的は口止めのためで、達郎の憶測を否定しなかったのは今回の一件の謝意のつもりなのかもしれなかった。
「それじゃあな。続きを楽しみにしているぜ」
それを別れの言葉として金四郎が立ち去る。達郎はその背中を見送り、充分に遠ざかったのを確認して、
「くだらない……!」
ありったけの憤懣をその場に吐き捨てた。
ヨーロッパ列強は虎視眈々と日本侵略を狙っており、シーボルトはその先兵。「シーボルト事件」とはヨーロッパのスパイによる事件だったのだ。その背後には幕府内の陰謀が、権謀術数が関わっていたわけだが、所詮はコップの中の争い、幕府という井戸の中でカエル同士が権力を争っているに過ぎなかった。幕府が自分の目的のためにシーボルトをいいように利用した結果、オランダは日本地図や江戸城の見取り図といった国防上の重要機密を手に入れている。果たしてこれが割りの合う取引だったのか? もしオランダやその他の列強がこれらの情報を利用して日本侵略を成功させたなら、この事件を主導したメンバー、徳川家斉や間宮林蔵や遠山景元らは全員どうしようもない無能として糾弾されるべき存在となったことだろう。
今、達郎は金四郎との約束と全く反対のことを考え、決意している――書き残さなければならない、「シーボルト事件」の真実を。自分が関わり、見聞きし、体験した全てのことを。もちろんそれを公表できるのはずっと先のこと、少なくとも徳川幕府が倒れるまでは待つ必要がある。史実通りでもそれは四〇年以上も先のことで、それまで自分が生きているかも判らなかった。
今回の一件を文書にして秘匿して……いや、今回は運良く焼失を免れたが、山青堂がいつ火事に見舞われても不思議はない。それに関東大震災や東京大空襲で失われた古文書も数知れないという
晩年の葛飾北斎は長野県小布施の豪農商・高井鴻山をパトロンとし、小布施にアトリエを提供してもらっていたという。自分にもそんなパトロンがいれば……いや、いっそ高井鴻山を頼ってもいい。北斎を通じて紹介してもらうのはそう難しくはないだろうが、彼等が既知となるのは何年頃のことなのか。
「何にしても、今すぐの話じゃないな」
高井鴻山に託すのは「シーボルト事件」文書だけに限る必要はない。七兵伝の草稿や草生ル萌の肉筆画なども残したらいいだろう。達郎は思案を練りつつ、山青堂への帰路へと就いた。季節は西暦なら七月。夏の日差しがお堀の水に反射し、きらきらと輝いている。
史実と同じように高橋景保が獄死し、「シーボルト事件」の真相究明が頓挫したのは文政八年の年末。シーボルトが国外追放となったのは翌九年のことだった。
日本での活動期間が史実より短かったこともあり、日本での収集品の量は史実と比較すればかなり見劣りしていた。だがそれでも膨大な量であり、それを元に帰国後出版した日本に関する報告書の数々はヨーロッパで大評判となり、彼は一躍時代の寵児となった。
また、シーボルトを嚆矢として日本の浮世絵の数々がヨーロッパに紹介され、後にジャポニズムという芸術の一大潮流を生み出すこととなるのは史実の通りである。が、その中には本来の歴史にはなかった「萌え絵」なるものが存在した。
この「Moe・E」がヨーロッパの絵画界で巻き起こした一大センセーションをもし達郎が知ったなら「ささやかな自己顕示欲」などと暢気なことは言っていられなかっただろうが……知らぬが仏というものだった。
【後書き】
本来このあと第二輯のまとめに入るわけですが、肇輯と比較すると量が少なすぎなのと30回と31回の間の作中時間が大きく空いていることがあるので、37回からはこの間を埋めていくつもりです。
ただ書くネタがないため「シーボルト編」を先に書いたので、これから資料を読んで使えるネタを探すところからやる必要があり多分またかなりお待たせすることになるものと思います。どうか気長にお待ちください。
追記・37回~40回で間を埋めましたので、ここから余話に読み進みください。
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