第三八回(文政七年九月)



 ときは文政七年九月、西暦なら一八二四年一〇月下旬。


「新しい合巻のネタを考えてきました。読んでもらえますか」


 そう言って達郎がお内と左近に草稿の束を差し出した。もちろん二人がそれを断るはずもない。左近にとっては縁為亭未来の新作を誰よりも先に読む機会なのだし、お内にとっては金の生る木がまた一本増えるわけなのだから。

 その草稿は完成稿ではなくまだ下書きの段階だ。それでもキャラクターは結構描き込んでいて内容を把握するには充分以上だった。その書題は、


「『居眠小五郎謎解明いねむりこごろうなぞときあかし』……どんなお話なんでしょうか」


 首を傾げるお内に左近が「読めば判りますよ」と急かす。それもそうかとお内は頁をめくった。

 ――ときは室町の頃、毛利小五郎はとある武家の生まれだが部屋住みの厄介者だ。放蕩が過ぎて実家を追い出された彼は町中の貧乏長屋で、何をするわけでもなく日がな一日居眠りをして暮らしている。その彼の家を訪れる目明かしの工藤。自分が抱える様々な事件を工藤が小五郎に語って聞かせ、小五郎がアドバイスをして事件解決の糸口を与える……というストーリーである。

 工藤が持ち込む謎に首を傾げ、小五郎が鮮やかに解決する姿に目を見張る。読み終わった二人は関心、または畏敬の目を達郎へと向けた。


「よくこんな話を思いつきますね」


「本当にすごいです」


 二人の讃嘆に達郎は気まずげな顔で「俺が考えたわけじゃないんで」とくぎを刺す。二一世紀の人間からすればそれが青山剛晶の「名探偵コナン」を元ネタとした推理物なのは言うまでもないことだった。

 「名探偵コナン」は一九九四年から少年サンデーで連載開始、一九九六年からTVアニメの放送開始。二〇年以上にわたって続く人気コンテンツであり、達郎も小学生の頃に夢中になってコミックスを読みふけった記憶がある。


「そう言えば江戸時代の合巻や読本に推理物って存在しないよな」


 ないなら書かねば、と思いたった達郎が元ネタとするのに、一番慣れ親しんだ「名探偵コナン」を選んだのはある意味当然のことだった。もっとも江戸時代に腕時計型麻酔銃やら蝶ネクタイ型変声機やらを出すわけにもいかず、時代に合わせて翻案していくと原型が欠片も残らない結果となってしまったが。多少なりとも面影が残っているのは登場人物名くらいのものである。

 そして何故「工藤新一」ではなく「毛利小五郎」が主役なのかと言えば、前者より後者の方が江戸時代の名前として自然であり、またずっと主人公らしいと感じられるからだ。それに何より「眠りの小五郎」の二つ名の、なんと格好良いことか! この二つ名を何とか使いたいと考えたとき、物語が「安楽椅子探偵」となることもまた自動的に決定された。なお「安楽椅子探偵」とは推理小説のジャンルの一つで、名探偵が事件現場に赴かずに新聞や人から聞いた話のみを情報源とし、推理を展開して解決する形式である。

 主人公を例えば「湖南コナン庵」とすることも考えたのだが、その元ネタであるアーサー・コナン・ドイルは一八五九年生まれ、「シャーロック・ホームズ」シリーズを開始するのは一八八七年。タイムスリップによるバタフライ効果もそんな近い将来のイギリスまで及ぶとは思えず、自重したのだ。


「それで、どうですか? 刊行できそうですか?」


「多分これなら大丈夫でしょう」


 これを世に出すにあたって問題となるのは「幕府の検閲を突破できるか」だ。作中で殺人事件を扱うこともあるのだが、目明かしの工藤が語って聞かせるだけなのでその分陰惨さは大幅に低減している。今の世の中これよりもずっと血なまぐさい敵討ちを扱った草双紙が山のように出版されており、これが見咎められる可能性はかなり低いと考えられた。

 そしてお内の見込み通り何事もなく添章を獲得し、明けて文政八年一月(一八二五年二月)「居眠小五郎謎解明」が刊行される。なおエドガー・アラン・ポーが世界最初の推理小説「モルグ街の殺人」を発表するのは一八四一年。それに先んじること一六年、この時間軸では世界最初の推理物だ。元の時代ではポー以来、全世界で何千何万という推理小説・ドラマ・漫画等が書かれてきた。その中で登場した「名探偵コナン」は謎の組織などの様々な要素を取り入れて目新しさを出してきたわけだが、翻案によりそういう要素を全部排除した結果「居眠小五郎謎解明」はド直球の推理物、推理物の王道のど真ん中を行く作品となっている。

 この合巻は例によって大ヒットとなり、達郎はお内から続きを描くように尻を叩かれた。またこの作品をきっかけに推理物ブームが巻き起こり、これを真似た推理物が粗製乱造されるわけだが、それらは達郎が新しい作品を発表するたびに発生する恒例行事のようなものだった。だが、


「御免、縁為亭未来先生は御在宅かな」


 二月初旬のその日、柳亭種彦が持ち込んだその厄介ごとは、これまでの経験にもない予想外の事態だったのである。






「どうも、お久しぶりです。今日はどうしたんですか?」


 柳亭種彦は居間へと通され、達郎とお内は彼と向き合っている。種彦は居心地が悪そうな様子で、時間稼ぎのように出されたお茶をすすった。「あー」とどこから話をするべきか迷い、しばしの時間を経て、


「相変わらず山青堂は景気が良いようだな。先日出された合巻を読んだが途轍もなく面白かったし、私の周りでも大評判だったぞ」


 ありがとうございます、と頭を下げる達郎。


「私もああいうのを書いてみたくなった」


「ああ、それは読んでみたいですね」


「刊行するのは是非山青堂うちで!」


 と身を乗り出すお内。種彦は「考えておこう」と苦笑した。


「ところで今回の本で扱ったのは町人の話ばかりだったが武家のことは扱わないのか?」


「一つくらいそれで描きたいとは思っているんですけど。何かいいネタはありますか?」


 撒いたエサに獲物が食らいつき、種彦の目が輝いた。


「実は先日のことだが、とある大名屋敷に盗人が入り込んでな。若様が許嫁のために手に入れたかんざしを盗まれたのだ」


 はあ、と判ったような判らないような相槌を打つ達郎。


「そのかんざしは密室……鍵のかかった蔵から盗まれたとか」


「いや。若様は自分の部屋に置いていた」


「家中の誰かが盗んだと疑っているとか」


「いや。盗人がかんざしを掴んで逃げていくところを何人もが見ている」


「家中の誰かがその盗人に手を貸したとか」


「何かそう考える理由があるのか?」


 と迫る種彦に対し、達郎はその分精神的に後退した。


「いえ、まさか。ただ、謎解きとして成り立たせるには何かそういう鍵がないと」


 うーむ、とどこか不満げに唸る種彦。その彼に対しお内が、


「あの……まさかとは思いますが、兄さんにその盗人を見つけ出せと」


「その、何か糸口くらいは判るのでないかと」


 気まずげにそう言う種彦に対し、達郎は開いた口が塞がらないため何も言えないでいた。誰にとっても居心地の悪い沈黙が思いのほか長く続くが、一番居たたまれなかったのは間違いなく種彦だっただろう。


「私が言い出したわけではない。その家の誰かがあの合巻の話を持ち出して、たまたまうちと知り合いだったために」


「藁をもすがるつもりで兄さんに」


 種彦の懸命の言い訳にお内がそう応え、彼は強く頷いた。一方の達郎は頭を抱えている。


「……あれはあくまで作り物のフィクションおはなしです。現実ほんとうとは別物です」


「それは判っている」


「謎解きだってあらかじめ解ける謎を用意してやっていることであって、本当にそれができるわけじゃないのに」


 それは判っている、とくり返す種彦。歴史にその名を残す戯作者たる柳亭種彦がそんなことも判っていない、とは達郎も思いはしない。だが今問題なのは彼のその知り合いの方なのだ。

 そもそも話を聞いただけの達郎が犯人逮捕の糸口を掴むには、まずその犯人が自分の素性に関するヒントを残していなければならず、それを被害者の家中の者が認識した上で「事件解決のヒントだ」と理解してはならず、そのヒントを余すことなく柳亭種彦に伝え、また彼も「それがヒントだ」と理解してはならず、さらにそれを十全に達郎に伝えなけばならない。……こう考えていくと「安楽椅子探偵」なるものがフィクションの中でしか成立し得ないものだということがよく判る。

 達郎が事件現場に行って調査をすれば、事件の当事者から直接話を聞ければ、あるいは何かヒントを掴める可能性はゼロではない。ゼロではないが、現実的にはゼロと同じだった。仮に柳亭種彦の話の中に何かヒントがあったとしてもそれにすら気付かない可能性の方がずっと高いだろう。二一世紀で達郎が「平成のシャーロック・ホームズ」等と呼ばれる名探偵高校生だったのならともかく、彼は二流私大の平凡な大学生でしかなかったのだから。作中の「解ける謎」すら自分で考えたものではなく、「名探偵コナン」や二一世紀で読んだ太田忠司などの推理小説からパクったものでしかないのだから。


「お話の中に忍術使いや妖術使いが出てきたなら、その戯作者は忍術や妖術が使えるって言うんでしょうかね」


 お内の皮肉に種彦は「道理だな」としか言えないでいた。こんな事態には達郎の未来知識も何の役にも――


「え……ちょっと待て」


 その未来知識の中の、ある事項が検索に引っ掛かった。この時期に大名屋敷を狙って盗みをくり返した、ある有名人がいる。名前はもちろん、略歴も頭に入っている。種彦にそれを伝えれば彼を見つけて捕まえるのはさして難しくはないだろう。だが、


「……兄さんまさか」


「何か気付いたことがあったのか?」


 達郎はそのときになってようやく二人の注目を集めていたことに気付いた。


「いや、何でもない! 何でもありません! ただの気のせいです!」


 その「彼」がこの時間軸でも盗賊稼業に精を出しているとは限らず、無実の人間を冤罪で陥れることにもなりかねず、仮に真犯人だったとしてもどうやってその名前を知ったのか、何をどう疑わしいと思ったのか、どうにも説明不能である。逆に達郎の方に嫌疑が及びかねないし、そうでなかったら今後も犯罪捜査に駆り出されることも考えられる話だった。その彼が凶悪な連続殺人犯とかならともかく、単なるケチなコソ泥なのだ。身の危険を冒してまで彼を捕縛するべき理由を、達郎は持っていなかった。

 あまりにも強く否定しすぎてかえって疑わしいくらいだが種彦は特に追求はしなかった。


「ところで大名屋敷なら金はいくらでもあるのにわざわざかんざしを盗んだのは」


「珊瑚をあしらった、見るからに高価なかんざしだったらしい。家人に見咎められて、咄嗟に金目の物を掴んで逃げたようだ、と言っていた」


「それなら多分そのかんざしを金に換えようとするでしょうからそこで見つけられるかもしれません。人海戦術……人手と足を使って探し回るしかないように思います」


「確かにそれが道理だな」


 と種彦がため息をつく。彼が山青堂を辞去したのはそれからすぐのことである。その種彦と入れ替わるように先代の山崎屋平八、現ご隠居が姿を現した。


「金七はいるかい? そろそろ出かけるんだが」


 はい、ただいま、と金七の声が店の奥から聞こえる。彼が出てくるまでの間に達郎は、


「お出かけですか?」


「ああ、昔世話になった方の息子さんが今度質屋を開いたそうでね。そのご挨拶にね」


 質屋、と呟く達郎。そこに「遅くなりました」と金七がやってきて草履を履いた。ご隠居と金七が出かけようとしたそのとき、


「あの、すみません。俺も一緒に行っていいですか?」


 突然の申し出に首を傾げるご隠居だが特に断る理由もなく、達郎は二人に同行することとなった。

 そして外神田から歩くこと一時間以上。やってきたのは芝金杉町、二一世紀の地名なら港区芝一丁目あたり。二一世紀でも思いのほか海が近い場所だがこの時代は埋め立てが進んでおらず、江戸湾は目の前だ。その町に「越前屋」という質屋があり、ご隠居がその暖簾をくぐる。達郎と金七がそれに続いた。


「やあ勘兵衛さん。お久しぶりだねえ」


「お久しぶりです。今日はありがとうございます」


 質屋の主人は勘兵衛という名の、実直で生真面目そうな男だった。年齢は四〇の手前くらいか。店には一〇歳手前と思しき子供がいて、ご隠居や達郎に頭を下げる。が、すぐに勘兵衛の後ろに隠れてしまった。


「これ、芳三郎」


 困ったように息子を叱責する勘兵衛。どうやらかなり大人しく人見知りをする子供のようだった。


「申し訳ない。息子はどうにも気が小さくて」


「いえ、お気になさらず」


 と達郎。実際、実の娘同然の右京と比較すれば彼は全然普通の範疇だった。


「どうだい? 景気の方は」


「いやあ、なかなか」


「まあ、まだ始めたばかりだからねえ。これからだよ」


「いや、それでも……うちと比べて山青堂さんは景気が良くて羨ましい限りです。この間出された『居眠小五郎』もよく売れているようですし」


「『居眠小五郎』?!」


 といきなり芳三郎が食らいついてくる。ご隠居が目を丸くするがそれも一瞬だった。


「ああ、あれを描いたのがうちの息子の二代目山崎屋平八、縁為亭未来だよ」


 と大威張りで達郎を指し示すご隠居。芳三郎は「ほあー」と目を輝かせて達郎を見つめ、達郎はやや居心地が悪そうにした。


「『七兵伝』読んでます! 『祓い屋三神』ももちろん!」


「ああ、うん。ありがとう」


 元の時代ならこんなときは握手の一つもするのだろうが、この時代にそんな習慣はない。ちょっと困った様子の達郎の一方、勘兵衛は、


「まったくこの子は、読本や院本(浄瑠璃本)ばかり読みふけっていて、うちの仕事をろくに覚えようとしませんで」


 と愚痴を口にする。


「それなら将来は戯作者かい?」


「いえ、まさか。いっそどこかの貸本屋にでも奉公に出そうかと思っているんですが」


「それなら山青堂うちで面倒を見てもいいかもしれないね」


 ご隠居の思い付きのような言葉に芳三郎は「ほあー」とさらに目を輝かせた。だが確かに、七兵伝を初めとした本の売れ行きは絶好調で、手代はみな忙しくしていて人手が足りていない。金七もそろそろ丁稚から手代に昇格させてもよく、それならなおさら丁稚を一人追加する必要があった。だが、


「その辺は最後には妹さんが決めることですよ」


 と達郎は釘を刺す。達郎が山青堂の経営権を有していると言っても形だけのことであり、人事も含めた全ての決定権を握るのはお内の方だった。


「ごめんください」


 そこに一人の来客があり、達郎達は商売の邪魔にならないよう店の奥へと移動した。勘兵衛がその女性客に応対する。まだ若い、二十代半ばの女性だがどこか崩れた雰囲気があり、夜の商売をしているのではないかと感じられた。


「ちょっとまとまったお金が入用になりまして……何年か前にいただいたものなのですが」


「ほう。これは見事なかんざしですな」


 その単語に反応した達郎が襖の隙間からその客の様子を覗き見し、金七と芳三郎がその真似をした。


「これは珊瑚ですかな。これほどのものとなると一両や二両はお貸しできるかと思いますが……」


 その鑑定結果に相好を崩す女性。だが彼女は勘兵衛の目が笑っていないことに気付いていなかった。


「証人(保証人)のお連れはおられませんかな」


「証人?」


「証人もなしに質草を引き取ることはできません。これはどこの質屋に行こうと同じです」


 女性は険しい顔になって舌打ちする。それは一瞬のことだが勘兵衛が見逃すはずもなかった。


「色々と不都合がありまして……このくらい融通を効かせてもいいでしょう? 魚心あればなんとやら、とも言いますし」


 精一杯の笑顔で媚びを売る女性だが勘兵衛の姿勢は小揺るぎもしなかった。


「証人がいなければ話になりませんな。まさかとは思いますが、これが盗品でないという保証が」


「おう、てめえ!!」


 その女性――いや、男だ。正体を現したその女装の男が、突然ドスを利かせた声を出して着物の片肌を脱ぐ。


「俺が盗人だって証拠でもあるのかよ! この俺を誰だと思ってやがる!」


「さて、何処のどちら様でしょうか? 是非聞かせていただきたいところですが」


 勘兵衛の皮肉げな物言いにその男は盛大に舌打ちする。男はかんざしをひったくるようにとして取り返すと、


「覚えていろよ!」


 と陳腐な捨て台詞を残して店から出ていった。次の瞬間達郎が奥から店先へと飛び出してその背中を探す。男の後ろ姿はまださほど遠ざかっておらず、達郎は慌てて物陰に身を隠した。さらに金七と芳三郎が達郎を盾にするように隠れる。


「金七、あの男の後をつけてどこに住んでいるか突き止めてきてくれ。絶対に見つからないように、少しでも危ないと思ったらそこで諦めて構わない」


「判りました」


 打てば響くように即答した金七が男を追い、さらにその金七を芳三郎が追った。慌てて呼び止めようとする達郎だが、


「大丈夫です! 危ないことはしません!」


 そう言い残して走っていく。達郎はその背中を見送るしかなかった。

 その後、店に戻った達郎が勘兵衛に平謝りをする。勘兵衛は「困ったものだ」と言いたげな顔となるが怒りはしなかった。


「いや、正直言って息子のことを見直したところです。あいつも男なんだからそのくらい無鉄砲なところがあってもいい」


 勘兵衛はそう言ってくれたものの、全ては彼が無事に戻ってくることが前提だ。これでもし芳三郎に万一のことがあれば謝りようがない。金七との付き合いもそれなりの長さとなり、達郎は彼の判断力や行動力に一定の信頼を置いているのだが、まだ九歳かそこらの芳三郎を同じように信頼しろというのも無理な話だった。

 ご隠居は早々に外神田へと帰っていったが達郎はそのまま越前屋で二人の帰りを待つこととした。表向きは平静を装いながらもやきもきと待つこと数時間。金七と芳三郎が帰ってきたのは夜五つ、午後八時頃のことだった。


「すみません、結局寝床は突き止められなくて」


「いや、構わない。ご苦労だった」


 悔しそうな金七に対し、達郎は心底安堵してそう言う。


「それにしても随分時間がかかったけど、どこまで追ったんだ?」


「日本橋の堺町の、歌舞伎小屋に入っていくところまでは追えたんです」


「なるほど、女形おやまだったか」


 と勘兵衛が納得する一方で達郎は頭を抱えそうになっている。


「人の出入りは多いし、着物を変えたのなら余計に判らなくなるし、日が暮れたらもう顔も見えないしで、諦めるしかなかったんです」


「いや、充分だ」


 と勘兵衛は慰めではなくそう言う。


「歌舞伎小屋の者だったのなら客からもらったという話もあながち嘘ではないかも」


「いや、この時期は鳶職でもう芝居小屋とは無関係のはず……でも知り合いは残っているだろうから着物だけ借りて」


 自分の考えに没頭していた達郎だが勘兵衛や金七から怪訝な目を向けられていることに気付き、


「いやいやあの、中村座の人間と決めつけるのは早計ってことで」


 勘兵衛は「それは確かに」と思いながらも不審な顔をし、金七は「中村座の名前はもう言ったっけ?」と首を傾げた。達郎は「ともかく」と詮索を打ち切るように、


「ここから先は奉行所なり目明かしなりに任せましょう」


「そうだな。明日にでも質屋仲間を通じて知らせることにする。お上からご褒美がもらえるようにこの子の名前も出して」


 「ご褒美」の三文字に金七は顔を輝かせるが、達郎は「いや」と渋い顔をした。


「すみませんがちょっと事情があって……この子の名前は出さないでもらえますか。金七には俺からご褒美を出しますから」


 だがそれは、と難色を示す勘兵衛だが達郎の強い要求に結局はそれを呑んだ。その交渉が成立すると達郎は次に金七に頭を下げて、


「ごめん、でも理由があるんだ。ご褒美については俺が出すから」


「はずんでくださいよ」


 内心思うところがないわけではないとしても丁稚の身分で店主に逆らえるはずもなく、金七はその交換条件一つでそれを受け容れた。達郎は安堵の顔で「判っている」と約束する。

 その日はそのまま勘兵衛の家に泊まり、達郎達が山青堂へと戻ったのは翌朝とのこととなった。そして勘兵衛より「鳶職の次郎吉という男が盗みで捕縛された」と連絡があったのはさらに何日か後のことだった。






「かんざしは無事に戻ってきたそうだよ」


「そうですか、それは良かった」


 柳亭種彦の報告に達郎は素知らぬふりでそう応える。ときは文政八年二月中旬。勘兵衛からの連絡の、さらに何日かを経てのことである。


「すまなかったな、結局つまらない話を聞かせただけだった」


「お気になさらず。これをネタにして『居眠小五郎』が一本描けそうです」


「転んでもただは起きないか」


 と種彦が笑う。達郎も笑ったが、それは「これで探偵の真似事をやらされることもないだろう」という安堵の笑みだった。


「ところで、その盗人にはどういう罰が……」


「盗みに入ったのは初めてと言っているらしい。それが本当なら入墨の上で江戸払い、あたりになるだろうな」


「なるほど」


 その辺は史実の通りか、と達郎は頷いた。

 ――鼠小僧次郎吉。実在の人物としては石川五右衛門と双璧を成す、日本史上最も著名な盗賊だ。史実の通りなら彼はこの後一旦上方へと身を移すがやがて江戸へと舞い戻り、盗賊稼業に勤しむこととなる。そして天保三年(一八三二年)に捕縛され、市中引き回しの上獄門。「大名や悪徳商人から盗んだ金を貧乏人に分け与えた」という義賊伝説が生まれるのはその死後のことであり、さらには歌舞伎や時代劇で取り上げられて――だがそれはずっと先の、この時間軸でもそうなるかは全く未確定の未来のことだった。

 その後、帰ろうとする種彦とそれ見送る達郎が店先へ向かう。その途中で、一人の子供の姿が種彦の目に留まった。


「あの子は?」


「ああ、知り合いのところから預かった、うちの新しい丁稚です」


 芳三郎、と達郎は彼を呼び寄せ、


「この方は高屋様、あの柳亭種彦だ」


 その紹介に芳三郎は「ほあー」と感動し、思った通りの反応に達郎は笑った。

 そして帰路に就く種彦の背中を達郎が見送り、その横には芳三郎が並んでいる。


「でもそれにしても……」


「? なんでしょう」


「いや、なんでも」


 鼠小僧次郎吉のようなメジャーな人物とニアミスするなんて、この江戸の町は思ったよりも狭いのかもしれない。あるいは他にも、いつの間にか未来の有名人と知り合いになっているとか――

 まさかな、と肩をすくめた達郎が店の中へと戻っていき、芳三郎がそれに続いた。






参考文献

河竹繁俊「人物叢書 河竹黙阿弥」吉川弘文館

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