第三四回(文政八年三月)



 場所は上野のとある寺院の近く。ときは夕刻、逢魔が時。人気のないその場所で達郎と春水が正体不明の襲撃者に包囲され、そこに正体不明の伊達男「新橋の旦那」が颯爽と現れて助けに入ってきたところである。


「貴様……余計な手出しを」


 殺気立ち、真剣を向ける襲撃者三人に対し、新橋の得物は十手である。その圧倒的に不利で危険な状況にもかかわらず、新橋は涼しい顔でたたずんでいる。


「今すぐ立ち去れ、これ以上関わるな」


「義を見てせざるは勇なきなり、ってな。俺はこの場であんた等とやり合っても構わないんだぜ? さすがにそろそろ野次馬も集まりそうだしな」


 襲撃者のリーダーが舌打ちする。新橋の指摘に彼等も時間をかけ過ぎたことを理解する他なく、三人は身を翻して逃げていった。襲撃者の方が逃げ出したことに達郎は唖然とするが、遠ざかりすぐに消えてしまうその後姿にそれを事実として受け止める。


「た……助かったのか?」


 それを理解した途端、達郎の腰が抜けた。力尽きたようにその場にしゃがみ込んだ達郎は全身の空気を吐き出すようなため息をつく。春水もまた今にも倒れそうな様子だった。


「新橋の旦那、これは……」


「長居は無用だ。河岸を変えようぜ」


 あの襲撃者が戻ってくる可能性もゼロではなく、達郎は一も二もなくそれに賛成した。

 ……それから小一時間ほど時間が経ち。達郎と春水は時間が巻き戻ったかのように山青堂の中にいる。時間の経過を示すのは夜の帳と、新橋の存在だった。

 新橋は「吉原にでも行ってどこかの店で遊びながら話そう」と主張したのだが達郎が却下した。金の問題ではなく、襲撃者が山青堂の方を狙ってくる可能性を考えて一刻でも早く家族の下に戻りたかったのだ。その一方相談に乗ってもらうこの絶好の機会を逃すわけにはいかず、新橋に懇願して一緒に来てもらったのである。


「いやー、それにしても旦那があれほど強いとは! それに刀を持った三人相手に一歩も引かないその胆力! あたしゃ團十郎のしばらくが助けに来てくれたのかと思いましたよ!」


「あはは。そりゃ言い過ぎってこともねぇな」


 まるで幇間たいこもちのように大げさな春水の賛辞を、新橋はてらいもなく受け止める。そんな二人を眺めながら、達郎は何から訊くべきかを整理しようとした。だがそれよりも先に、


「まあ、種を明かせばそれほど威張れることでもない。相手は文弱の青瓢箪だったからな」


 新橋が話の糸口を作ってくれ、達郎は前のめりになって訊ねた。


「あの連中が誰か知っているんですか?」


「ああ。高橋作左衛門の家中の者だろう」


 こともなげにそう告げる新橋に対し、達郎は「それって……」と呆然としたように呟く。知らない名前に戸惑ったものと解釈したらしい新橋が、


「公儀の書物奉行、つまりは紅葉山の大将だな」


 と補足した。だが達郎はその名前を知っている、ある点では新橋よりもずっと詳しく。


(高橋作左衛門――シーボルト事件で獄死した高橋景保)


 天文学者を父に持つ高橋景保は文化元年(一八〇四年)に幕府天文方となり、天体観測・測量等に従事。伊能忠敬の日本地図作成を監督・支援したのも彼である。また外国書籍の翻訳も手掛け、書物奉行に任じられたのもその業績を認められてのことだった。シーボルトに日本地図を送ったのがこの高橋景保であり、文政一一年(一八二九年)にその事実が発覚し彼は捕縛され、翌文政一二年に獄中で急死している。

 この時間軸でも高橋景保がシーボルトと抜き差しならない関係となっているのは変わらないらしい。彼の役職に変更がないのならシーボルトが彼に接触しようとするのは当然だろうが……


「でも書物奉行がどうしてシーボルトにそこまで」


 伊能忠敬の日本地図だけではない。江戸城の見取り図をシーボルトに渡したのが高橋景保なのは間違いなかった。だが、どうして彼はそこまでシーボルトに協力するのだろうか? それは利敵行為以外の何物でもなく、発覚したなら何をどうしようと死は免れない。切腹が許されるならまだ温情がある方で、罪人として斬首刑に処されるという、武士として最大級の恥辱を受けることに――史実において幕府は彼の病死を許さず、わざわざ死体を塩漬けにして保管し、死体を斬首刑に処したのだ。


「そりゃ、外国の事情を色々と調べるのもお役目のうちだからな」


 達郎の疑問に新橋がそう説明する。


「特に今は北の方が何かときな臭い。ろしあの動きを詳しく書いてある本があって、何とかしてそれを手に入れようとしている……って聞いている」


 達郎はそこまで知らなかったが、史実におけるその書籍とはクルーゼンシュテルンの「世界周遊記」であり、高橋景保はそれと交換で伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図をシーボルトに渡している。


「そんなの……」


 と唖然とする達郎に、新橋は辛辣な笑みを示した。


「前にお前さんは言っていたな、『まずは外国を知ることだ』と。書物奉行のお方はそれを実践してこの有様なわけだ。どんな気分だい?」


 煽り文句を使う新橋に対して達郎は苦虫を嚙み潰したような顔をし、


「そもそも、鎖国なんてナンセンスなことをしているからこんなことに」


 新橋の怪訝な表情に達郎はわずかに冷静さを取り戻した。軽く頭を振って責めるような目を新橋へと向けて、


「多分その本は西洋に行けば、金さえ出せば誰でも買える本なんだと思います。その本がもっと簡単に手に入るならそもそもこんなことにはならなかったんじゃないでしょうか」


 ヨーロッパでなら誰にでも買える本を手に入れるための交換条件が国防上の重大機密なわけで、全く割に合わない取引と言う他ない。アメリカ先住民はマンハッタン島を二四ドル相当のアクセサリーや裁縫針と交換したというが、それと五十歩百歩のひどい話だった。だが飢えた狼に「肉を食うな」と言っても無意味なように、シーボルトやこの時代のヨーロッパ人を責めてもただの徒労、ただの負け犬の遠吠えでしかない。責めるべきは世界から背を向けて現実から目と耳を閉ざす幕府だ。高橋景保は幕府に手足を縛られながら、それと同時に外国の情報を得ることを強要されているわけで、達郎としては彼を憎むよりも哀れむ気持ちの方が強かった。


「それも道理かもしれんが……」


「ただの愚痴です。忘れてください」


 余計なことを言い過ぎたと、達郎がばつの悪い顔で新橋にお願いする。高橋景保に同情できるのも今のところ大きな被害がないからで、もしお内や左近や右京に何かあれば呪い殺さんばかりに彼を憎むだろうし、それと同じくらいに自分自身を責めることだろう。そうなる前に、この事態をどうやって解決するか――


「あれ?」


 ある事実に気が付いた達郎が顔を上げ、まじまじと新橋の顔を見つめた。新橋はちょっと面白そうに「どうした?」と問う。


「もしかして……預かっているものをあの連中に渡していれば全部一件落着だったんじゃ」


 高橋景保の役職は書物奉行兼天文方筆頭、つまりは完全無欠の文官で、技術系の官僚だ。本人もその家中も荒事に慣れているとは到底考えられない。達郎を脅迫したのも、今から考えればかなり無理をして頑張ってやったことなのだろうし、新橋はそれを見透かして強気に出たに違いなかった。つまりは、おとなしく江戸城の見取り図を彼等に返してしまってこの先シーボルトと一切関わり合いを持とうとしなければ、彼等だって達郎にこれ以上何かしようとは思わない……


「よく気が付いた。まず間違いなくそうなっただろうな」


 新橋が褒めるようにそう言い放ち、達郎は唸りながら頭を抱えた。いや、今からでも遅くないから長崎屋に行ってこれを……駄目だ、それはあの役人に止められている。


「でも、誰がシーボルトに機密を漏らしているかこれで判ったわけで、調査は終わったってことでしょう。もうこれを返してしまっても構わないんじゃないんですか?」


 あの役人に許可を取るのが筋だろうが、無許可で返してしまって後でお叱りを受けることになったとしても、それが何だというのか。調査の邪魔をしたわけではないのでそこまで厳しく咎められはしないだろうし、何よりお内達や自分の身の安全が最優先だ。

 達郎の決意を読み取ったのか、新橋は酷薄な笑みを示して言う。


「お前さんがオランダ人から預かっているのは『武器・武具図帖』と西洋画帳――他にもう一冊あるんじゃないのか?」


 心臓を錐で突くかのような一言に、達郎は跳ねるように背筋を伸ばした。


「か、仮にそうだとしたら」


「町人が見るべきもんじゃないものを見ちまったなら……」


 新橋が首を討つ仕草をし、達郎は大量の冷や汗を流す。今にも卒倒しそうなその様子に満足したのか、新橋は悪戯が成功した子供のような笑みを見せた。


「それは今しばらくお前さんが預かっていな。ま、悪いようにはしねえよ」


 新橋はそう言い残して山青堂を辞去。後には憔悴した達郎と、気の毒そうな春水が残された。


「あの旦那は人の情けがあって話も判るお方です。あの方が『悪いようにしはない』と言っているんですから、信じてもいいと思いますよ」


「そうだといいんですけど」


 達郎が今すがれるのは、春水のその慰めの言葉だけだった。


「あの人、何者ですか?」


「いや、本当に素性は知らないんです」


 達郎が改めてそう問うが望む回答は得られなかった。春水が嘘をついているようには見えないし、またその理由もないだろう。


「ただ、『家の仕事をちょっと手伝っている』とは言っていましたが……実を言えば今日ここを訪ねたのもあの旦那にそう言われたからなんですよ」


 新橋の家は幕府の中の、外交関係あるいは防諜関係の部署に属しているものと思われた。そして達郎をエサとして、誰かを釣り出そうとしている……それ誰かとはてっきり高橋景保だとばかり思っていた。彼が釣れた以上もう達郎の役目は終わりで、この騒動からは縁が切れるものと思っていたのだが、どうやらそれはまだ先のことらしい。

 達郎を利用して新橋が何をしようとしているのか、その答えを得るには「今」の知識も未来知識も足りなかった。判っているのは、この危うい状況(社会的にも物理的にも)がまだまだ続くということだけだ。「悪いようにはしない」という新橋の言葉だってどこまで信じられるか――半信半疑よりも疑う方が強かった達郎だが、信じる方向にやや傾いたのはその翌日のことである。


「おかしな連中に襲われたそうだな。しばらく私がそなたを守ろう」


 翌日、山青堂へとやってきたのは巨漢の侍、シーボルトを監視している役人だった。その彼が達郎を守ろうというのである。それは言葉だけではなく、彼は引き連れた自分の配下数人に山青堂の外で立哨をさせている。


「恐れ多おうございます」


 と達郎は自分の言葉通りに恐縮する他なかった――内心どれだけありがた迷惑だったとしても。武装した侍が店の前に立っているせいで客が全員回れ右をし、山青堂は門前雀羅を張るありさまだ。商売あがったりなお内の無言の糾弾は、主に達郎へと向けられている。


「ところで、しばらくとはどのくらいの間を……」


「長くともオランダ人の江戸参府が終わるまでだ」


 史実におけるシーボルトの江戸滞在期間は四〇日程。達郎はうんざりした顔を隠すのにかなりの苦労をした。左様ですか、とため息をつき、達郎は気持ちを切り替える。


「ところでお役人様のことは何とお呼びすれば」


「間宮だ」


「ま……!」


 達郎は大声を出しそうになった口を慌てて両手でふさぎ、彼に怪訝な目を向けられた。


「なんだ?」


「ま……まさか、まさかあの、北方探検で有名な」


 よく知っているな、と彼――間宮林蔵が頷いた。伊能忠敬に測量技術を学び、幕命で北方を探検。樺太が島であることを確認し、その名は「間宮海峡」として地図に刻まれている。二一世紀でも非常によく知られた、江戸時代で最も有名な探検家の名前である。


(確かシーボルトは間宮林蔵にも接触して、間宮林蔵が密告したのがシーボルト事件発覚のきっかけだったはず……)


 だが実際には間宮林蔵はシーボルトを監視する役目を負っていた。それが史実と同じかどうかまでは達郎の知識にはないが、おそらくは大きくは変わらないと仮定すると、シーボルトは最初から幕府の厳重な監視下にあったことになる。幕府はシーボルトの諜報活動を、全部ではないとしてもかなりの範囲把握し、彼をずっと泳がせていた。そして何らかの理由で、幕府の意志によって「シーボルト事件」が引き起こされた……のかもしれない。おそらくはこの時間軸でも幕府は「シーボルト事件」を作り出すだろう。問題はその目的で、その中で達郎に課せられた役割だ。


「間宮様は外国をその目で見られた、数少ないお方。是非とも外国についてお話をお伺いしたいのですが」


 達郎のお願いに林蔵は煩わしい顔をし、鋭い視線だけでそれを断った。が、それで怯む達郎ではない。


「ロシアは蝦夷地のすぐ近くまでやってきていて、軍船も日本の周りをうろついています。公儀は『大砲で全部打ち払え』と命じていますが、本気の撃ち合いになったときに本邦は勝てるのでしょうか?」


 達郎の問いに林蔵は重苦しいため息をついた。


「……日本では想像も及ばぬほど、ろしあは強大だ。打ち払いなど……」


 林蔵は苦い顔となって言葉を濁す。立場上御政道批判はできないが内心では大いに批判的であることは感じられた。


「天地開闢以来、外国の船がこれほど本邦の周りをうろつくなどなかったことです。これまでは万里の波濤が外国の船を遠ざけていた。でも外国の船が性能が上がってより遠くに行けるようになり、ついにここまで来るようになった。今後ますます、外国の船は容易く日本にやってくることでしょう。これまではオランダだけと付き合っていればよかった。でもこれからはロシアや、他の国々とも正面から向き合わなければならない――」


「町人が差し出口をすることではない」


 林蔵の強い叱責に達郎は「恐れ入ります」と身を縮めるが、それはポーズだけだった。間宮林蔵は農民出身で、ロシアの脅威をその身で体験してきた人物だ。鎖国政策に対して「このままでいいのか」と強い懸念を抱いているのは疑いない。達郎への叱責も、彼が余計なことを言って目を付けられないよう注意する意味が強いように思われた。

 一方林蔵は、突然踏み込んだ話をしてくる達郎に不審を抱いている。先日までは処刑人を前にした罪人のように怯えていたのに今はそれが見られず、なれなれしく話しかけてくるのだ。


「敵を知り己を知れば百戦危うからず、と言います。まずは敵を知らなければ話になりません」


 そして叱責したにもかかわらず話を続けようとする。達郎的には「あの間宮林蔵が無体なことをするはずがない」という安心感があり、それが態度に出てしまっているのだが、林蔵にそんな事情が判るはずもなかった。侮られているのか、と疑う一方で達郎が自分を見る目は尊敬と讃嘆に輝いており、そのアンバランスに林蔵は調子を狂わされている。


「紅葉山のお方もまずは敵を知ろうとしたものと思いますが……」


「それより多くの己のことを、敵に知らしめたわけだ」


 林蔵は軽侮の感情を口の端に浮かべた。間宮林蔵は一時期高橋景保の部下だったが両者は不仲であり、シーボルトに関する林蔵の密告もそれが背景の一つにあったと伝えられている。


「外国を知ろうとするのは構わんが、それを外国に利用されるようでは話にならん。蘭癖らんぺきの強い連中に一つ思い知らせてやるべきと――」


 余計なことまでしゃべってしまったと、林蔵は打ち切るように口を閉ざした。一方の達郎は、知りたいことの一端を掴んだことに瞠目する。

 徳川吉宗の享保の改革により洋書輸入が部分的に解禁となり、蘭学研究が盛んとなった。その影響は学術分野だけでなく生活様式や風俗にもわたり、また上流階級・知識階級だけでなく庶民にも及んだという。オランダ風・洋風のものにあこがれ、それを模倣し、果ては蘭語の名前を名乗ろうとする。「蘭癖」とはそれらの洋風かぶれのことを言う。

 この「蘭癖」の風潮を、幕府の主流派である保守派が面白く思うはずがない。西洋かぶれの連中の横面を張り倒し、身の程をわきまえさせる――「シーボルト事件」が幕府によって起こされたものなら、その目的とはまさにそれではないのか? この事件に関与して処罰された人間は五十人以上、死者も高橋景保だけではなく幾人にも及ぶ。蘭学・洋風に傾倒する者は一人残らず背筋が凍る思いをし、身の振る舞いを改めたことだろう。

 だがこの時間軸で「シーボルト事件」を引き起こすに足る充分な物証を、間宮林蔵らは既に手にしている。それでも達郎をこの件に関わらせているのは何故なのか? 達郎はその後も林蔵に色々と話しかけて情報を引き出そうとするが、それ以上の成果は得られなかった。






「何の成果もなしか」


 高橋作左衛門の報告にシーボルトは失望のため息をつく。場所は長崎屋で、作左衛門がそこを訪れ状況を伝えたところである。


「相手が町人だけなら店に押しかけて脅せばいいだけのことだった。だがその店の前に間宮とその手の者が網を張っている。もう打つ手はない」


 作左衛門はそう告げて肩を落とした。間宮林蔵の捜査は既に自分を捉えているとしか考えられず、なぜ自分が放置されているのか理解できないくらいだった。だがもう進退窮まっている。もはや武士として見苦しくない身の処し方を考えるべき――いつ切腹するかを検討するべき段階だった。


「いや、まだだ」


 シーボルトが力強く言い、作左衛門は顔を上げる。


「よく考えろ、サクザエモン。リンゾウが証拠を掴んでいるのなら、どうして彼はサクザエモンのところに来ないのだ? どうしてあの店の前でただ立っている?」


「……あの絵師は見取り図のことを隠している? 間宮に黙ったままなのか……?」


 それは推測と言うよりは希望的観測であり、さらに言えば願望に近かった。だが、


「町人があんなものを持っていることが知られたなら打首になってもおかしくはない。それを恐れて、クサハエルモエはあの見取り図のことを隠しているのだ」


「……確かに間宮の動きはどうにも奇妙だ。だがあれのことがまだ知られていないなら……」


 それは今の作左衛門にとっては他にすがるものなどない一筋の光明であり、蜘蛛の糸だったのだ。


「あの本はすぐに必ず渡す、すぐにでも送る手配をする。あの本さえあればサクザエモンの功は確かなものとなる。このままリンゾウが証拠を掴むことがなければ」


 「世界周遊記」を手に入れてロシアの情報を報告できたなら自分の地位はさらに盤石としたものとなるだろう。農民上がりの間宮林蔵と高橋作左衛門ではその身分に天地ほどの差があり、確固たる証拠さえなければ間宮林蔵が何を言おうと相手にする必要はない。だが、


「しかし、問題はその証拠だろう。あの絵師がいつ口を割るか」


「確かにそうだ。だからその前にあの店ごと、見取り図ごと全部――」


 シーボルトの提案に作左衛門は「馬鹿な」と言ったきりしばらく絶句した。


「あれがまだ店にあるとどうして言える。あるいはもう間宮の手に渡っているのではないか? それに第一、誰がそれをやる」


「あれがどこにあるかはトヨスケに確かめさせる。あの店の始末は……あの方にお願いしよう。ちょうど明日、診察で会うところだ」


 シーボルトがその名を口にし、作左衛門は毒杯を前にしたような顔となった。だが他に方法はなく、彼とて腹を切りたいわけでは決してない。何としてでも、誰を殺してでも生き延びたいと思っている。その「誰」が顔も知らない町人なら犠牲とするのにためらう理由は何もなかった。


「いつことを起こす」


「できるだけ早く」


 底なしの泥沼に足を踏み込み、二進も三進もいかなくなっているという自覚が作左衛門になかったわけではない。だが彼はこのまま泥沼で溺死するより他者を犠牲にしてでも生き延びることを選んだのだ。それが功を奏するかどうかは、未来を知る達郎ですら判らないことだった。


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