第六回
さて。山青堂とその店主・山崎屋平八のことである。
――山崎屋平八(やまざきやへいはち、生没年不詳)とは江戸時代の江戸の地本問屋。
山青堂と号す。享和から文政八年(一八二五年)頃に江戸の筋違御門外神田平永町角代地元右衛門店において地本問屋を営業している。文政八年頃に事業に失敗して破産、版木を美濃屋甚三郎に譲っている。葛飾北斎、柳川重信、渓斎英泉が挿絵を描いた読本、人情本の出版をしている。
(井上隆明「近世書林板元総覧」青裳堂書店)
「南総里見八犬伝」を最初に刊行した山青堂、その店主たる山崎屋平八について、二一世紀に残っている資料はほとんどない。生没年すらが不詳で、いつ、誰と結婚して何人、何某という子供がいたかも不明である。
判っているのは貸本屋から身を立てて板元(版元)となったこと。貸本屋仲間の世話人をやっていたこと、そのくらいだ。その人となりを伝える数少ない資料としては、曲亭馬琴の「後の為の記」がある。文化一二年(一八一五年)、山崎屋平八の伊勢参りに馬琴の息子の滝沢興継が同行。その際の山崎屋平八の振る舞いと興継への仕打ちについて、馬琴は散々に書き残している。それを読む限りでは山崎屋平八とは身勝手で意地の悪い、軽佻浮薄な人間としか思えないだろう。
ただし、曲亭馬琴と言えば周囲の人間と衝突して敵に回すことにかけては右に出る者のいない、狷介固陋の代名詞みたいな人物だ。その点を考慮に入れて、その評価はかなり割り引いて考えなければならないだろう。ただ、それでも「本業以外の事業に失敗して廃業した」というその結末から逆算するに、軽率で迂闊な人物だったのではないかと想像することはできる。
畠中恵が柳亭種彦を主役とした時代小説を書いており、その中で山崎屋平八も主要人物として登場する。ただし畠中恵も何かのインタビューで「山青堂の資料は探したけど見つからなかった」と語っており、その姿も九分九厘想像の産物なのだろう。柳亭種彦と山青堂が作者と板元として深い付き合いがあったことは、疑う必要のない事実だが。
享和年間(一八〇一年から一八〇四年)に興したということは、山青堂にはこの時点でもう二〇年の歴史があるということだ。貸本屋から書肆を興した例は少なくないが――例えば近い時代の伝説的な書肆・耕書堂蔦屋重三郎もそうだし、為永春水もまたそうだ――江戸の貸本屋の数は文化五年(一八〇八年)には六五六軒、天保年間には八百余軒。その比率から考えれば相当の努力と、準備期間が必要だと考えるべきだろう。つまり、山青堂を興した時点で山崎屋平八は二〇代半ばから三〇前後だったと推測される。そして二〇年経った現時点では四〇代半ばから五〇前後となるだろう。
――と、ここまでは卒論執筆のために図書館やGoogle先生で調べた話である。ここからはタイムスリップして初めて知り得た新事実だ。
実際に何度か会った山崎屋平八に「今何歳ですか?」と訊ねたわけではないが、外見から察するに五〇の手前。経歴からの推測と概ね一致する。この時代ならとっくに結婚して子供を作って、その子供に家業を引き継がせて引退を考えるべき年代である。その後継ぎが表太郎だったわけだが、彼がどういう人物でどうなったかは、くり返すまでもない。
もし達郎がタイムスリップせず、表太郎が神隠しに遭わなかったなら(本来の歴史がそうなのだが)彼はどうなっていたのだろうか? 遊女との駆け落ちには成功したのかもしれないが、でも結局その生活は早々に破綻していたような気がする。その後山青堂に出戻って、他の事業に手を出して……
「本屋なんて儲からない、もっと他の商売をしたい――兄さんは常々そう言っていました」
とはお内の証言である。「他事に耽りて本銭を失ひ」――山青堂を廃業に追い込んだのは表太郎、二代目の山崎屋平八だったのではないだろうか。あるいは駆け落ちに失敗して無理心中を図り、本来の歴史においても伊勢屋に脅迫されて二百両を支払う羽目になったのかもしれない。その借金を穴埋めするために初代が無理をして……という経緯も考えられる。いずれにしても、山青堂の廃業は二代目がボンクラだったから、という結論には変わりない。
山崎屋平八には表太郎の他に外次郎・お内という子供がいたが、このうち外次郎は早々に養子に出してその先で亡くなっている。お内は山青堂に残ってずっと家業の手伝いをしてきたわけだ。
「女は内のことだけしていればいい、って名付けられた名前なんです」
とお内は面白くなさそうに言う。
「だったら表のことは男だけできっちりやりゃあいいんですよ――できるものなら! まったくうちの男どもは口先だけの甲斐性なしの役立たずばっかりで」
表太郎は「何か大きいことをやる」とろくでなしの見本みたいなことを言って、人脈を広げると称して吉原に入り浸り、場末の遊女に入れ込んだ結果として山青堂は傾きかけ、それを必死に支えていたのがお内なのである。しっかり者の妹の一方、あまりに危なっかしく期待外れだった二代目は近いうちに廃嫡されるはずだった。表太郎のことが二一世紀まで残らなかったのはその活動期間がさして長くはなかったから、なのかもしれない。
一応は引退した初代が店に戻ってくる等、自分が勘当されそうになっているのは表太郎でも判らないはずがなく、追い詰められた(と思い込んだ)彼が選んだのが「遊女との駆け落ち」という最悪の選択肢だったのだろう。ただお内や初代にとっては勘当はもう少しだけ先になりそうな話だった。二代目を廃嫡した後の店をどうするかで二人の間に意見の隔たりがあったからである。
もし養子に出した次男が存命であれば戻ってきてもらって店を継がせるのは、最も有力な選択肢となっただろう。赤の他人であることは百も承知で、それでも「これも何かの縁だから」と小石川の次郎兵衛を婿養子にすることもまた、真剣に検討されたのだ。だが彼はお内のお眼鏡にかなわなかった。彼は亡くなった養父の跡を継いで貸本屋をやっていたが、その評判がいまいち芳しくなかったからである。
「店を継がせるための縁談が他にもなかったわけではないんですが」
「息子に継がせるよりもそっちの方がわりと普通ですよね」
「ええ。ですが適当な方がなかなかいなかったので」
とお内は言うが、その口ぶりから察するに結婚自体に乗り気ではない様子だった。身近にろくな男がいなかったために夫婦というものに夢や希望を抱くことができなかったのがまず一つ。もう一つは「山青堂を切り盛りする女主人」という今の立場を気に入っていて手放したくないからだろう。そうでなければ、いくら形だけでも達郎を山青堂の店主として自分の上に置こうとするわけがない。
「まあ、あなたの仕事ぶりは悪くないものでしたし、金吉からも話は聞いていますから」
もちろんそれは、この一ヶ月間の達郎をよくよく観察した上で決断したことだ。
ひらがな・カタカナはろくに読めないくせに何故か大抵の漢字は読むことができる。子供でも知っているようなことを知らない一方で学者先生でも知らないような話を知っていたりする。計算や暗算が得意な一方で銭の価値を充分把握していない。金銭に関して執着がなく、時間があれば書庫で本を読んで字を覚えようと熱心に学んでいる。
達郎はあらゆる面で浮世離れしており、本当に竜宮城から時代を越えてやってきたとしか思えない存在だった。ただ、お人好しで真面目で善良で、お内達に害意がないことは明確だ。形だけの主人にしても大きな問題は起こさないだろうし、万一何かしでかしたとしても店から叩き出すことも難しくはない――お内はそう判断したのである(また、本物の次郎兵衛に店を継がせることを一度は真剣に検討したことも、その判断に影響を与えたものと思われた)。
「それに、ねえさんも賛成してくれましたし」
「ねえさん」こと左近は表太郎の妻であり、お内にとっては義理の姉である。表太郎が公式にも死人となった以上実家に帰るのも選択肢の一つなのだが、
「実家には居場所なんてないと言いますし、うちとしてもねえさんにはいてくれないと困ります」
左近の実家は小普請組に属する武家だという。
「小普請組と言えば柳亭種彦の……」
「ねえさんがうちに嫁いだのはあの方の紹介です」
へえ、と達郎は目を見張った。小普請組とは、簡単に言えば江戸の旗本や御家人のうち無役の者が放り込まれる部署である。柳亭種彦には無役でも二百俵の扶持があり、また売れっ子戯作者としての収入もあったが、そんな者はほんの一握りだ。ほとんどの者は貧乏にあえぎながら必死に猟官活動をしていたのだ。左近の実家はそんな小普請組の中でも最底辺の家で、さらにはその四女だか五女だった。そんな立場で同じ武家との縁組などそうそう見つかるはずがない。武家の娘が吉原の遊女となることも珍しくなく、左近も表太郎に嫁いでいなければあるいはそうなっていたかもしれない。
なお、曲亭馬琴もそれなりの武家の出だが結婚相手は下駄屋の未亡人である。武家出身者と商人との通婚も特別ではない時代なのだろう。
「ねえさんは本が好きだったので、本屋との縁組も文句はなかったと聞きます」
だが、その夫婦生活は残念ながらあまり幸福なものではなかったという。左近の方は武家の出であることを忘れてかいがいしく夫に尽くそうとしたのだが、表太郎の方が左近を疎んじたのだ。多少なりとも武家としての教育を受けてきた彼女に劣等感を抱いたのかもしれないし、
「まあ、ねえさんは顔はともかく身体は見ての通りの方ですから……」
「え?」
「え?」
思わず不思議そうな声を出した達郎に、お内もまた同じような声で応えた。
達郎の身長は一応一七〇センチメートル台の後半。左近はそれと並んで見劣りせず、この時代としては相当な高身長だ。表太郎もこの時代としては普通だが左近よりは低く、いわゆる「蚤の夫婦」扱いだったのだろう。
また、左近の体つきはかなりのボリュームがあり、達郎から見れば非常に
逆に人気があったのは「柳腰」と言われる、細くしなやかな(凹凸のない)体形であり、お内は顔だけでなくその体形も江戸美人の見本というべき女性だった。
それはともかく、左近と表太郎の夫婦仲は最初からあまりうまくいかず、ようやく生まれた子供が女の子だったことも夫婦の亀裂が広がっていく理由の一つとなったものと思われた。
「紹介してくれた高屋様も責任を感じたのか、何かと気にかけていただいて」
なお柳亭種彦の本名が高屋彦四郎知久である。負い目や落ち度があるのはどちらかと言えば山青堂の側ではないかと思われるが、人のいい彼はそうは感じなかったらしい。
なるほど、と腑に落ちた達郎は一人頷いた。柳亭種彦が山青堂で本を出すのは文化一〇年(一八一三年)が最後だ。それから公式には没交渉のように見えたが私的には交流が続いており、その縁があったからこそ伊勢屋の騒動のときも力を貸してくれたのだろう。
「柳亭種彦の本が山青堂で出なくなったのは」
「うちが八犬伝にかかりきりになって、余裕がなくなってしまったんです」
「南総里見八犬伝」の出版は文化一一年(一八一四年)から。どこの書肆も大差はないが、山青堂は吹けば飛ぶようなちっぽけな本屋であり、多数の本を同時に出版できる体力や資金力はない。特に八犬伝は大作であり、またベストセラーだ。他の本を出す余裕がなくなり、また柳亭種彦が売れっ子で引く手あまただったこともあり、自然山青堂からの出版が途絶えたのだろう。馬琴のように何か悶着があったわけではなかった、ということである。
左近のことに話を戻すと、冷えた関係の夫は神隠しにあって事実上死亡。ショックはあったが、悲嘆に暮れたのも最低限ですぐに日常に戻っている。夫に先立たれた嫁が実家に帰るか嫁ぎ先に留まるかはケースバイケースだが、左近くらいに若くて嫁いでからの年数が比較的浅いなら、実家に帰ってもいいように思える……かもしれない。
が、仮に実家に帰ったとしてもおそらくはすぐに別の男に嫁ぐことを要求されるだけで、しかもそれがここより良い保証なんか全くない。いや、左近もこの時代では「年増」と言われる年代で、しかも未亡人なら、次の嫁ぎ先があらゆる点で表太郎より数段下となるのは確実だ。それくらいならこのまま山青堂に残った方がはるかに良い。幸いお内との仲は良好で、残ってほしいと言ってくれている。
この先お内が結婚したなら左近の立ち位置が曖昧となり、この家に居づらくなるかもしれないが――
「それならねえさんを嫁にすればいいんじゃないんですか? 兄さんが」
「はい?」
「ねえさんのこと、気に入っているんでしょう?」
兄さんて俺のことか、という驚きがあったがそれは後回しとして、
「いやいやいや、何をおっしゃる妹さん。仮でも義理でも自分の兄の嫁だった人を嫁にするなんて」
「おかしなことですか? それ」
と不思議そうなお内に達郎は言葉を詰まらせた。
そう言えば、と叔父から聞いた話を思い出す。叔父の学生時代の知り合いだった人が癌で弟を亡くしたが、その妻の女性を励ましたり色々世話をしたりしているうちに親しくなり、後にその女性と結婚することになったという。二一世紀でもそんな話があるのだから、「家」の存続が最優先のこの時代ならあるいはありふれた話なのかもれしなかった。
「ねえさんの方も憎からず思っているようですし……物好きな」
とお内は頭痛を覚えた顔で言う。
「物好きて」
「男を見る目がないんですよね、ねえさん。ろくでなしや甲斐性なしばかりに引っかかってしまって」
「いや、それなりに頼りになるところも見せたつもりですが」
達郎の未来知識や的確な指示がなければ左近はお内を亡くしていたかもしれず、もし左近が達郎に好感を持っているのならきっとそれが大きな理由である。ただ、その当事者のお内だけは達郎の活躍を見ていないのは皮肉と言うべき話だった。
「ともかく、今はそんなことを考えられません。一日でも早く字を覚えて役立たずから抜け出さないと」
と、真っ直ぐに前だけを見つめる達郎。そんな彼の横顔に「いい心がけです」ともっとらしく頷くお内だが、
「……とりあえず、問題はなさそうです」
達郎を兄とし、店主とするという自分の決断が正しかったことを、彼女は再度確認していた。
参考文献
本多朱里「柳亭種彦―読本の魅力」臨川書店
畠中恵「けさくしゃ」新潮社
他
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