余話その三(皇紀二六八二年冬)

「大丈夫ですか? 達郎さん」


「……妹さん?」


「何なんですか、その呼び方は」


 占部達郎はベッドの上で上体を起こしている自分自身を発見した。頭の中に脳みその代わりにウレタンが詰まっているかのように、思考回路が回らない。寝起きすぐのように胡乱な頭のまま、達郎は周囲を見回した。

 そこはどうやら病院の個室のようで、達郎はそのベッドの上。窓の外は完全な暗闇で、デジタル時計は午後九時を表示している。ドアを開けて入ってきたのは高校生くらいの少女。さらには二〇代の女性と三歳くらいの女の子が同行している。少女は達郎の無事に安堵半分、もう半分は変な呼び方に憮然とした表情。女性の方は安堵九割といった様子だった。


「妹さんと左近さんと右京……でもここは」


 自分がどうしてこんなところにいるのか判らない――いや、もっと根本的なところに強烈な違和感を感じているが、それが何なのか見当もつかない。そもそも自分自身に関することだって限りなく曖昧な状況だった。


「えっと……何があったのか教えてもらえませんか、妹さん」


「ですからその呼び方……はあ」


 彼女は呆れた顔になりながらも達郎の要望に応えてくれた。


「状況からしてそうじゃないかと見られているだけですが、達郎さんは雷に打たれて気を失ったそうです。警察病院に搬送されて、今意識を取り戻したところですか」


「警察病院?」


「倒れている達郎さんの横に死体が転がっていたそうで、警察が事件との関係を疑っているみたいですね」


 はあ、と間の抜けた声を出す達郎に彼女はますます呆れた顔となる。非常に深刻な事態のはずなのだがそれを全く実感できない。まるで起きたまま夢を見ているかのように全てに現実感を感じることができなかった。

 ……達郎は自分が巻き込まれた事件についてネットのニュースで知ることとなった。それは人呼んで「江戸っ子殺人事件」。荒川区の住宅街の路上で片腕が切断された状態の変死体が発見されたのだが、その直前に近所の、大勢の人が雷のような轟音を聞いているという。その夜の東京は快晴で雷雲が発生するような天候ではなかったのに。さらには、


「変死体はかつらではない、月代を剃った本物のちょんまげを結っていた」

「変死体が身にしていたのは上から下まで化学繊維が一切使用されていない、伝統的な着物だった。持っていたのも江戸時代の貨幣や小物ばかりだった」

「歯に治療跡が全く見られなかった」


 そんなオフレコの情報がテレビやネットで流される。それが「江戸時代の町人の惨死体がタイムスリップで現代に出現したのだ」という憶測に結び付くのはすぐのことで、テレビやネットはこの「江戸っ子殺人事件」で大いに盛り上がり、無責任に面白おかしく騒いでいるところだった。もちろん真っ当なアカデミアは未確認情報に跳び付いたりはせず、沈黙を守っているだけだったが。

 事件との関係を疑われた達郎だが「どう考えてもただの通りすがり」と判断されるまでさして時間は必要ではなかった。数日を経て、病院を退院した達郎は自分の下宿――都内のワンルームマンションへと戻ってくる。暦は正月を迎え、年も改まり


「何なんだよ皇紀って……いや、知っているけどさ」


 そんなことを呟く達郎に、彼女は怪訝な目を向けている。


「まだ頭がおかしいんですか」


「言い方」


 軽く抗議をする達郎だが自分の頭がまだおかしい……本調子に程遠いことは否定できない事実だった。医者の診断では軽い記憶喪失ということだが――心証だけで自己診断をするなら、自分のものではない記憶を頭に押し込まれ、そのせいで本来の記憶の想起を阻害されているような状況というところか。


「不思議隕石が何にどう作用すればこんなことに……不思議隕石ってなんだ?」


 と頭を振る達郎。彼は自分がどこに住んでいたかも思い出せず、下宿まで同行してくれたのは彼女、「妹さん」こと「山崎内美やまざき・うちみ」。病院で彼女と一緒にいた女性はその姉の「山崎左近」、女の子は左近の娘の「山崎右京」。もう離婚しているが達郎の兄と左近が結婚していたので左近は元義理の姉、右京は姪となる関係だった。内美は元義理の妹……になるのだろうか。


「あの、俺は妹さんのことをどう呼んでいたんですか?」


「『あの』とか『ちょっと』とか『すみません』とかですね」


 あー、と納得したような、苦笑の混じった声を出す達郎。突然身内となった、見目麗しい女子高生の下の名前をなれなれしく呼べるほど達郎のコミュ力は高くないのだった。

 その日の夜、達郎は山崎家を訪れた。達郎は東京で私立大学に通っており、本来の年末年始であれば金沢の実家に帰省するところだ。だがコロナ禍はまだ終息しておらず帰省を自粛。一人では正月気分も味わえないだろうから、と左近やその父が気を遣って誘ってくれて、その言葉に甘えることにしたのである。

 達郎は左近のおせち料理や雑煮を堪能。山崎父は達郎を心配してくれ、右京は達郎にべったりだった。右京は以前から達郎によく懐き、達郎もまたこの子を非常に可愛がっていたという。


「でもこの歳で未だにほとんどしゃべらないのがちょっと心配で……名前が悪かったのかもしれません」


 内美が独り言のようにそんなことを言う。内美達の父・山崎上総かずさ氏は大の縁為亭未来ファンで、左近・内美・右京の命名は彼の趣味によるものだという。


「姉さんはいい名前だと思うし右京ちゃんは可愛い名前なのにわたしだけこんな変な名前で、どれだけ父さんに文句を言ったことか」


 だが達郎はその愚痴をほとんど聞いていなかった。彼は他のことに気を取られている。


「『縁為亭未来』……」


「それも忘れたんですか。卒論のテーマにしていたのに」


「知らないはずがない……いや、何なんだこれ」


 あやふやな記憶を無理に思い出そうとしたため頭痛を覚える達郎。内美が「少し休んだら」と言うが彼はそれを謝絶し、


「縁為亭未来に関する本か何かありませんか」


 その要求に内美が案内したのは上総氏の書斎で、そこにある書籍の多くは縁為亭未来関係のものだった。縁為亭未来全集、画集、評伝その他諸々。なお山崎上総は社会科を担当する高校教師で、趣味で近世日本文学史を研究しているという。達郎もまた大学の文学部で、ゼミでは近世日本文学史を専攻。上総氏と達郎はその共通の趣味でよく盛り上がっていたという話である。

 だがそんな話は後回しだ。達郎は手に取って開いた画集に、そこに描かれた絵に心を囚われている。それは古事記から題材を選んだ錦絵「古事記絵図」であり、そこに描かれているのは望郷の思いに立ち尽くすヤマトタケル、その大首絵――


「この絵が……江戸時代に?」


「すごいですよね。萌え絵は草生ル萌が原点で頂点で、二百年経ってもその枠組みを超える絵は出ていません」


 縁為亭未来は草生ル萌という名義で浮世絵師としても活躍。彼が生み出した、リアルを追求しながらも同時に線を減らしつつディフォルメを効かせたその絵柄は同時代人に衝撃を与え、後世に多大な影響を残した。それは彼の名を冠して「萌え絵」と呼ばれているという。


「『萌え絵』て」


 萌え絵とは何か、その起源は、その影響は――数多くの歴史学者や画家、絵画研究者がそれを論じ、その追及に生涯を捧げている。国内だけでなく海外でも。いや、国内では「萌え絵なんて低俗な大衆文化の産物」と長らく軽視されていたの対し、むしろ海外の方が萌え絵を早くから、ずっと高く評価してきたのだ。一九世紀後半、多くの有名画家が萌え絵に触発された絵を発表。その潮流は絵画史上「Moeismモエイズム」と呼ばれている。


「『モエイズム』て」


 呆れたようにそうとしか言えない達郎。一方の内美はそんな達郎にこそ不審の目を向けている。

 国内では表向き軽視はされたものの、萌え絵の影響と呪縛から自由でいられる人間は、少なくとも絵に関わる人間であれば絶無だった。を経ても「萌え漫画往来」は長らく絵師の教科書であり続け、西洋画として名を成した有名画家も「絵の勉強は『萌え漫画往来』の模写から始めた」と語る者が大多数である。ヨーロッパに絵画留学をした後の西洋画の大家は、


「本場の西洋画を勉強しに行ったはずなのに向こうでは萌え絵ばかりを描かされ、向こうの画家に萌え絵を教える羽目にもなった」


 と語っている。

 萌え絵の真髄は写実の追求と、それと省略・デフォルメとの両立。可能な限り線を減らしつつ写実的に描かれたその絵は、印刷技術が未発達な当時は非常に重宝された。維新後に誕生した新聞等のマスメディアでは写真の代わりに萌え絵が長く使われたし、従軍記者が戦場に連れていく絵師も戦場で萌え絵を描いていた。多くの日本人にとって日常最も多く接する絵柄が萌え絵――そんな状況が長く続くこととなる。

 それは文化面でも同様……いや、より徹底していたと言えるだろう。萌え絵を描く絵師は早くから登場したがその割合は年を追うごとに増え続け、既に維新前には旧来の浮世絵の絵柄はほぼ消滅。絵草紙も合巻も読本も役者絵も錦絵も、全てが萌え絵! 猫も杓子も、絵師という絵師は一人残らず、描くのは萌え絵! 旧来の絵柄では「こんな古臭い絵」と失笑され、「誰が誰だか分りゃしない」と見向きもされず、絵師も書肆ももう商売にならないのだからどうしようもない。

 当然、維新後もそれは変わらなかった。流入してきた西洋の文化文物は日本人の生活を一変させるインパクトを有していた――が、萌え絵に与えた影響はごく限られたものと言えるだろう。そもそも萌え絵自体が西洋画の技法を元に、日本人の好みに合うように改良されて生み出されたものなので、これ以上改善の余地がなかったのだ。もちろん時代によってより写実性が追及されたり、その後その反動で極端なデフォルメが好まれたり、さらには省略を究めた絵柄が流行したりと、様々な変遷があった。だがその大元は草生ル萌がその絵を生み出した二百年間、何一つ変わっていないのである。

 ……そして、極めて空恐ろしい話だが。「草生ル萌」の絵師としての偉業はそう呼ばれた人物の功績の、半分に過ぎないという。彼は「草生ル萌」と呼ばれるのと同時に「縁為亭未来」と呼ばれていた。縁為亭未来は曲亭馬琴と並び称される江戸読本の巨星であり、無数の傑作を書き残している。その中には私小説の嚆矢と言われる「江戸美食独歩」があり、世界最初の推理物「居眠小五郎謎解明」があり、その他彼が最初に書いた、創始者となったジャンルは数知れない。

 だが縁為亭未来と言えば何と言っても「鎮西武英闘七兵伝」。二百年を経た今日でもちょっと大きい本屋に行けば現代語訳の文庫本が置いてある。戦前から何度も映画化され、戦後も何度もテレビドラマ化され、何人もの人間により漫画化され、直近でも何年か前にアニメ化があった。二百年もの間変わらぬ人気を誇る、江戸読本の金字塔である。聖杯による英霊召喚というギミックは多くの作家によって再利用され――


「って『FATE』シリーズのパクリじゃねーか!!」


「どうしたんですかいきなり」


 突然怒鳴り出した達郎にびっくりする内美。彼女がいなければ達郎は読んでいた本を床に叩きつけていたかもしれない。


「……てゆーか、他の作品にしたってどこかで見たことのあるやつばっかりだぞ」


 そう、それらの作品群は一つ残らずどこかで見たもので、オリジナルは何一つ存在しない……どこかってどこだ? 元ネタがあるって、どこにだよ?

 作品群の概要やあらすじを読んでいると頭が痛くなってくるので――あと何故か非常に腹立たしくなってくるので、また同時に自己嫌悪が募るあまり死にたくなってくるので――達郎はその本を閉じて別の本に手を伸ばした。それは文化文政時代の町人文化を扱った本で、そこには縁為亭未来や曲亭馬琴をはじめとして葛飾北斎、柳亭種彦、渓斎英泉、為永春水といった、よく知った顔と名前が……


「いや知っているはずがないだろ」


 そのはずがないのに達郎は彼等のことをよく知っている……そんな錯覚に襲われている。なおその本で記載された彼等の紹介には当時の似顔絵が使われていて、それを描いたのは草生ル萌。「新無金地本問屋」には縁為亭未来が親しくしていた同業者が何人も登場し、その写実的な似顔絵も多数掲載されている。当時の将軍の顔よりも浮世絵師や戯作者の顔の方がよっぽど正確に判るのは草生ル萌の功績?である。

 ……いや、そんなことはどうでもいい。どうでもよくはないけど今は後回しだ。今問題なのはその本の中の、ある一節。


「……一九世紀にヨーロッパでナショナリズムが高揚したのと同時期、日本でもナショナリズムの勃興と高揚が発生した。その濫觴は本居宣長の古事記研究にあると言えるだろう。宣長は中国文化とその精神に対抗する日本文化とその精神を『やまとごころ』と規定。その追及に生涯をささげた。その古事記研究の成果と『やまとごころ』というナショナリズムは、彼の何百人という門人によってやがて日本中に伝播していくこととなる。そのナショナリズムというバトンを受け取った、何千何万という人間の一人が縁為亭未来だったと言える」


「……縁為亭未来と山青堂は『古事記絵本』や『古事記絵図』等の日本神話を題材とした書物を出版。多くの絵師や戯作者がそれに続き、文政時代の出版界に一大古事記ブームが到来した。それは古事記を扱った書物がよく売れたという意味で、それはナショナリズムの高揚という社会背景と無関係ではない。それと同時にそれらの大衆向け書物は民衆レベルでのナショナリズム伝播に大きな役割を果たしており、『古事記ブーム』と『大衆レベルのナショナリズム高揚』は相乗効果により拡大に拍車がかかったと言える。だがこの時点のナショナリズムは、縁為亭未来にとっても大衆にとっても、まだまだ素朴なものだった」


「……縁為亭未来のナショナリズムは『鎮西武英闘七兵伝』から豹変する。そこにはキリスト教に対する敵意、その背景にあるヨーロッパ帝国主義への警戒心、また侵略者の手先となる第五列への憎悪が明確に描かれている。本居宣長のナショナリズムは中国への対抗心で生み出されたものに対し、縁為亭未来が抱いたそれはヨーロッパへの恐怖と警戒に満ち満ちたものだった。それは当然、ヨーロッパ列強の帝国主義が活発となっている世界情勢を背景としており、『七兵伝』の空前の大ヒットもこの情勢と無関係ではない。だが大衆にとってそれはまだまだ遠い世界の話だった」


「……一八四〇年に始まる阿片戦争と清朝の敗北が日本に与えた衝撃は、今日では想像も及ばないだろう。知的階級インテリゲンチャにとっては言うまでもないことだが、大衆レベルでもそれは天地がひっくり返るような衝撃と恐怖を与えたのだ。すなわち――『天圭宗が清を攻め獲った』と」


「……『七兵伝』に登場する天圭宗がキリスト教をモデルにしていることは言うまでもなく、それが南蛮の商人と結託して阿片を売りさばき、日本を蚕食せんとしている、その展開は阿片戦争を予言したものと受け止められた。絵空事だったはずの天圭宗が現実に存在し、強大だったはずの清を圧倒し、その食指は日本にも伸ばされようとしている。大衆の恐怖心はパニックのレベルに達していた」


「……一八五三年、アメリカの黒船艦隊がやってきたのはその最中であり、大衆の恐怖心は最高潮に達した。幕閣の中には『日本の国力では到底アメリカ艦隊に対抗できないから要求を呑んで開国するのはやむを得ない』と主張する者もいたが、それはごく少数意見に過ぎなかった。もしそんなことをしたら『幕府が天圭宗と結託して日本を売り飛ばそうとしている』と見なされかねないし、そもそも武を司る幕府が戦わずして屈服するのは論外だった」


「……黒船戦争は日本の惨敗で終結し、幕府はアメリカに対して長崎を割譲。それは列強による日本侵略の始まりであり、一世紀に渡る苦難苦闘の始まりでもあった」


 そこまで読んだ達郎は勢いよく本を閉じ、目を瞑って天を仰いだ。内美が怪訝な顔となっているが当然見えていない。


「……いや、まさか……文化面ならまだともかく日本史に対してそこまでのバタフライエフェクトが……そんなわけが……」


 大量の汗が額を濡らし、達郎はハンカチでそれを拭った。必死に目の前の現実から目を逸らそうとし、だがなかったことにできるわけがない。


「あの、すみません妹さん。高校の歴史の教科書があったら見せてください」


 内美の不審も最高レベルに達したに違いないが彼女は何も言わず自室に向かい、一冊の教科書を持って戻ってきた。それを手にした達郎はその後ろの方をぱらぱらとめくり――たったそれだけで「ドイツレーテ成立」だとか「ベルリンに原爆投下」だとか「ニューヨーク・コミューンの樹立と崩壊」だとか、恐ろしい単語がいくつも目に入り、それ以上読み進む勇気を持つことができなかった。

 ひとまず日本のことだけ取り上げるなら、日本はアメリカに第一次大戦で惨敗し第二次大戦で辛勝し、自主独立を獲得。その後共産圏の影響が強くなりすぎて共産主義の傀儡政権が成立するけどそれも一〇年以内で何とか打倒し、ようやく真の独立を果たしたのが一九六〇年頃。なお世界の共産圏は前世紀のうちにそのほとんどが崩壊し、二一世紀は世界の大半で平和と自由と繁栄が謳歌されているという。


「……」


 達郎は何とも言い難い顔となった。元の時間軸の日本とこの世界の日本でどちらがより苦労をしたか、どちらにより多くの犠牲が発生したか、どちらの方がより望ましい歴史だったか――それに答えるのは神様でもなければ絶対に不可能だ。ただ、現在だけを比較するなら好ましいのは間違いなくこちらだった。今、この国には外国の軍隊は存在しない。アメリカとの関係も(慰めやごまかしや建前ではなく)内実のある対等である。

 その事実と結論にひとまずの満足を覚え……それがきっかけとなったのか、本来の自分の記憶が急速に取り戻され、


「――ちょっと待て、まずい」


 それと同時に別の時間軸の知識や記憶が失われようとしている。それは何かの事故で頭に押し込まれただけのもので、最初からいずれ消え去る運命だったのだろう。だが一度消えてしまえばそれを取り戻すことは絶対に不可能だ。


「すみません! 今すぐにやることができたので帰ります!」


 消える前に書き残さなければならなかった、この記憶を。それに何の意味があるのかは、また後で考えればいい。

 心配そうな顔の内美に笑いかけ、また後日顔を出すと約束し、達郎は走って自分の下宿に戻ってくる。そして即座にパソコンの前に座り、自分の知識と記憶をテキストファイルに書き起こした。黒船に屈服して以降の日本の歴史を、世界の歴史を――縁為亭未来がいなければそうなるはずだった、本当の歴史を。

 達郎はほとんど休憩を挟まずに一晩中打鍵をし続ける。その音が止まる頃には、窓の外では明るい日差しが輝いていた。






「……何だったんだ、一体」


 雷に打たれて記憶喪失となり、山崎家の人達に心配と厄介をかけ……それは記憶に残っている。自分の行動も――ただ自分が何を考えて、何のためにそんな行動を取ったのかが判らない。その思考の経緯が、その記憶だけがまるで虫に食われたかのように失われている。


「とりあえずこの後山崎さんのところに顔を出して、もう心配ないってことを妹さんに知らせないと……何なんだよ『妹さん』て」


 礼節と適度な距離感のあるこの呼び方は、妙にしっくり来るけれど。

 時刻は……午後三時、六時間くらい眠っただろうか。起床時間が逆転に近い。休みの間に元に戻さないと。


「で、昨日夜通しぶっ通しで何を書いていたのか……」


 徹夜でパソコンで文章入力をしていた記憶はしっかり残っている。だが何を書いていたかは皆目覚えていなかった。まあ覚えていないなら読めばいいだけの話なんだけど、と達郎はパソコンを起動、該当のファイルを開いて目を通し……


「……何なんだよ、これ。『縁為亭未来が存在しなかった時間軸の歴史』って」


 江戸時代の日本なんて当時の世界からすれば辺境でしかなく、さらにそこの政治家でも何でもない、いくら売れっ子でも戯作者の一人がいなくなったところで、世界史はもとより日本史だって大して変わるわけがない。


「ドイツに共産主義政権じゃなくてナチスが成立? 何なんだよナチスって」


 と達郎は失笑するしかない。その所業は一昔前のロボットアニメに登場する悪の組織ですら遠く及ばず、あまりに荒唐無稽でこんな政権が現実に成立も存在もするはずがなかった。SFとしても悪趣味で出来が悪すぎだ。

 そもそも、世界史は何十億人という人間が寄り集まって創り出すものだ。たった一人の人間が歴史を、世界を変えられるなど、自惚れが過ぎるというものだろう。

 達郎はそのファイルを削除しようとして……やっぱりやめて、ドキュメントの奥の方に保存。パソコンの電源を切った彼は、


「……もしもし、占部です、こんにちは。……はい、もうすっかり。ありがとうございます。ご心配をおかけしました」


 携帯電話で山崎家に電話をする。今回の記憶喪失も日常の中のちょっとした起伏で終わり、またいつもの平穏な生活が始まろうとしていた。



【後書き】

新作宣伝のための番外編追加です。新作もよろしくお願いいたします。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

曲亭馬琴とその時代、あとタイムスリッパ―とか 亜蒼行 @asou_yuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ