第一〇回



 文政五年二月末は西暦で言えば一八二二年の四月下旬。春真っ盛りの陽気に江戸の町も浮かれるかのようだ。吉原風邪と火事の頻発もさすがに鎮静化し、長い冬の鬱憤を晴らすかのように活動的に、あるいは享楽的になっている。

 その中で、お内はまたもやしかめ面だった。


「冴えない顔ですね、妹さん」


「そういう兄さんは相変わらず暢気な顔ですね」


 軽口に皮肉で返したお内は憂鬱そうにため息をつく。左近が取りなすように「何かあったの?」と訊ねた。お内は今一度ため息をつき、


「兄さんのせいですよ」


「俺の?」


「兄さんが余計なことを言うからです。そこの火除地に秋葉様を勧請したらいい、って言っていたでしょう」


 お内が視線で戸の向こうの、店の前の空き地を指し示す。その空き地には雑草が青々と生い茂り、ちょっとした草原と化していた。達郎は「ああ」とそのことに思い当たり、


「ご近所さんはみんな結構乗り気になっていたと思うんですけど、何か話が進んだんですか?」


「講を作ってお金を集めています。言い出しっぺのうちはそれなりの額を出さないと面子が立ちません」


 お内は三度ため息をつく。左近は苦笑した顔を達郎に向け――やや目を見開いた。達郎が目を輝かせている。右掌で左肘を支え、左掌で顔の下半分を覆っているが、それは破願を隠そうとするかのようだった。


「妹さん妹さん」


「なんですか」


 笑いを堪えるかのような達郎の様子にお内が怪訝な顔をする。達郎は懸命に顔面の筋肉を操作し、真面目な顔を作ろうとした。


「お金を出すのはちょっと待ってください。どうせならこれを商売にしましょう」


「商売? 何を売るんですか?」


「山青堂の名……かな」


 得意げな達郎に、お内はそれを見下ろすような目を向けた。


「どういうことです?」


「チャリティ……じゃなくて、『勧請錦絵』を作って売りましょう。値段はちょっと高めにして、売上の半分は秋葉様の勧請に遣います、って謳うんです」


「勧請錦絵……」


 その発案にお内と左近は呆然としたようになった。江戸時代は富くじが大流行していたが、それは寺社が普請費用調達のために(そういう建前で)行っていたものだった。相撲の興行もまた同様である。


「それを市井の町人がやる話は聞いたことがありませんが……」


「でも別にくじを付けるつもりはないですし、山青堂がそれで儲かるわけじゃありません」


「持ち出しにはなるけど、名は売れる……そういうことですか」


 お内は顎に手を当てて考え込んだ。彫像のように微動だにせずそのまま沈思黙考するお内に、


「いい考えなんじゃないかしら? あまり大きな損は出せないけど少しくらいなら」


「その辺の兼ね合いは難しいですけど、売上の半分ならそこまで大損にはならないかなと」


 左近と達郎の会話はお内の耳に全く入らないかのようだった。一言も発しないお内に二人の会話が途切れ、左近が「お内ちゃん?」と声をかける。その途端、お内が胸を抱えてうずくまった。


「お内ちゃん?」


「持病の癪か?」


 達郎は時代劇でおなじみのフレーズを使った。お内は襟元を強く握りしめ、汗の流れる顔を俯かせている。


「は……」


「は?」


「半分なんてケチなことを……どうせやるなら売上の全部を秋葉様の勧請に……!!」


 お内は血涙を流すかのような形相で、血を吐くようにそう述べる。まさしく断腸の思いのその決断に対し、達郎と左近は「心配して損した」と気が抜けたような顔となった。

 それから少しばかりの時間を経て。お内の顔色はまだ悪いが普通に会話はできるくらいに復調している。


「あああああ、一体どれだけの損を出すことか……」


 ……いや、まだ本調子には遠いようだった。


「損を出したってまた取り返せばいいだけですって」


 達郎の励ましに左近も「そうそう」と同調した。お内にもそのくらいは判っている。「名を売れば損もすぐに取り返せる。先々にはより大きな商売につながる」――その経営判断があってこその決断である。


「……さて。勧請錦絵を刷って売るのはいいとして、まず何の絵を描くかですけど」


「秋葉様の絵……は難しそうね。やっぱり町火消の絵じゃないかしら」


 そうなるでしょうね、とお内が頷く。錦絵(浮世絵)の題材としては吉原の遊女・歌舞伎役者・相撲取りなどが人気であり、町火消の絵は数が少なかった。が、「江戸の三男」として「与力、相撲に火消の頭」が挙げられるように、町火消はある種のヒーローのような存在なのである。


「そして一番大きいのは『誰に描いてもらうか』です」


「俺が描きます」


 と達郎が胸を張るが、


「……あの方はどうかしら」


「描いてもらえるのならそれに越したことはないんですけど」


 二人はそれに耳を貸さずに話を進めている。


「それじゃ話を持っていってみます。今はどこに住んでいるんでしたっけ……」


 お内が早速行動を開始し、左近もまた内職をしに店の奥へ。一人店に残される達郎は肩を落とした。そしてその夜、


「誰に依頼するのか知らないけど、それより良い絵を描けばいいんだろう?」


 場所は寝床の物置。木箱が机の代わりで灯りはろうそく一本だけだが、


「それでも描ける、描いてやるよ……!」


 一筆入魂。タイムスリップ前に培った技術と、タイムスリップ後に見聞きし、経験したこと。それらの全てをこめた筆を紙の上に走らせる。絵はすぐに完成し、その出来栄えに達郎は一人満足げに頷いていた。

 そしてそれから何日か後か経ち、三月に入ってからのこと。

 ちょっとばかり席を外したお内に代わって達郎が店番をしていると、そこに一人の男がやってきた。


「邪魔するよ」


 そう言って店に入ってきたのは巨漢の老人だ。年齢は六〇過ぎ。身長は一八〇センチメートルを超え、この時代としては相当の長身である。ボロ同然の、非常に粗末な着流しの上に袖なし半纏を羽織っている。どこかで拾ってきたかのような棒を杖にし、荷物は風呂敷包み一つ。その容貌は一見普通だ。ただ、見定めるような、興味深げな眼を達郎へと向けている。達郎もまた穴が空くほどにその老人を見つめ続けた。


「あなたはもしかして……」


「まあまあ、ようこそいらっしゃいました」


 そのとき奥からお内が出てきてその老人を歓迎、老人もまた破願した。


「邪魔するよ、お内ちゃん」


 老人はそのまま腰かけ、お内は帳場に座って商談の態勢となる。立ったままの達郎がお内に確認した。


「あの、この方はもしかして」


「はい、葛飾北斎先生です」


 その名前に雷に撃たれたようになり、直立不動の姿勢となる達郎。そんな彼に二人が訝しげな顔をした。


「どうしたんですか、兄さん」


「何言ってるんだよ、あの葛飾北斎だぞ! 『ライフ』が選んだ『この千年で最も重要な功績を残した世界の人物百人』で唯一ランクインした日本人なんだぞ!」


 早口の上にその内容が全くの意味不明で、お内は首を傾げるしかない。一方の北斎は「がはは」と笑う。意味は判らずとも最大級の賞賛を受けていることは感じ取れ、相好を崩した。


「ささ、どうぞこちらへ。妹さん、一番高いお茶を」


 兄さん、というお内の抗議の声も無視して達郎は北斎を店の奥へと案内する。その二人の背中を見送り、お内は小さくため息をついた。

 それからしばらくの時間を経て。達郎とお内は奥の居間で北斎と向かい合っている。茶をすする北斎の姿に達郎は感無量だった。この時代に来て初めて「タイムスリップして良かった」とすら感じている。この時代で最初に出会った、歴史上の偉人――柳亭種彦には悪いが格が違う。葛飾北斎が後世の日本と世界に与えた影響は計り知れない。達郎もまたその影響下で、彼が変えてしまった絵画の歴史の末端で絵を描いてきたのである。


「随分早くのお越しですけど、もう仕上がったんですか?」


 お内の問いに北斎は「まあな」と答える。


「もしかして勧請錦絵を?」


「はい、この方に頼みました」


 なるほど、と得心する達郎。実力とネームバリュー、全ての面でこれ以上はない人選だった。北斎はかつて柳亭種彦の「近世怪談霜夜星」の挿絵を描いており、山青堂と仕事をしたこともあった。近年は付き合いがなかったが仕事を頼むことは不可能ではない。ただ引き受けてくれるかどうかは別問題だったが、


「勧請錦絵とは、面白いことを考えるじゃねえか」


 と北斎はふてぶてしく笑う。


「損してでも名を売ろうってんならそれに乗らねえ話はねえよ」


 北斎は「自己宣伝に熱心で、自己演出に長けた人間だった」とされている。勧請錦絵の企画に加わることが自分の名声をさらに高める、という計算が働いたのだろう。


「それじゃ見せていただけますか?」


 と身を乗り出す達郎に北斎は「おう」と風呂敷包みを広げた。その中には薄い桐箱が入っていて、さらにその中に入っていた紙を畳の上に広げる。


「……これは、見事ですね」


 お内は深々と讃嘆した。そこに描かれているのは、屋根の上の纏持ちだ。周囲が炎に包まれる中、纏持ちが纏を振り続ける、その勇壮な姿が線画で描かれていた。


「さらにこれに色が付けば」


「飛ぶように売れますね」


 お内が企画の成功を確信し、北斎は得意げに腕を組んでいる。


「善は急げ、です。この絵は今日にでも彫師のところに」


「ああ、そうだ。俺も火消の絵を描いたんで見てもらえませんか?」


 腰を浮かしたお内が達郎に腰を折られ、やや不機嫌な顔となった。が、北斎はそれに構わない。


「へえ、まあちょっとくらいは見てやるよ」


「ありがとうございます!」


 達郎はダッシュで絵を取りに行き、十を数える間もなく戻ってきた。


「こちらです。題名は『火消一服』ってところで……」


 ふうんと、北斎がいまいち気のない様子でその絵を一瞥し――その形相が一変した。


「こんな絵……初めて見ます」


 それ以上は言葉もないお内の様子に達郎は「そうだろうそうだろう」と得意絶頂だ。

 ――そこに描かれていたのは、鎮火した火事場でがれきに腰かけて休息する、町火消の姿だった。煤にまみれ、火傷や怪我を負った男達が、それでも笑い合っている。その無骨な、だが頼もしげな男達をリアルに描いたものである。達郎は道具さえ揃うのなら「写真のようにリアルな絵」を描くだけの技術はあった。だが今回は筆という道具の制約があり、さらには複数人の全身を絵に入れ、背景も結構描き込んでいる。それぞれの顔はどうしても小さくなり、それでもそれぞれの特徴を捉え、線を省略しつつも可能な限り「リアル」に寄せた絵を描いたのである――二一世紀の最先端の、漫画絵の技法を使って。


「――てめえ」


「はい?」


 能天気もいいところの達郎だったが、北斎の眼光を浴び去られてその全身を硬直させる。北斎は空気が帯電しそうなほどの殺気を全身から放っていた。先ほどまでとは人間そのものが一変している。まるで、午睡をしていた牛の化けの皮がはがれ、その下から巨大な虎が現れたかのようだ。

 これこそが、葛飾北斎の真の姿なのだ――達郎は硬直したままの喉を何とか動かして唾を呑んだ。


「てめえ、この絵は何だ。どうやって描いた。誰に教わった」


 その問いにどうやって答えるべきか達郎はしばし考え、首を横に振った。


「言えません」


「てめえ!」


 激発した北斎が立ち上がる。今にも殴りかかってきそうな勢いにお内は身をすくませた。達郎は歯を食いしばってその重圧に耐えている。足を踏み出しそうになる北斎に対し、


「この絵は!」


 その気を制する鋭い声。一呼吸置き、達郎はゆっくりと説明した。


「……俺の師匠と言うべき人は、西洋の絵の技法を学んでそれを体得し、さらにそれを本邦の技法と混ぜ合わせて、長い時間と研鑽の果てにこの絵にたどり着きました。俺はそれを猿真似したに過ぎません」


 正確を期するなら、「師匠と言うべき人」は一人や二人ではなかった。明治維新以降、何千という画家が西洋の技法を学び、それを血肉とするのに悪戦苦闘してきた。さらにそこに日本古来の画法や浮世絵の技法が加わって近代日本絵画が生まれるのだが、それも容易い話ではなかった。さらにそれを土台として戦後、何万という漫画家が七〇余年切磋琢磨し、その結実として今日の漫画絵がある。果てしない屍の荒野の中で一本の木がつけた果実を、達郎はただ横から摘み取ったに過ぎなかった。

 ふうむ、と大きく唸った北斎が腰を下ろした。吟味するような北斎の目に達郎は気合を入れて対抗する。真っ直ぐに北斎を見つめ続けている。


「……これ以上は訊かねえが」


 どうやら「達郎の師匠は国禁を犯して西洋の画法を学んだ人間」と推測し、名前を言えない理由をそれで納得したようだった。達郎としてもその誤解は好都合である。

 北斎と達郎は無言のまま対峙した。両者とも微動だにせず、一言も発しない。それに付き合わされているお内は居心地が悪そうに身じろぎをするばかりだ。……半時間くらいはそうしていただろうか。


「帰るぜ」


 突然北斎がそう言って立ち上がった。達郎とお内が慌てて立ち上がってその後に続く。北斎は何も言わずにさっさと店を後にしてしまい、達郎達は遠ざかるその背中を見送るしかなかった。


「どうしたの? まさか先生を怒らせたとか?」


「怒らせた……とはちょっと違うと思うけど」


 左近の疑問にも答えようがなく、頼りなげにそう言う達郎。その点お内は切り替えも早く、北斎の下絵を持って彫師の下へと向かう。達郎は北斎の反応が気に懸って何も手につかず、気もそぞろのままにその日を過ごした。北斎が再び山青堂にやってきたのは翌日のことである。



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