第五回
今、達郎はお内のお供で江戸の町を歩いている。
暦は一月中旬、文政五年が始まって半月ほどが過ぎた頃。西暦で言えば一八二二年の二月初旬になるだろうか。達郎がタイムスリップにより江戸時代にやってきて一月が経過していた。
年初と言えば二一世紀でも何かと慌ただしい時期であり、季節感の豊かなこの時代ならそれはなおさらだ――本来なら。今、江戸の町はまるで灯が消えたような、寒々しい有様だった。理由は言うまでもない、吉原風邪の大流行だ。この吉原風邪という名のインフルエンザはパンデミックとなって江戸の町を席巻している。
江戸時代の流行病は「その年の流行語や流行歌」の名を付けられることが多い。例えば安永五年(一七七六年)の「お駒風」は城木屋お駒を題材とした浄瑠璃の流行に因んで。天明四年(一七八四年)の「谷風」は谷風梶之介という最強力士に因んだもの。文化四年、つまり前年の二月から三月にかけて蔓延した「だんほう風」もまた流行した小唄が元になった名前である。
当初はこの「だんほう風」の再流行かと思われたが症状の激しさと死亡率の高さから全く別物という見方が広まり、また吉原を起点として流行が始まったことも周知の事実となった。このため誰が呼ぶともなく「吉原風邪」と呼ばれるようになったのだ。
この吉原風邪の感染拡大の状況や罹患者数、死者数に関して江戸幕府からの公式発表は何もない。将軍の記者会見も何もない(あるわけがない)。よって現状がどうなっているのか、正確なところが何も判らず、達郎はもどかしい思いを抱いている。あてにならない様々な噂話から推測するくらいしか方法がないのだ。幸か不幸か――不幸に決まっているが、嫌な噂話はいくらでも耳に入ってくる。
「どこどこに住む何某さんが風邪で亡くなった」
という話は誇張ではなく毎日耳にすることだった。達郎が直接見聞きした範囲だけでも死者数は数十人。江戸全体なら、どんなに少なく見積もっても確実に四桁に達している。しかもこのパンデミックはまだ始まったばかりなのだ。
江戸の土地は武家地が半分を占め、町人地はその三分の一以下、約一六平方キロメートル。言わば、たったの四キロメートル四方の中に五〇万人以上の町人が住んでいたのだ。しかもその住居の大半は狭くて粗末な長屋である。住まいは三密そのもので、トイレは共同、風呂は銭湯。消毒剤もなく、とどめに感染予防に関する最低限の知識すら持っていないのだ。町人地が吉原風邪の温床となるのは当然以前の話であり、そうならないわけがない。さらに吉原風邪は町人地から武家地へ、江戸から大阪や京都へも拡大しようとしていた――という話である。それも噂で聞くことしかできない。
このパンデミックが終息するまでの総死者数は、最低でも万単位。下手をすると十万単位に達するかもしれない……と達郎は考えている。正確な数は達郎の立場では知りようがない。おそらく将軍でも把握できず、後世の歴史家の計算を待たなければならないだろう。
文政四年のだんほう風に関する記述は何かで読んだ記憶があるが、そこには吉原風邪の大流行などいう話は一文字たりとも存在しなかった。もし本来の歴史にも吉原風邪があったのなら幕末にくり返し大流行したコレラのように年表に特筆されているはずである。本来の歴史から、何があって歴史の流れが変わってしまったのか――言うまでもない。達郎が未来からやってきてしまったから、達郎が未来からインフルエンザを持ち込んだからだ。
一五世紀末のコロンブスの新大陸到達により、天然痘を始めとする様々な疫病が旧大陸から新大陸へと伝播し、先住民の九五パーセントが死滅したという。旧大陸では有史以前から牧畜が始まり、家畜由来の疫病とも長らく共存してきたが、新大陸には家畜に適した動物がほとんどいなかった。このため牧畜も、家畜由来の疫病も、それに対する免疫も持たず、旧大陸の疫病に対して彼等が極めて脆弱だったからだ。そしてこれと同じことが江戸でも起ころうとしている。
先述のお駒風や谷風のような、インフルエンザと見られる流行病は江戸時代でもくり返し発生しており、この時代の人間に免疫が全くないわけではない。だが達郎が未来から持ち込んだインフルエンザはワクチンや抗生物質との熾烈な戦いにも生き残ってきた、言わば猛者だ。それからすれば、貧弱な医療技術しかないこの時代の人間など雑魚の群れでしかないだろう。
達郎がこの時代に来たから、達郎のせいで何万、あるいは十何万という人間が死ぬことになる――それを考えるたびに陰鬱な気分となり、気が塞いでしまう。が、その責任の全てを引き受けるつもりは、彼にはない。
「不可抗力だろう、こんなの」
憮然とした顔の達郎は内心でそう独り言ちた。
二一世紀のどこでインフルエンザに罹患したのか――深夜の高速バスの中か、サービスエリアのトイレか、それとも地下鉄かJR線か、あるいはブランチに立ち寄ったファストフード店か。新型コロナウィルス対策でマスクはずっと付けたままだったし、手洗いや消毒だって欠かしたつもりはなかった。が、それらの予防策も百パーセント完璧というわけではなく、よほど運が悪ければ罹患することもある――それでも罹患したのが新型コロナウィルスではなかったのは、あるいは不幸中の幸いだったかもしれない。
ともかく、(二一世紀の)あの状況下でインフルエンザに罹患したとは夢にも思わず、(この時代に来てからの野宿という)あの状況下で高熱を出すのは当然と思い込んでいた。この時代に来てからは現地住民と接触せずに、二一世紀に帰ることだけを考えて行動した。お内に感染させたのがインフルエンザだと判ってからは最善を尽くしてきたし、実際山青堂内ではお内以外に罹患者は出していない。まさか伊勢屋の連中に感染してそこから大流行になるなんて、想定できるわけがない。
達郎は自分の知識と力の範囲でできる限りのことをしてきたのだ。それでも彼を責める人間がいるならその人は、
「全ての人間は全知全能であり何一つ間違いを犯してはならない。自分がそうである」
そう主張しているようなものだろう。
それに、達郎は自分の知識と力の範囲でできる限りのことを、今も続けている。
「……口元を覆っている人が多いですね」
「それでこの風邪が防げるのなら、当然そうするでしょう」
この時代でもできる感染予防策は、手洗い、うがい、それにマスクだ。
「風邪の元は口から入ってきて体内で増えて、主に口から出ていきます。だから口から入ってくるのを防げば風邪にはなりません」
達郎は山青堂の面々に手洗いとうがい、それにマスクの代わりに手拭で口を覆うことを徹底させた。綿の手拭は不織布と比較すれば防御力の面で心許ないが、やらないよりはマシである。
「そんな話は聞いたことないんですが」
「最新の蘭学の知識です」
達郎が自信満々に断言。実際それはこの時点から一世紀先取りした感染予防法だった。お内を始めとする山青堂の面々は懐疑的な様子だったが、左近が進んで達郎に従い、お内も不承不承それに追随。そうなれば手代や丁稚もそれに倣う他ない。
山青堂の予防策を、当初は「おかしなことをしている」と嘲笑込みの目で見ていたご近所さんだが、罹患者が出ていない実績にやがてそれを真似するようになる。まずは同じ町内の住民、次いで近隣住民に広がり、さらには江戸の町へ。今は通りの歩く人々の何割かが手拭で口元を覆うようになっている。
元々江戸の町は非常に埃っぽく、乾燥する冬の時期ならなおさらだ。口元を覆うことにも抵抗や違和感は少ないようだった。それに、庶民の主要な流行病対策が「お札を貼ること」という時代なのだ。「口元を塞いで風邪の元が入ってこないようにする」というのも江戸の庶民からすればおまじないと大差ないように思えるのかもしれなかった。疑わしく思えようと、それくらいしかすがるものがないのである。
さて。今、達郎はお内のお供で江戸の町を歩いている。町はどこか寒々しい印象で、行き交う人々の何割かは手拭で口元を覆っている。すれ違う人々は達郎達に哀れな、あるいは嫌悪の目を向け、関わり合いにならないように足早に離れていく――お内は達郎の他に手代の二人を連れていて、その二人が担いで運んでいるのは棺桶なのだ。
この時代の棺桶は箱型ではなく円柱形、文字通りに桶の形だ。角材の天秤棒に丸い大きな桶が吊り下げられていて、二人がかりでそれを運んでいる。中身は、今それを引き取りに行こうとしているところだった。
外神田から歩くこと約一時間。
「ここはどの辺りですか?」
「小石川です」
へえ、と感心して周囲を見回す達郎。やがて彼等はとある長屋に到着、応対に出てきた大家にお内が深々と頭を下げ、長々とあいさつを交わした。
「こちらにお住いの外次郎を引き取りに参りました。外次郎はわたしの兄でしたが幼少の頃に養子に出され、その養い親も亡くしてしまい、ここに一人住まいだったと聞きます。他に身寄りもおりませんのでわたし共で弔ってやりたいと思います」
大家が「外次郎?」と首を傾げ、
「こちらでは次郎兵衛と名乗っていたようです」
その付け足しに大家も「ああ」と納得したようだった。
「そうしてもらえると助かるよ。本当なら葬式くらい出してやるところなんだが、他にも何人も死んでいてねぇ」
「はい、わたし共の周りでも」
としばしの世間話の上で、大家はお内達を外次郎改め次郎兵衛という男の家へと案内した。長屋の一つの中で、彼の遺体は莚に覆われている。亡くなってから数日を経ているようだが冬の真っ只中であり、遺体はまだ腐敗していなかった。
死体に触るのは気持ちいいものではないが、仕方ない。ためらいを呑み込んで達郎ともう一人が背後から次郎兵衛を抱き起し、残る一人が足を持って持ち上げる。そして棺桶に収めようとするが、
「あれ、くそ」
円形の棺桶は座棺とも言い、体育座りの姿勢で遺体を収めるものだ。が、次郎兵衛は死後硬直が進んでいてその手足は曲がろうとしなかった。それでも何とか強引に納めようとしてその足が「べき」と嫌な音を立て、「ひっ」と達郎が悲鳴を上げて何メートルか飛び退く。
「何をしているんですか?」
「いま、いま骨が」
「折らないと収まらないなら折るしかないでしょう」
お内は冷たく言い放ち、達郎は「で、でも」と抵抗しようとした。が、
「死人が痛がるわけじゃないでしょうが」
それ以上は抗弁しても無駄だった。達郎は目を瞑って遺体を無理矢理棺桶に詰め込み、それはべきぺきぽきと何度か嫌な音を立てる。ようやくそれが終わったときには達郎は精根尽き、エクトプラズムっぽい何かが口から半分はみ出た状態だった(なおお内の名誉のために補足すると、「遺体を棺桶に収めようとした結果骨が折れる」のはごく普通のことだった)。
大家とあいさつを交わしてその長屋を後にし、しばらく歩いて達郎の精神も復調してきた。お内に対する気遣いもできるようになる。
「ええと、その、何と言いますか……」
と気の毒そうな顔の達郎に、お内は「はい?」と首を傾げる。
「いや、上のお兄さんがあんなことになったばかりなのに下のお兄さんまで」
ああ、と合点がいったお内が棺桶を見やりながら、
「気にされることはないですよ。この人は他人ですから」
「はい?」
「養子に行った下の兄はすぐに亡くなったんです。養い親は他からまた養子をもらってきて」
「この人がそうだと?」
その確認にお内が「はい」と頷く。
「それならどうして赤の他人を?」
「死体が必要だったんです」
物騒なことを言うお内は「すぐに判ります」とそれ以上は説明しなかった。
達郎達は三人で交代しつつ棺桶を担いで歩いていく。小石川から一時間以上かけて歩き、到着したのは上野である。不忍池が湛える水面を横目で見ながら、お内達四人はその向かいの寺院の中へと入っていった。
「こちらはわたしの兄の表太郎です。吉原風邪で先日息を引き取りまして……」
お内は殊勝な顔で僧侶の一人に説明し、その僧侶は手を合わせて念仏を唱えた。
「勘当した後でしたので弔いはともかく、埋葬くらいはしてやりたいと思います」
「左様ですか」
その僧侶は「助かります」という言葉を寸前で呑み込んだ。見ると、寺院の中はやたらと人が多い。吉原風邪で死体が量産されているため寺院も葬式の連続でパンク同然の状態のようだった。
棺桶はすぐに墓地に埋葬され、お内達は手を合わせて念仏を唱える。達郎もまた見様見真似で死者の冥福を祈った。
手代の二人は先に店へと帰らせて、お内と達郎はその後は庫裏で諸手続きである。江戸時代の仏教寺院は幕府に代わって民衆の戸籍(人別帳)を管理する役割を担っており、死亡に伴う除籍の各種手続きが必要だった――移動に伴う追加の記載も。
「こちらは兄の外次郎です」
とお内が達郎を指し示し、思わず達郎はお内を見返した。お内はそれを無視して素知らぬ顔で続ける。
「養子に出しておりましたが上の兄が亡くなったので下の兄に戻ってきてもらいました」
「すると山青堂はこの方が継ぐわけですか」
「はい」
そんな世間話をしながら手続きを進めて、長い時間をかけて何枚もの書類を書いてようやくそれが終わる。お役所仕事というのはいつの時代でも変わらず、余計な手間ばかりかかって面倒なもののようだった――書類さえきちんとそろっていれば実際は問われないことも。
全ての手続きが終わってお内と達郎が解放されたのは夕方に近い時間だった。二人は外神田へと向かい、のんびりと歩いていく。
「ようやく兄を弔うことができて、肩の荷が下りた気分です」
とお内は大きく伸びをした。棺桶の中には最初から表太郎の右腕が入っており、小石川の次郎兵衛とともにやっと埋葬することができたのだ。腕は油紙を何重にも巻いて厳重に包装していたが一月あれば腐敗も進み、これ以上の保管は困難かつ危険な状態だった。もう川にでも捨てるしかないかも、と思っていたところだが、
「あんなのでも兄でしたから、そうならずに済んでほっとしています」
と独り言のように言うお内の横顔を達郎が見つめた。
「ええっとですね。整理したいんですが」
「はい」
「まず表太郎さんが神隠しにあって、その代わりに俺が山青堂に転がり込んできた。表太郎さんを死人としてちゃんと弔うために、小石川まで行って次郎兵衛さんを引き取って、それを表太郎さんとして埋葬した」
これで表太郎が神隠しで消えた事実はなくなり、公式に死人として扱われるわけだ。そして次郎兵衛は人別帳の上ではまだ生きており、
「これからは俺が次郎兵衛として生きていくと……」
――神隠しにあった人間が一人と、未来からやってきた人間が一人。その二人がそのまま入れ替われれば話が早いのだが、表太郎にだってこれまでの付き合いや友人知人関係というものがある。そこに達郎が「今日から俺が表太郎です」という顔をして割り込むのは、どう考えても無理があった。だからお内はこんな回りくどいことをして達郎の立場を作り上げたのだ。
もちろんいくら江戸時代でも普段からここまでいい加減なお役所仕事をしているわけではないだろう。だが吉原風邪の大流行というこの状況下なら、何人かの協力者さえ得られれば(袖の下さえ通せば)死者と生者と死者の入替も可能となるのである。
「そういうことなんですが、ちょっと違いますね」
とお内が立ち止まり、達郎もまた足を止めて彼女と向き合った。
「あなたには今日から二代目山崎屋平八として生きてもらいます」
「やっぱり本気だったんですか、それ」
お内が冗談を言っているようには到底見えないが、内容はそうとしか思えない話だった。
「あの、俺はどこの馬の骨とも知れない無宿人で、文字もろくに読めない甲斐性なしなんですが」
「ええ、でくのぼうの役立たずですね」
辛辣の極みみたいな評価だが、お内としては客観的事実を述べただけである。達郎もそれは理解しており、傷付いた顔はするが何も反論しなかった。そこにお内が「ですが」と逆接する。
「吉原の遊女に入れ込んで身代を潰しかけた人よりはどれだけマシか判りません。別に何をしてもらおうとも考えてませんので、気楽にしていてください」
要するにお内は「何も期待していない、何もするな」と言っているのだ。現状ではそれも当然だろうが……達郎は自分の内側で闘志に火が点き、熱くなっていくのを感じていた。
「字を覚えたら本を出したいんですが。挿絵も自分で描けますし」
「そうですか。書けたら読ませてください」
「八犬伝よりも面白くて売れる本を書きますよ」
満腔の自信を込めた達郎の宣言にお内は、
「それは楽しみです」
と欠片も信じていない様子でそう言うだけだ。だが達郎は腐りはしない。「八犬伝よりも面白くて売れる本」を執筆できる自信も根拠も、充分にあるのだから。
参考文献
磯田道史「感染症の日本史」文春新書
ジャレド・ダイアモンド「銃・病原菌・鉄」草思社文庫
他
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