余話(二〇二二年冬)



 「江戸っ子殺人事件」で警察が大炎上中である。

 昨年末に荒川区の路上で片腕が切断された状態の変死体が発見され、警察は事件・事故の両面から捜査を続けてきたが、未だ死体の身元すら判っていない。その中で、


「変死体はかつらではない、月代を剃った本物のちょんまげを結っていた」

「変死体が身にしていたのは上から下まで化学繊維が一切使用されていない、伝統的な着物だった。持っていたのも江戸時代の貨幣や小物ばかりだった」

「歯に治療跡が全く見られなかった」


 等々の情報がオフレコで流れてきて「変死体はタイムスリップしてきた江戸っ子だ」という憶測がネットを中心に広く流布するようになったのだ。その体内の寄生虫の遺伝情報を調べればきっと面白い事実が判るはず、もしタイムスリップが事実として証明されたなら科学の歴史が根底から覆されることに――などと期待していたら、警察はそうする前に死体を荼毘に付したという。

 意味の判らない騒ぎに付き合わされるのはゴメン、という警察の考えは理解できなくはないものの、あまりに拙速であり、科学の進歩に背を向けた暴挙と言う他ない。この国の警察が自らの過ちを認めるとは思えないが、仮に偉い人の首を獲ったところで焼いた死体が元に戻るわけではない。失われたものの大きさにため息が出るばかりである。

 服装や所持品から「彼」が元いた時代は一九世紀後半、文化文政の頃と推定されるという。その時代と「タイムスリップ」という言葉で連想されるのは、やはり縁為亭未来だろう。曲亭馬琴と並ぶ戯作者にして、葛飾北斎と並ぶ浮世絵師。あまりにも多種多様なジャンルの漫画や小説を書き残し、また彼が創始者となったジャンルも一つや二つではない。その上今に続く「萌え絵」という、それまでの浮世絵とは隔絶したスタイルの絵を創始したのも彼なのだ。後の時代からタイムスリップしてきた人間だという説は早くから唱えられてきて、それをアイディアとしたSF小説も何本か読んだことがある。ただ、正直言ってどの作品もSFとしてはいまいちと言わざるを得ない出来だった。その中の一つで、


「縁為亭未来の『えんため』とは英語のentertainmentから。『未来』は言葉通りで、すなわち彼のペンネームは『未来の娯楽』を意味するのだ」


 という説を読んだことがある。「縁為」の意味はSFではなく大真面目な論文にも載っている有力説の一つで、縁為亭未来が大量の海外知識に触れていたのは疑いない事実である。「未来」は江戸時代には現在のような意味では使われておらず、仏教用語の三世(過去世・現在世・未来世)の一つ、つまりは来世と同じ意味の言葉だが、そこに込められた意味や意図は不明確なままだった。

 仮に縁為亭未来が本当に未来人だったとするなら、その歴史の中に「縁為亭未来」は存在したのだろうか? もし縁為亭未来が存在しなかったなら――そんな日本は想像もできない。彼はあまりに多くのものを生み出し、あまりに多くの者に影響を与えてきた。日本の絵画史、文化史は彼を抜きにして語ることができない。ただしそれ等は全て文化面での影響で、政治面で彼が何かを成したことはないと言える。

 黒船襲来時にナショナリズムが爆発的に高揚した原因を縁為亭未来に求める意見がある。文政年間に庶民レベルでの古事記ブームを巻き起こし、また七兵伝で英国に対する脅威を間接的に訴えるなどしてナショナリズムの素地を作ったのだと。だがさすがにそれは考えすぎというものだろう。ましてやその後の、ペリー艦隊との大戦争やその敗北、列強による国土の蚕食と半植民地化、そこから抜け出すための一世紀近くの艱難辛苦の全てが縁為亭未来一人のせいなどと、牽強付会にも程がある。

 縁為亭未来は文化の歴史を根本から変えた巨人だった。たとえ彼が政治史に何一つ、かすり傷ほどの影響も残さなかったとしても、文化面での偉大さを毀損しはしないのだ。



【後書き】

本作はこれにて一旦区切りとしたいと思います(ネタが続かないため)。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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