第一七回
その日、ある人物が久々に山青堂を訪れた。
「こんにちは、お久しぶりです」
「そうだな、先日は世話になった」
その人物は渓斎英泉。達郎は彼を伴って山青堂内の中庭へと移動し、お内もまたそれに加わった。ときは文政五年九月で、西暦なら一〇月中旬から下旬。秋晴れの心地よさが少しずつ肌寒さへと移ろう季節である。
「絵の方はどうですか?」
「ぼちぼちだな」
韜晦するように言う英泉だが、その顔を見る限りではどうやら行き詰まったりはしていないようだった。達郎もそれに安堵する。
「近頃は絵を出していないようだが……」
「来春に合巻を出すために描き溜めています」
達郎は屋内に戻って「祓い屋三神」の草稿の何枚かを持ってきた。選んだのはどれもアクションシーンのページである。見栄えと迫力を最優先に、文字の書き込みも最小限。そして集中線・スピード線といった漫画の効果線を最大限活用している。その草稿を見せられ、英泉は感に堪えないような顔となった。
「なんとこれは。まるで絵が動いているようじゃないか」
「確か北斎翁もこんな線の使い方をしてませんでしたっけ」
俺はそれを真似しただけです、という謙遜に英泉は「そうだったか?」と首をひねった。記憶を検索して効果線を使った北斎の絵を探す英泉に、達郎は申し訳なさそうな顔をする。
――「失われた北斎作品一〇三点を大英博物館が入手」というニュースが流れたのは二〇二〇年九月。そのときネットで特に話題となり、多くの人々を驚嘆させたのが、「流離王雷死」という浮世絵である。仏教説話の中の、シャカ族を滅ぼした王が雷に撃たれて死ぬ瞬間を描いたものだが、そこで使われているのが漫画の集中線以外の何物でもないのだ。仏教画の後光の表現を誇張したもの、等の推測もあるが、写真もない時代に一体どのようにしてこんな表現を思いついたのか、ちょっと想像が及ばない。北斎は百年先の表現技法を発明していた超人とも言えるし、後世の漫画家は百年かかってようやく北斎に追いついたとも言える。
なお「流離王雷死」が描かれたのは一八二九年。「今」の北斎がその技法を発明し、公表しているとは限らず、「余計なことを言って混乱させただけだった」と達郎は後悔した。
「ところで今日はどうされたんですか?」
ごまかすように達郎が問い、「近くまで来たから立ち寄ったのだが」と英泉。
「馬琴翁から相談を受けてね」
はい、と達郎が相槌を打つ。
「翁の知音が、自分の郷里の話を
「その話なら聞いています」
息を呑んで固まってしまった達郎に代わり受け答えをするのはお内である。
「
鈴木牧之! 「北越雪譜」! 達郎は声にならない声でその名を呼んだ。
「でも、図会物はもう流行遅れですし、聞いた話では大本で一〇巻も出すつもりで、しかも挿絵をたくさん入れるとなると一体どのくらいお金がかかるか。その上作者が聞いたこともない越後の縮問屋の
「いや、本の作者はあくまで馬琴翁だ」
「でもそうなると別の心配があります。前にうちと翁がもめたことは御存じでしょう」
「この際は山青堂でもやむを得ないと翁は言っていたが……」
苦笑未満の英泉に対しお内は「なんだそりゃ」と言いたげな顔だ。なお補足をすると「図会物」は「名所図会」とも言い、見開き二ページの挿絵をふんだんに使って各地の名所旧跡・景勝地・特産品などを紹介する観光ガイドと言うべき書物である。江戸後期に庶民の観光旅行が盛んになるとともに図会物もブームとなったがその山は二つあり、第一次ブームは安永九年(一七八〇年)から文化一一年(一八一四年)、第二次ブームは天保五年(一八三四年)以降。「今」はその谷間の時期に当たっていた。
一方達郎は前に読んだ「北越雪譜」の出版経緯について書かれた本、森山武の「雪国を江戸で読む~近世出版文化と『北越雪譜』」の内容を思い出そうとしている。いくら卒論執筆のために高いお金を出して購入して精読したとはいえ、いくら記憶力に自信があるとはいえ一字一句全てを覚えているわけではないのでかなり苦労をするが、
(……確か馬琴が「北越雪譜」の出版を引き受けるのが一八一八年。この時期は巻末広告を出したり作中に鈴木牧之の名前を出したりして宣伝して、馬琴なりに前向きに動いていた頃のはず)
だがその出版企画はそれ以上先に進まないまま一〇年以上たなざらしとなり、一八三〇年にようやく馬琴が「誰か他の人に頼めばいい」と投げ出してしまうのだ。この企画は何年もかかると馬琴が最初にことわっており、また何かと他のことに忙殺されていた馬琴の事情にも同情すべき面は多々あるものの、それでも一〇年以上ほったらかしだったのは擁護が困難だった。そもそも最初から引き受けるべきではなかったと思うが、さすがにそれは未来知識があるから言えることかもしれない。でもそれがなくとももっと早く見切りをつけることはできただろう。
「やはりうちではなかなか厳しいですね」
というお内の渋い返答に英泉は「そうだろうな」と予想していたように言う。実際、馬琴に頼まれて親しい書肆をあたりはするが最初から色よい返事を期待していなかったのだろう。が、
「待ってください」
今まで黙っていた達郎が口を挟んできた。計算を巡らせる達郎は二人を制止したまま何も言わず、二人は達郎の言葉を待っている。英泉は意外そうに、お内は「また始まった」と言いたげな顔で。
「『北越雪譜』……じゃなくて『越後雪譜』のお話ですが、山青堂での出版を考えていきたいと思います」
兄さん、とお内が抗議しようとするが達郎はそれに取り合わない。またお内のそれも形だけみたいなものだった。これまで何度か同じようなことがあり、結果としては山青堂の経営好転に寄与してきた実績があるからだ(なおこの時点の広告に出ていた書名が「越後雪譜」、紆余曲折を経て本来の歴史で出版されたときの書名が「北越雪譜」である)。
「そうか。それは助かるが……」
と言う英泉に対し、達郎は「ただし」と付け加えた。
「いくつも段取りを踏む必要はありますけど、なるべく早く馬琴翁をこの話から切り離します」
「切り離す?」
「『越後雪譜』の出版から手を引いてもらって、別の方に鈴木屋さんの話をまとめてもらうんです」
達郎の明言に英泉とお内は驚いた顔をした。
「しかしこれは馬琴翁が持ってきた話だぞ」
「曲亭馬琴の名前じゃなきゃ本を出す意味がないでしょう」
達郎はまず英泉に対して説明した。
「その馬琴翁は鈴木屋さんにお願いされて引き受けたことでしょう? 鈴木屋さんからしてみれば馬琴翁でなくとも、他の誰かでもいいわけでしょう、一年でも早く本を出せるのなら」
「しかし」
「これが一番大きい理由ですけど――あの人にこんな本を作っている時間があると思いますか?」
英泉は何も言えない。達郎はさらに、
「あの完璧主義者……おそろしく細かいことにこだわって一言一句正確でないと気が済まないあの人が、他人の集めた資料を元に本を書くなんてできると思いますか? 戯作ならまだともかく物の本(古典・教養書などの真っ当な本)ですよ?」
「絶対に先に進みませんね」
と確信をもって断言するのお内である。
「そもそも翁は八犬伝を急かされている。手間ばかりかかるのに売れるかどうか判らない、大して金にならない仕事は後回しにされるか。自分から始めたことならともかく、熱意に負けて引き受けた他人の仕事ならなおさらだ」
「五年経っても十年経っても進まず、このお話が立ち消えになりそうですね」
実際、本来の歴史ではそうなりかけた。「北越雪譜」が日の目を見たのは鈴木牧之の執念と、山東京山の厚意と尽力があってのことである。
「翁にはこの話から手を引いてもらうべきだ、というのは判った。だがどうやって?」
「これから考えます。慎重にやらないと……とりあえずは『山青堂の二代目が非常に乗り気だ』とだけ伝えてもらえれば」
判った、と英泉が頷き、彼が辞去する。その後、達郎はお内に加えて山崎屋平八の初代にも来てもらい、対馬琴の作戦会議を催した。
さて。鈴木牧之と「北越雪譜」についてである。
鈴木牧之は明和七年(一七七〇年)、越後国魚沼郡塩沢の生まれ。生家は越後縮の仲買と質屋を経営する豪商である。一九歳の頃に行商のために江戸に上り、俳人や文芸作家と交流。その中で「江戸人の知らない雪国の日々の生活を本にして知らしめたい」と「北越雪譜」の出版を決意し、彼が具体的に動き出すのは寛政一〇年(一七九八年)。それは山東京伝への「雪国の話が本の材料にならないだろうか」という打診から始まる――だがそれは四十年近くにもわたる苦難苦闘の始まりでもあった。
山東京伝から見てこの企画にはいくつも不安材料があり、また費用負担の面で折り合いが合わずに話は自然消滅。その後、高名な浮世絵師の岡田玉山の協力を得たことで企画が大いに進展するも、彼の死去により頓挫。その後は文人画家の鈴木芙蓉がパートナーとなるも、やはりその死により企画が挫折する。その後にこの出版企画を引き受けたのが馬琴だが、一〇年以上たなざらしにしたあげくに放り出したのは先述の通りである。
そして馬琴の後を引き継いだのが山東京山。山東京伝の弟であり、馬琴とは犬猿の仲で知られた人物だ。彼の尽力により「北越雪譜」はようやく形となり、本となり、天保八年(一八三七年)についに出版されることとなる。
そして肝心の売れ行きだが「たちまち江戸市中の評判となり、どの貸本屋もこの書を置かなければ客足がつかなかったといわれる」と鈴木牧之の評伝には記されている(原文に符点なし)……ただし一次資料が見当たらないためかなりの誇張が入っているものと思われるが、それでも当時の江戸で好評を博し、ベストセラーとなったのは疑いのない事実だった。未来知識で一山当ててボロ儲けを企む――いや、山青堂の経営改善に貢献したいと願う達郎にとっては見逃せない本なのだ。
もちろんそれだけではない。「北越雪譜」の売れ行きは好調だったので第二編が出版され、それ以降の続刊も考えられていた……が、鈴木牧之の死により二編までで終わることとなる。もし達郎が関与することでこの企画を七年ばかり前倒しにできるなら、幻に終わった第三編・第四編だって刊行できるかもしれないのだ。
また、この企画から離れてもらうのは馬琴自身のためでもあった。進められない企画を抱えたまま何年も気に病むよりもこれを手放して自由になるべきだし、これに時間と労力を割いて結局無駄にするよりは最初から八犬伝に注ぎ込んだ方がずっと生産的というものだろう。何より、この「北越雪譜」とのかかわりで馬琴はその名を落とすことになるのだ。
もちろん色々と考慮するべき事情や、馬琴側の言い分はあるだろう。だがそれでも、「誰か他の人間に頼めばいい」と投げ出しておきながら鈴木牧之から送られてきた大量の資料を、再三「返してくれ」と頼まれたにもかかわらず最後まで返さなかったのは、弁護も擁護もしようもないひどい話だった。そのせいで鈴木牧之は再度資料を作成する必要があったのだ。彼は企画が頓挫するたびに改めて資料を作成する羽目になっており京山のときで五回目となるが、それまでの四回はともかくこの五回目は本当は必要なかったはずなのである――馬琴の嫌がらせさえなければ。
馬琴には「あんたそれはあかんやろ」と言いたくなるエピソードが多々あるが、この一件は打線を組んだときに四番ピッチャーとなるのは間違いなかった。さらに馬琴は自分の孫を士分にするため、四谷鉄砲組の御家人株を買うため、金集めのため、書画会を開くが――書画会とは江戸中期以降盛んに開催された書や絵画の展示会のことだが、有名作者が開催するとなるとそのファンが集まり、作者の画やサインが飛ぶように売れる集まりとなる。馬琴は山東京伝らが書画会などで利殖に走るさまを侮蔑し、それが京伝と疎遠となる理由の一つとなるのだが、後に彼自身が金策のためにそれをやっているのである(六番セカンド)。
要するに、晩年の馬琴は金策に汲々としておりついには蔵書のほとんどを売り払うのだが、その中には鈴木牧之の「北越雪譜」資料が含まれていた。馬琴はそれらを「出版された『雪譜』はこれらの資料の百分の一にもならない」と記しているが、おそらくそれは少しでも高く売るための誇張だったのだろう。だが十年以上に渡って鈴木牧之が馬琴へと書き送った資料は、馬琴が売れると見込んだ画図だけで四百枚以上。馬琴の謳い文句を話十分の一とするとしても、「北越雪譜」の第三編第四編はすぐに出版できたかもしれないのだ。この顛末は四番ピッチャーと切り離して五番センターとしてもいいかもしれない。
ともかく、「北越雪譜」と関わりさえしなければクリーンナップの何人かが消える。それは後世における馬琴の名誉を救う……悪評を多少はマシにできるはずだった。
「そのために必要なのは……」
自分の未来知識があればそれができる、と達郎は確信している。鈴木牧之のため、そして曲亭馬琴のため――達郎は一人思案を巡らせていた。
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