第四回




 文政四年一二月一〇日、西暦なら一八二二年の年始。達郎が江戸時代にタイムスリップして五日目。そして山青堂で丁稚としての第一歩を踏み出す一日目である。

 昨晩は三日ぶりのご飯を食べさせてもらい――白米とみそ汁と漬物だけという、質素の極みみたいな食事だったが文句があろうはずもない。物置の片隅を割り当てられてそこで眠って――ああ、屋根と壁のある場所で眠れることがどれだけ幸福なことか!

 そして翌朝、夜明けとともに起こされた達郎は井戸で顔を洗いながら軽く柔軟体操をする。そこにお内やおかみさん――左近さんという名前らしい――その二人もやってきた。左近は四歳くらいの小さな女の子を連れている。


「おはようございます」


「具合はどうですか?」


 左近の問いに「もうすっかり」と力こぶを作って見せる達郎。それは良かったです、と左近も笑顔を見せた。……実際のところは、まだまだ本調子とは言い難い。生命の危機からは脱したが熱や倦怠感は残っている。できればせめてもう一日くらいはゆっくり眠って養生したいのは山々なのだが、丁稚にそんな贅沢が許されるはずがない――と達郎は悲壮な覚悟を(勝手に)決めていた。


「それじゃ、あなたにはうちで奉公をしてもらいます。いいですね」


 お内の確認に達郎が「はい」と頷く。


「しばらくは金吉の下に付いてください。歳はずっと下でも奉公人としては金吉の方が先達です。ちゃんと指示には従うように」


「判りました。それじゃ先輩、よろしくお願いします」


 お内の訓令に素直に従い、達郎は金吉に頭を下げた。金吉は助けを求めるような目をお内へと向けるがお内は素知らぬ顔である。金吉の年齢は数え年なら一七歳、満年齢なら多分一五歳だが、身長が低いので実年齢よりやや幼く見えた。整った容貌の利発そうな少年である。


「ええっと、まずは後架の掃除からです」


 金吉が最初に指示したのは後架――便所掃除だ。箒で掃いて、汚物は浅草紙(チリ紙)で拭って、その後は雑巾での拭き掃除。彼から一通りのやり方を説明してもらって、後は実践あるのみ。それが汲み取り式のボットン便所であることは言うまでもなく、その悪臭に閉口しながらも達郎は真面目に掃除をした。

 トイレ掃除の後は廊下や各部屋の煤払いや雑巾がけである。その日一日の大半は掃除に費やされ、夕方は時間が余ったので書庫の整理を手伝った。

 店先に置いているのは山青堂が所有する本のごく一部に過ぎず、ほとんどは二階の書庫に納められている。お客さんから要望があったときには目当ての本をそこから探して持っていくのだ。金吉は目録を見ながら棚卸をしており、することがない達郎は適当な本を手に取ってぱらぱらと開いてみた。


「……読めねえ」


 漢字は大体読める。どうにも歯が立たないのは仮名の方だった。

 明治政府がひらがな・カタカナを一音一種類に限定するまでは一音に対して何種類もの仮名が使用されていた。これを「変体仮名」と呼んでいる。そして江戸の書籍ではこれらが当たり前に使用されているのだ。

 例えば「け」は漢字の「計」の草書体から生まれたひらがなだが、「計」の他に「遣」「希」「気」等の漢字から生まれた変体仮名が存在する。さらにはその変体仮名の使い方に法則性があるわけでなく、ほとんど気分だけで使い分けられていて、あげくに字体は走り書きみたいな草書なのだ。

 金吉はこの暗号にも等しい文字を苦もなく読んでおり、達郎からすればそれだけで彼は尊敬に値する先輩だった。今の達郎は何歳も年下の金吉の足元にも及ばない、生活能力皆無の役立たずだ。それを改めて、嫌と言うほど思い知らされる。それが判っているからこそ、達郎は金吉の言うことをよく聞いて真面目に仕事をしているのだ。もちろんわだかまりややりきれない思いが、ないわけでは決してない。だがそれを表に出さないだけの分別を達郎は有していた。それに何より――


「? 何かありましたか?」


 達郎のぶしつけな視線をとがめるように金吉が問い、達郎が「いえ、何も」と答える。


「何かすることはないですか」


「……今日のところはもう何も。晩ご飯まで休んでいてください」


「それならここでちょっと本を見ています」


 達郎を書庫に残して金吉が下へと降りる。その彼をお内と左近が捕まえた。三人が店の奥へと移動して、


「どうでしたか? あの浦島太郎さんは」


「仕事ぶりは真面目でしたよ」


 お内の問いに金吉はそう明言した。


「なんか、『こんなことも知らないのか』ってちょっとびっくりすることもありましたけど。一体どんな大店おおだなの御曹司だっんでしょうね」


「確かに育ちの良さは感じます。人も良さそうです」


 と左近が頷く一方、お内は難しい顔をした。戻ってください、と金吉を下がらせてその場は二人だけとなる。


「さすがに一日目で尻尾は出しませんか」


「うちを追い出されたら行くところがないから真面目に働いているだけでしょう? 難しく考えることはないと思うのだけれど」


 二人の間でそんな会話が交わされている事実を、達郎が知る由もない。知る由もないが、「おそらくはそんな話をしているだろう」と想像するのは難しくないのである。結局のところ左近の説明が理由の全てなのだが、お内はつい深読みをしてしまうのだった。


「確かにうちみたいな店に手間暇かけて潜り込む意味はないと思いますけど……」


 悩むお内は頭痛のする額を抑え、左近が心配そうな顔をする。


「顔色が悪いわよ。風邪かしら?」


「そうみたいですね。ちょっと熱が出ています」


「それなら大事にしないと」


 お内は左近の言葉に甘えることとし、夕食後は早々に就寝した。こうして達郎の丁稚一日目は暮れてゆき――異変はその翌日に明らかとなる。






「おはようございます。お内さんは?」


 翌朝、達郎が顔を洗い終える頃になってもお内が井戸端に姿を現さず、ようやくやってきた左近に訊ねる。左近は顔を曇らせて、


「それが、風邪がひどいみたいで動けそうにないんです」


「そうですか、心配ですね」


 と同情しつつも軽く応える。その件について会話が弾むこともなく、その後達郎は昨日と同じように掃除やら水汲みやらの雑用に従事し、勤労の汗を流した。

 そして夕方、仕事を終えた達郎が一休みしているところに左近が姿を見せる。左近は顔色を悪くし、憔悴した様子だった。


「あの、お内さんの容態は」


「それが、熱がひどくなる一方で……薬は飲ませたんですけど」


 それはまるで、親しい人が難病となって明日をも知れぬかのよう――達郎はあまりに迂闊な自分をぶん殴りたい衝動にかられた。「まるで」ではない、まさしくその状態なのだ、今のお内は!


「熱が出たのはいつからですか?」


「昨日の夕方から具合が悪かったみたいです」


 つまりは達郎と出会ってから二四時間以上経過していて……力の限り自分をぶん殴りたい理由が追加される。風邪をうつしたのは達郎だ。しかも、症状の重さと潜伏期間の短さからして、


「ただの風邪じゃない。インフルエンザか?」


 新型コロナウィルスと比較すると雑魚扱いされるインフルエンザだが、それは二一世紀の高度な医療技術があっての話である。一九一八年から翌年にかけて大流行したインフルエンザ、通称「スペイン風邪」は一説には全世界で五億人の罹患者を出し、死者数は四千万とも五千万とも言われている。二〇世紀に入ってすらそんな惨状だったのに、「今」はそれからさらに百年も昔なのだ。


「どうする、どうすればいい」


 達郎は焦った顔の下半分を掌で覆い、舌打ちを連発する。一体どのくらいそうしていたのか。ふと、左近がすがるような目を自分に向けていることに気が付いた。達郎は二一世紀の知識を総ざらいし、成すべきことを早急にまとめる。


「娘さん……右京ちゃんでしたっけ。どこかに預けられますか?」


「はい、多分」


「あの子にインフルエンザ……じゃなくてこの風邪がうつったらひとたまりもありません。知り合いのところに預けてこの家から離してください。長くて二、三日のことです」


 判りました、と頷く左近はすぐに行動を開始した。まず娘の右京は祖父の下へ。山崎屋平八は山青堂を息子に譲って近所の長屋に半隠居として住んでおり、ひとまずの避難先はその祖父方である。


「できれば他の人にも二、三日休んでもらって、この家には最低限の人間しか置かないようにしたいところなんだけど」


 とは言っても彼等はこの店に住み込みで勤めており、店から追い出されたら途方に暮れてしまうだろう。避難先もすぐには用意できず、お内の寝室に近付かないよう強く戒めるのがせいぜいだった。


「次は看病だけど……本当は俺がするのがいいんだけど」


 免疫のできている達郎がそうするのが一番安全なのだが、昨日今日来たばかりの得体のしれない男に女性の看病などが許されるはずもない。看病の主戦力は引き続き左近が担うこととなった。ただし、


「まず、手ぬぐいか何かで口元を覆ってください。お内さんの身体に触って汗が手についたなら、その手は必ず洗ってください。洗わないままその手を口元に持っていくのは絶対にダメです!」


 達郎の強い指示に左近が真剣な顔で頷く。今日一日、左近はお内と重度の濃厚接触状態であり、もう遅きに失した可能性は高い――が、まだ手遅れではないかもしれなかった。


「あとは火鉢を置いて部屋を暖かくして、空気が乾かないようやかんをかけて……そうだ、スポーツ飲料!」


 高熱で汗を流したのなら塩分補給、それに水分と栄養分の補給も重要だ。


「塩と砂糖を出してもらえますか? それとお湯と」


 江戸の町には神田上水を始めとした、飲料用の水道網が敷設されている。水道は地下に埋設されており、下町の井戸はそこから水を供給されているのだ。水道の位置はさして深くはないので竿の先に桶をぶら下げて、それで水を汲むわけだが……ただ、長屋の井戸は大抵ゴミ捨て場や後架の近くに設置されている。上流で何が混入するか、判ったものではないのである。

 このため飲料用の水は必ず沸かす必要があった。お内のように熱で体力を失った者に飲ませるのならなおさらだ。達郎は湯呑にお湯を注ぎ、砂糖と塩を逐次投入して味を調整する。


「よし、こんなもんか」


 記憶にあるスポーツ飲料の味と概ね同じとなったので、まずは左近に少しだけ飲ませて味を覚えてもらう。


「喉が渇いたならこれを飲ませてください。お湯もあまり熱くせず、飲みやすい温度にして」


「判りました」


 喉や鼻に水分が補給されれば繊毛の活動が活発となってさらなるウィルスの侵入を防いでくれる。暖かいお湯を飲めば体温が上がって血行が良くなり、白血球が全身に行き渡るようになる。効果はそれなり程度でもやって何一つ損のない対症療法だ。

 日は完全に沈んで既に夜、とりあえず今の時点でできることはそのくらいだった。夜が明けて店が開くなどすれば他に打てる手もきっと出てくるだろう。

 夜の看病も左近に任せる他なく、達郎はもどかしい思いを抱きながらも就寝する。


「何かあったら起こしてください」


「ありがとうございます。おやすみなさい」


 達郎はお内の無事を天に祈り、早く朝になることを一心に願いながらその一夜を過ごした。なかなか寝入ることができず、ようやく眠れたのは早朝と言うべき時間になってからである。

 そして翌朝。


「おはようございます。お内さんの容態は?」


 挨拶もそこそこの達郎の問いに、左近は暗い顔を俯かせた。


「熱が下がらないんですね」


 その確認に無言で小さく頷く左近。状況に改善は見られないわけだが、極端に悪化しているわけでもない――達郎は一縷の希望を抱いた。


「とりあえず、今から薬を買いに」


「いえ、それは俺が調達してきます」


 達郎の確固とした物言いに左近は目を瞬かせた。


「それじゃ、お願いできますか?」


「任せてください」


 力強く、満腔の自信をもって頷く達郎に左近はようやく微笑みを見せた。


「その代わり、何か栄養のあるものを買ってきてもらえますか? 蜂蜜とか砂糖とか、卵とか」


「そうですね。こんなときだからこそ精をつけてもらわないと」


「あ、卵は生のまま食べさせちゃダメですよ」


 達郎の忠告に左近は「何を言っているんだろう、この人は」と言わんばかりの顔となる。江戸時代の衛生状態で卵が生食できるはずもなく、また事例としてもほぼ皆無だった。

 左近が買い物に行くのと同時に達郎もまた店を出た。ただ、達郎一人では迷子になるだけなので金吉が同行する。


「お金は左近さんから預かっている?」


「はい。でもあまり高い薬は買えませんよ?」


「それで構わない。それじゃ行こうか」


 達郎は金吉とともに江戸の町へと足を踏み出した。


「はー、ほー」


 と興味深げに左右を見回す達郎。その姿はおのぼりさんそのものだ。


「太郎さん、あまりきょろきょろしないでください。恥ずかしいから」


「ああ、ごめん」


 タイムスリップして最初の三日間は雑木林に隠れ潜んでいただけ。その隠れ場所と山青堂までの行き来は高熱だったり駕籠の乗り心地が最悪だったりして景色を楽しむどころではなく、山青堂に拾われてようやく人心地つき、今回が最初の外出である。江戸の景色をゆっくり確かめるのも今回が初めてだ。

 道は思ったよりもずっと広く、行き交う人はそれ以上に多い。人があふれ、町は活気に満ちている。特に目に付くのが天秤棒を肩に担いだ行商人――棒手振ぼてふりだ。

 野菜ではダイコン、カボチャ、小松菜、ゴボウ。魚ではサバ、スズキ、ヒラメなど。一人の棒手振が何種類もの商品を扱うことはなく、概して一人一種類。ダイコンならダイコン、カボチャならカボチャだけを売り歩いている。

 棒手振は少ない元手で比較的簡単に始められる商売だ(株を持つ必要があり、勝手に商売ができるわけではない)。年季奉公の丁稚のように一日中、一年中店に縛り付けられることもないので、たとえば農村から出てきて江戸に流れ込んだ多くの若者がそれに従事したという。達郎も場合によっては棒手振から江戸での生活を始めることになったかもしれない。

 中には唐人風の格好をした飴売り、大きなトウガラシの張子を持ってトウガラシを売り歩く者もいて、通りを眺めているだけで楽しくなる。トウガラシ売りは、あの葛飾北斎も売れない頃にやっていたことがあるという。

 そしてやってきたのは日本橋。江戸の中心地であり、一大商業地だ。人混みはさらに増える一方だったが、ラッシュアワーの新宿も夜の梅田も知っている達郎がそれに戸惑うこともない。むしろ金吉の方が多すぎる人と店に途方に暮れた様子だった。


「安い店ならどこでもいいんだ。目当てのものを早く買ってすぐに戻らないと」


「そ、そうですね」


 達郎に促されて金吉は再起動し、薬屋を探した。そして目に付いた手近な薬屋へと入っていく。


「ええっと、それとそれとそれを」


 陀羅尼助は整腸薬、実母散は産婦用の婦人薬、奇応丸は癪の薬、万金丹は鎮痛剤。どの薬も最小単位で購入したため支払いは抑えに抑えて二百文ほど。それでも一両を二〇万円とするなら一万円の支出である。


「思ったよりも遣ったけど仕方ない。早く帰ろう」


「そんな薬ばかり買ってどうするんですか?」


「どこで何を買ったかはお内さん達には絶対に内緒に!」


 達郎は金吉に厳重に口止めし、金吉はやや不満そうだったがそれに従った。二人が外神田の山青堂へと戻ってきたのは昼前のことである。店に戻ると達郎は台所へと直行。まな板と包丁を借りて作業を開始する。


「乳鉢があればいいんたけどな。ないならないで……」


 購入した薬をまな板の上に並べ、包丁の背で潰していく。丸薬だったそれを念入りに潰して再び粉状にし、さらにそれら複数の薬を混ぜ合わせて、一番上等の薬包紙にきれいに包み直して、


「よし、完成」


 魔法の薬の出来上がりだ。達郎はそれを持ってお内の寝室へと向かった。


「入っても大丈夫ですか?」


 襖の外から声をかけると中から「どうぞ」と左近の返答。達郎は静かにその中へと入った。


「お内さん、具合は……」


 声をかけようとして言葉を失ってしまう。高熱が続くお内は憔悴し、ほんの一日二日で人相が変わったように思われた。このまま熱が続けば、今夜あたりが峠となるかもしれない。あるいはそれを乗り越えられず……


「薬を買ってきました。よく効きますよ」


 嫌な想像を振るい払った達郎が明るく声をかける。左近にお内を起こさせて、用意した薬と白湯を目の前へと突き出した。


「どうぞ」


 笑みを浮かべながらも有無も言わせぬ気迫を示す達郎。それに圧されたのか、抵抗する力もないのか、お内は素直にその薬を飲み干した。それでも、


「うへぇ、にがい、まずい……」


 今一度白湯を飲んで喉に残った薬を洗い流す。何とかそれを飲み干したお内が達郎へと恨めしげな目を向けた。


「何の薬ですか、これ」


「伝手をたどって手に入れたとっておきです。唐人参(朝鮮人参)を煎じたもので」


「唐人参!!」


 お内は熱も忘れた勢いで飛び起きて達郎へと掴みかかり、


「唐人参って言えば一本二〇両もするものでしょう! そんなものをどうやって」


 そのまま力任せに前後へと、がっくんがっくん振り回す。達郎は目を回しそうになりながら、


「いえ、その、左近さんがへそくり全部叩いてくれて」


「あああああぁぁぁぁぁ……」


 絶望の悲鳴を上げたお内が両手を高々と上げて天を仰ぎ、そのまま布団に倒れて、ぴくりとも動かなくなった。


「もしかして息の根を止めた?」


 と達郎は嫌な汗を流した。なお、達郎の話に嘘があると明確に判っている左近だが、ひとまずこの場は口をつぐんでいる。


「二〇両……二〇両……」


 布団に顔を埋めて虚ろに呟いていたお内だが「そうだ」と何かを思いついて身を起こした。そして喉の奥に指を突っ込み、左近が慌ててそれを止める。


「ちょっとお内ちゃん、何を」


「離してください! 今すぐ吐き出せば二〇両だって」


「いやいやいや、待って待って」


 左近と達郎が二人がかりで止め、お内に何とかそれを諦めさせた……かなりの時間が必要だったが。


「飲んだ薬を吐き出したってびた一文にもなりませんから」


「うぐ、それはそうですが……でも二〇両……」


 理屈では理解して諦めはしたが、心が納得するのはまた別の話だ。未だ未練を残すお内に左近が諄々と説いて聞かせる。


「二〇両くらいどうだって言うの? お内ちゃんは二〇両じゃ買えないでしょう?」


「二〇両あればわたしが四人は買えますよ!」


「安いな、おい」


 思わず達郎が突っ込んでしまう。


「……ええっと、二〇両くらいまた頑張って稼げばいいだけでしょう?」


「そうそう。ここで風邪が治らずに死んじゃったら二〇両が丸損ですよ?」


「丸損?! そんなの許せるはずが……!」


 とお内は歯を軋ませた。


「すぐに治します。明日にも治します。早く治して二〇両を取り返さないと!」


「……いやまあ、無理はしないでください。風邪を治すには身体も気持ちも安静にして、ゆっくりするのが一番ですから」


 判っています、とお内が返答して横になり……見る間に寝息を立て始めた。散々大声を出して騒ぎ疲れたのか、それとも「養生して一刻でも早く治す」という一心からか。達郎と左近はお内を起こさないよう静かに寝室の外へと出た。

 そして二人は内庭に移動し、


「ありがとうございます」


 左近が深々と頭を下げて、達郎は慌てて手を振った。


「いや、俺は何もしてませんよ」


「でも唐人参を手に入れてくれたんでしょう?」


 感謝に満ちた左近の瞳に達郎は「いや、あれは……」と気まずそうな顔をする。できれば左近にはネタばらしをしたいところだが、彼女がインフルエンザに罹患して発病したときのことを考えてそれはしなかった。

 ――左近が薬を買おうとしたときに自分が引き受けることでそれを止めたのは、そもそもこの時代の市販薬に即効性やまともな効用なんか期待できないからだ。曲亭馬琴は副業で売薬をしていたが、物書き一家が片手間の内職で作った薬が堂々と市場に流通し、誰もそれを疑問に思わないのである。薬の製造販売をしていた作者は馬琴の他に、山東京伝・山東京山・式亭三馬などがいる。他の市販薬の程度が想像できないだろうか?

 これらの薬に何か効き目があるとするならそれは一つしかない、プラシーボ効果だ。病人に何の効用もないただのビタミン剤を「これはこの病気の特効薬だ」と渡して飲ませたら、それで病気が治る、あるいは症状が改善されることがある。この薬は効くはず、という使用者の思い込みが身体に作用して本当に病気を治してしまうのだ。この場合重要なのは「この薬は効くはず」と使用者に本気で思わせること。例えば世間の評判、いかにも高そうな包装、効用が連なった能書き、名医の手ずからの処方、等々。

 プラシーボ効果に期待するだけなら、結局飲むのは何だっていいのである。だから達郎は複数の薬を混ぜ合わせて苦くてまずい、でも効きそうな薬をでっちあげて、それに「唐人参」というラベルを貼り付けたのだ。それが達郎の知る、この時代で一番高くて効用のありそうな薬だったからだが、お内の反応からして効果はてきめんだったようである。


「……ただ、考えていたのとは大分違ったけど」


 お内の反応は斜め上の予想外だったが、効果の面では想像以上だ。


「あの調子ならきっとすぐに元気になりそうです」


 と左近は顔をほころばせ、達郎も「そうですね」と頷いた。


「三途の川まで行ってしまっても六文銭を惜しんで値切って、船頭に追い返されそうですし」


 その軽口に左近が「やりそうです」ところころと笑った。

 その夜の看病も左近に任せ、達郎は早々に就寝する。前日にまともに眠れなかったこともあり、すぐに寝入って熟睡し、感覚的には一瞬で朝となった。

 いつものように井戸端で顔を洗っていると、そこにお内が左近に付き添われてやってきた。


「お内さん! もう大丈夫なんですか?」


「熱はまだちょっと残っていますけど、いつまでも寝ていられませんから」


 どうやら峠は越したらしいと、達郎は心底安堵する。


「でも無理や油断は禁物です。今日一日はゆっくり寝て、起きるのは完全に治してからにしてください」


 ですが、と抗弁するお内だが左近にも同様のことをこんこんと言われ、顔を洗っただけで結局布団に逆戻りとなった。お内が完全復活するのはその翌日のことである。


「さあ、稼ぎますよ! 二〇両を取り返しますよ!」


 元気になったお内が山青堂の一同を前にして、拳を握って力強く宣言。金吉などは「二〇両?」と首を傾げ、達郎と左近は苦笑した。

 とは言っても、本屋の商売は急に大きな儲け話を手にできるようなものではない。とりあえずは普段通りに手代は来客の応対をし、お内は戯作者の誰かのところに原稿の督促に行き、達郎は今日もまた後架の掃除からだ。


「とりあえずインフルエンザの罹患者がお内さんだけに収まってよかったけど」


 もし他の誰かが罹患し、さらには山青堂の外にもインフルエンザが広まったなら――場合によっては万単位で死者の出るパンデミックとなっただろう。そうならずに済み、達郎は心から一安心している。


「それでも念には念を入れて」


 感染の可能性を減らすために達郎は念入りに雑巾がけした。まる一日かけて家中を拭きに拭いて、日が暮れる頃にようやく終わり、


「ふっ、ひと仕事したぜ」


 と汗を拭って充足感に浸る。そんな達郎にお内が呆れたように、


「そんなに雑巾がけが好きなんですか?」


「はい、愛していると言ってもいいですね」


 ため息をついた彼女が、


「明日からは別のこともしてもらいますが……来てください、お客さんです」


 はい、と達郎がお内とともに表の店側へと向かう。そこで待っていたのは、


「あれ、こんにちは。どうされたんですか?」


 着流しに刀を差した壮年の男、柳亭種彦だ。彼は達郎達に軽く会釈した。


「何、近くに用事があったので足を延ばして立ち寄ったまでだ。知っているかもしれないが伝える話もあったのでね」


「話?」


 とお内。彼女もまだその話は聞いていないようだ。


「ああ。先日知り合いが吉原に遊びに行くというから、伊勢屋の様子や噂を聞いてもらうよう頼んだのだ」


 途端に達郎達の顔が固くなる。時間的にはとっくにバッテリーが切れている頃である。騙されたことを理解したあの番頭がいつまた押しかけてきても不思議はなかった。


「それで、どうだったんですか?」


 その問いに種彦は苦笑しながら首を振った。


「吉原ではたちの悪い風邪が流行っているそうでね。特に伊勢屋では番頭は死んでしまって、遊女も若い衆も大勢寝込んでいるそうだ」


「まあ、お気の毒に」


 口ではそう言いながらも、お内は花が咲いたような満面の笑みだ。


「多分あの番頭は玉手箱を独り占めしようとして、誰にも何も言わなかっただろう」


「当然そうするでしょう。誰だってそうします」


「玉手箱は手品の種が切れて今はただの文鎮。伊勢屋とのこの店との縁も切れている。これでこの件も今度こそ一件落着、というところだな」


 大団円ですね、とお内と柳亭種彦が笑い合う。それで話が終わり、


「伊勢屋の番頭だけじゃなく、大勢が風邪で亡くなっているそうだ。しばらくは吉原に近寄らない方がいいだろう」


「店の者にもそう言いますわ」


 それを別れの挨拶として柳亭種彦は立ち去っていく。お内が店の外でそれを見送り、中へと戻ってきた。


「太郎さん、どうかしましたか?」


 お内はそのときになってようやく達郎の様子がおかしいことに気が付いた。蒼白となった彼は今にも倒れそうな不安定な姿勢のまま、凍り付いたように動きを止めている。お内に肩を揺すられて崩れるようにひざまずき、そのまま彫像のように長い時間微動だにしなかった。お内や左近の心配そうな声も全く耳に入らない。

 ――このとき達郎の頭にあったのは「この先江戸の町はどうなるのか」、ただそれだけだ。そして事態それは彼の予想以上の惨状となった。「吉原風邪」と名付けられたこのインフルエンザは江戸の町から始まり、全国で流行。後世の歴史家の計算ではその総死者数は二〇万人を超えるとされている。






参考文献

善養寺ススム・江戸人文研究会「絵でみる 江戸の町とくらし図鑑」廣済堂出版

善養寺ススム・江戸人文研究会「イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典」廣済堂出版

杉浦日向子「一日江戸人」新潮文庫

堀井憲一郎「江戸の気分」講談社現代新書

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