第二回


 ゼロポイントは田んぼと雑木林に挟まれたあぜ道だった。田んぼには稲の刈られた跡が残っているだけだ。達郎は雑木林に身を隠してゼロポイントの様子をうかがう。タイムスリップしてきたときに周囲の状況はある程度見ていたが夜だったし、そもそも何の目印もないただのあぜ道の真ん中だ。そこが確実にゼロポイントだと断言はできないが、日光街道との距離から「だいたいこの辺」と見当をつけることはできた。

 高熱と頭痛と悪寒と吐き気と空腹と睡眠不足に意識を朦朧とさせながらも、達郎はゼロポイントを見張り続けた。ときどき意識が遠のいていくが、気力だけでそれをつなぎ留める。次の意識を失ったときにもう一度目を覚ますことができるのか、自信が持てなかったからである。

 太陽が完全に姿を現し、時刻はおそらく午前七時過ぎ。江戸時代の言い方なら明け六つ半といったところか。あぜ道を行き来する農民の姿や、街道を歩く旅人の姿が増えている。


「? なんだ?」


 男女二人組が隅田川の方からやってきた。二人ともまだ若く、身なりは良い。男は二十代半ばでそれなりに整った要望。羽織と着流しも小ぎれいであり、商家の若旦那といった風情。女性の方は二十歳前くらいでかなりの美人。服装は普通の町娘風だが、髪は大きく膨らませて結っている。

 男がその女性の手を強引に引いている様子だったが、


「待ってよ!」


 と女性が男の手を振り払い二人は立ち止った。それがちょうど達郎の目の前、ゼロポイントの上だったため、


「邪魔だな、早くよそに行ってくれよ」


 と内心で舌打ちする。が、二人がそれを斟酌するはずもなく、その場で愁嘆場を続けた。


「何してるんだ、見つかってしまう」


「こんなの話が違うじゃない。逃げられるって言うから話に乗ったのに!」


「まだ逃げられる!」


「もう無理よ、帰るわ。無理矢理に連れ出されたって言い訳するから」


 その諍いを聞き、達郎は彼等が吉原の遊女とその馴染客ではないかと推測した。馴染客が遊女に入れ込むも身請けするだけの金がなく、吉原から強引に連れ出して駆け落ちしたがその直後にもめている、といった様子である。


「くそ、こんなはずじゃなかったんだ。なんで船が待っていない!」


 と抱えた頭を掻きむしる若旦那。達郎は「もしかして俺のせい?」と冷や汗を流している。

 若旦那は近隣の漁民か誰かに依頼して船を用意させて、それで遊女と駆け落ちする手筈だったのだろう。だが達郎がこの付近に居座って身を隠していて農民や、あるいは目明かしがそれを探していて、それらの人目があったために密かに船を接岸させることができなくなったのかもしれない。


「もう、今生で夫婦めおとになれないならいっそ来世で」


「冗談じゃないわよ!」


 思いつめた若旦那は無理心中しそうな勢いだ。遊女の手を掴んで元来た方向へと、隅田川の方と強引に引きずっていこうとする。必死に抵抗しようとする遊女に若旦那は懐刀を見せつけて脅した。彼が自死を選ぶのはともかくとして、遊女からしてみればそれはストーカーによる身勝手な殺人だ。目の前で起ころうとしているそれを見過ごしにしていいのか、と達郎は迷うが、その時間はもうなかった。


「!」


 遊女の方を向いた若旦那のすぐ後ろ、その何もない空間が帯電し、いくつもの紫電が発している。「時空の穴」が開こうとしている前兆だ。前回の経験を参考にするとその前兆からタイムスリップまではほとんど間がなかった。達郎は大慌てで雑木林を飛び出して「時空の穴」へと向かう。

 自分としては全力疾走のつもりだが残存体力がゼロに近いこともあり、気ばかりが急いてもどかしいほど前に進まなかった。まるで水の中を走っているかのようだ。遊女はいきなり現れた達郎に驚いて棒立ちとなり、力が抜けたその瞬間を狙うように若旦那が遊女の手を引いて前へと進んだ。だがそこにあるのは「時空の穴」であり――


「待て!!」


 若旦那と遊女が「時空の穴」に呑まれていく。達郎の伸ばした手が遊女の手を掴んだ。残った力の全てを使ってその手を引き、達郎と遊女が地面に倒れる。慌てて達郎が身を起して、


「そ……そんな」


 そこには何もなかった。放電現象は既に収まり、残っているのは鼻を突くオゾン臭だけだ。そして若旦那の姿がない。


「ひ、ひいいっっ!!」


 いや、残っていた。若旦那の腕が――腕だけが。着流しを着たままの、肩の付け根から指先までの右腕がまるごと一本その場に残っている。その手は遊女の腕を掴んだままで、彼女はけたたましい悲鳴を上げてそれを振り払った。


「そ……そんな」


 諦めきれない達郎が目の前の空間を懸命に探った。暗闇の中で手探りで何かを探すように、その空間を手でかき回す。だが何の反応もない。何も起こらない。長い時間それを続け、やがては理解する他なかった。いや、最初から判っていたことだが認められなかった、受け入れられなかっただけなのだ。だがもう認める他ない――元の時代に帰る望みが断たれたのだと。

 不思議隕石は「時空の穴」を開きながらも達郎ではなく若旦那を未来へと送り込んで、それでエネルギーを使い果たしたものと思われた。二〇二一年へと放り出された若旦那は肩――と言うよりは首の右側から先に塞ぎようもないほどの大きな傷を作っており、早々に発見されて最新の医療技術をもって治療を受けられたとしても生き延びられるかどうか……いや、他人のことはこの際どうでもいい。問題はこれからの達郎のことだが、


「がはっ!」


 いきなり誰かから蹴られて達郎はその場に倒れ込んだ。さらに複数の人間が寄ってたかって達郎を足蹴にする。抵抗する体力や気力は欠片もなく、達郎はただ身体を丸めるだけだった。

 大人しくしていたためか、暴力の嵐はすぐに過ぎ去った。意識がとぎれとぎれとなりながらも残った力で首を上げる達郎。眼球だけで周囲を見回すと、そこにいるのは何人かの男達。おそらく遊女を追ってきた妓楼の若い衆だ。その中の責任者、番頭と思しき年かさの男に遊女が何か言い訳をしている。右腕だけの若旦那の哀れな姿に男達も驚き、困惑している様子だった。

 おい、へい、と男達が短いやり取りをし、彼等が達郎の腕をつかんだ。達郎は彼等に引きずられて移動する。途中からは一応自分の足で歩いた。周囲を完全に包囲されており、ベストコンディションでも逃げられるとは思えない。今のこの状態では考えるだけ無駄であり、考える気力すら底を突いている。もうなるようにしかならず、状況に流される他なかった――おそらくろくなことにならないと判ってはいたけれど。


「……判ってはいたけれど、やっぱりこれは辛い」


 今の達郎はトランクス一丁の素っ裸だった。

 男達に引きずられて連れていかれたのは吉原の中の、やはり妓楼の一つだった。


「なんだこりゃ?」


「でも金になるんじゃねえのか?」


 そしてそこの若い衆から文字通り身ぐるみをはがされたのである。財布や眼鏡、コートやシャツやジーンズはもちろん、スニーカーや靴下まで奪われて、残ったのはトランクス一枚。それだけでも残してくれたのは武士の情けなのかもしれなかった……それに感謝するかどうかはともかくとして。

 その後達郎は番頭から尋問を受けた。彼は達郎の身の上には興味がないようで、訊かれたのは遊女と若旦那についてである。


「嫌がる女の人をあの男が無理矢理引きずって逃げようとしていた」


 あの遊女があまり酷い目に遭わないようにと、達郎は若旦那の方に全ての責任を押し付けることにした。若旦那が腕だけとなった経緯については、もうありのままを答えるしかない。簡単には信じられない話だが遊女も同じ話をしたはずであり、何より疑いようのない物証がある。番頭も頭ごなしに嘘扱いにはしなかった。

 それから間もなくしてその番頭は若い衆を引き連れて出発、何故か達郎も連れられている。

 せめて何か着るものをと、懇願した達郎に渡されたのは藁の莚(むしろ)一枚。それを身に巻いた姿はまさに、


「昔の漫画か」


 昭和の頃の、原作の「サザエさん」あたりに登場するホームレスそのままだ。達郎はセルフ突っ込みを入れて自嘲する。あまりに惨めすぎて涙も出てこず、もう笑うしかなかった。

 そこからの一時間半は、達郎にとっては死の縁に立たされた行進だった。体力なんか欠片も残っていないのに足を止めると足蹴にされ、殴られる。何度も足を止めて殴られて、ようやく目的地にたどり着いたときには達郎の精根も生命も尽きる寸前だった。


「ここは……」


 吉原から何キロメートルか南に下がった、町人地のど真ん中。神田川は渡っていないのでおそらくは外神田のどこかなのだろう。その一角に建っている商店に、妓楼の番頭は若い衆を連れて乗り込んだ。九割方意識を失っている達郎はその最後尾だ。


「邪魔するぜ」


「何ですかあなた達は!」


 強気でそう言うのは店番をしていたきれいな女性だ。絵に描いたような江戸の町娘の服装と髪型。年齢は達郎より多少若いくらいと思われ、勝気でしっかり者といった印象である。


「伊勢屋の者だ。あんたのとこの若旦那にはいつも贔屓にしてもらっているよ」


 店番の女性は苦々しい顔で「あの人は……」と吐き捨てた。騒ぎを聞きつけたのか、店の奥から何人かが姿を現す。一人は二十歳過ぎの女性で、おそらくは店番の女性と同じく店主の家族だろう。身長が高く豊満で、おっとりとした印象のきれいな女性である。あとの二人はこの店の手代(店員)だと思われた。

 その店に並ぶのは書籍や錦絵(浮世絵)。眼鏡がないため本の題名までは読めないが硬派の本はなく草双紙や読本の類、娯楽物のラインナップばかりのように思われた。地本問屋、書肆しょし、言い方は色々あるが、この時代の本屋である。


「それで兄さん……ことの当人は?」


 と店番の女性。番頭は後ろの若い衆に「おい」と指示し、そのうちの一人がそれを店内の三和土に投げ出す。それはこの店の若旦那――その右腕だけだ。店の者は悲鳴を上げ、あるいは息を呑んだ。


「……何の真似ですか、これは」


「腕の傷なり、着物なりに見覚えはないかい? あんたのとこの若旦那の成れの果てだよ」


 気丈な店番の女性――若旦那の妹さんが片袖だけの着物を脱がし、二の腕に古傷があることを確認する。おそるおそる近寄ってそれをのぞき込んだもう一人の女性が倒れそうになり、妹さんは慌てて彼女を抱きとめた。


「ねえさん、気をしっかり持ってください」


「……ごめんなさい」


 妹さんが「ねえさん」と呼ばれた女性を介抱する。ただ顔が全然似ていないので姉妹と言っても義理、おそらく若旦那の奥さんなのだろうと思われた――いや、江戸時代の庶民の言い方なら「おかみさん」か。

 しばらくの時間を経てようやく若旦那のおかみさんが落ち着き、話が再開する。


「断っておくが、若旦那をこんな姿にしたのは俺達じゃねえ。おい」


 と番頭が声をかけたのは達郎に対してだ。自分がこの場に連れてこられた理由を達郎はようやく理解した。前に進み出る、莚を巻いたホームレスに妹さん達が胡乱な目を向け、達郎は身を縮めた。

 事実を告げればこの店の人達に迷惑をかけるだろうことは自明だったが、番頭は何人もの若い衆を連れている。今さら嘘を言うこともできず、達郎は先刻番頭にした話をくり返した。事実としては遊女も同意しての駆け落ち未遂だったが、それを今この場で明らかにしたところでこの店の立場がマシになるとも思えず、あの遊女が改めてひどい折檻を受けるだけだろう。

 それでも、話を聞いた妹さんやおかみさんがさらに顔を青ざめさせるのを目の当たりにして達郎の心は痛んだ。軽率で無思慮な若旦那は無残な姿となってその報いを過剰なほどに受けたが、その尻拭いは全て彼女達に押し付けられたのだ。


「雷に撃たれての神隠しなんて――


 妹さんが吐き捨てるように言い、番頭が嘲笑を見せる。聞き捨てならないその一言に達郎が勢いよく顔を上げた。高熱のために曖昧模糊となっていた脳内がいきなり晴れ渡ったかのように、思考が高速回転する。


(「南総里見八犬伝」の刊行開始は文化一一年、西暦なら一八一四年。つまりは「今」はそれ以降。いや、それよりも)


 この店は書肆、若旦那の不始末、妓楼の番頭の目的、最後の切り札のスマートフォン、今後の生活――様々な要素が達郎の脳内で反応し、結合し、結晶となる。役目の終わったホームレスを気にかける者はどこにもおらず、達郎は一人、残ったグリコーゲンの全てを脳へと費やし、必死に計算を続けた。


「何事もなかったとは言え、あんたのとこの若旦那にはいい迷惑をかけられたからなぁ。うちとしては奉行所に届け出てきっちりと始末をつけてもいいんだぜ?」


 番頭のなぶるような物言いに妹さんは唇を噛み締めた。心中は江戸時代には非常に厳しく取り締まりが行われた、犯罪行為だ。さらに江戸時代の刑事責任は本人だけでなくその家族や周囲にも及ぶ。今回のように無理心中を図って自分だけ死んでしまった場合の、その家族への処罰がどの程度なのかは達郎には何とも言えない。だが決して軽いものではないことは容易に想像がついた。


「ま、うちの菊代を昨日のうちに身請けしたことにしておけば駆け落ちだろうと心中だろうと、うちには関わりのない話だ。そのくらいの融通は効かせてやってもいい」


「つまりはそれだけの金を払えと」


「悪い話じゃねえと思うんだがな」


 菊代、というのは若旦那が連れて逃げようとした遊女のことだろう。その身請け料を要求――にかこつけた、要するに恐喝だ。吉原の妓楼と言ってもピンからキリまであるが、その番頭が堂々とこのような恐喝をするこの伊勢屋はキリの方の店だと思われた。

 また、吉原の栄華も今は昔。寛政の改革の影響、競争相手の隆盛等、様々な要因により遊び代が低下し、それにつられて遊女の質が劣化し、その悪循環が止まらない。式亭三馬が日記に「此節吉原は甚だ不景気哉」と記したのは文化八年(一八一一年)。「今」がそれから何年後かは判らないが、この伊勢屋の経営も決して楽ではないのだろう。こんな恐喝に手を染めようとするほどに。


「それで、身請け料は?」


 番頭が「二百両」と二本の指を突き付ける。


「忘八が……!」


 と妹さんが歯軋りをし、番頭はそれをせせら笑った。このような小さな書肆に二百両なんて大金がそう簡単に用意できるはずがない。全財産を叩いてどうにかなるかどうか、だろう。――だが、



 ――ここが生きるか死ぬかの土壇場だ。一言一句に誇張ではなく生命が懸かっている。その場の全員の唖然とした、あるいは軽侮に満ちた視線を一身に受けながらも達郎は悠然と一同の前へと進み出た。素っ裸に莚一枚という惨めの極みのような姿でも、達郎は堂々と胸を張る。


「……何言ってんだ、てめえ」


 と番頭の呆れたような声。吉原の最高級遊女ならその身請け料は優に千両を超える。二百両という額は低ランクのそれだったが、それでもホームレスに出せるはずがなかった。


「てめえが代わりに身請け料を出すってえのか?」


「ええ、そのつもりです」


 番頭は「は」と短く笑った。


「どこにそんな金があるって言うんだ?」


「確かに俺は天下御免の無一文。でも売れば二百両どころか千両にもなるものを隠しています。身請け料の代わりにそれをお渡しします」


 満腔の自信に満ちた達郎の言葉に番頭が不審の目を向ける。それはこの書肆の者達も同様だ。


「それならてめえでそれを売ればいいんじゃねえのか?」


「どこに、誰を相手にですか? 俺はこの町のことは右も左も判りません。頼れる相手がどこにもいません。下手に売ろうとしたところで足元を見られて買い叩かれるだけです」


 番頭が「ふむ」と唸って腕を組む。達郎の言葉を頭から否定しようとはせず、とりあえずは、一応は信じてくれる様子である。疑念を向けたのは、


「でもどうして、何の関わりもないあなたがうちのために」


 この書肆の人間だった。妹さんの問いに達郎はまず「それはもちろん、恩を売るためです」と明言した。


「言ったでしょう? 俺は無一文で頼れる相手も帰るところもない。人別帳に名前すらない。だから恩を売って、この店の厄介になりたいと思って」


「それなら恩を売る相手はうちでもいいんじゃねえのか」


 番頭の言葉に達郎は苦笑するしかなかった。


「いや、そんなの相手は選ぶでしょう。俺が着ていた服は今どうなってます?」


 番頭は「けっ」と鼻を鳴らすが何も言い返しはしなかった。


「夕方までには用意します。この場は一旦お引き取りください」


 達郎が強い意志をこめてそう告げ、無言で思案の様子の番頭と対峙した。そのにらみ合いは思いの他長く続くが、先に引いたのは番頭の方だった。


「……まあいい」


 と彼は肩をすくめる。

「この場は騙されてやる。こいつが逃げたならそのときは改めて二百両を取り立ててやるから用意しておくんだな」


 そう言い残した番頭が若い衆を連れて店から出ていく。その気配が遠のき、充分に遠ざかり、


「……はあ」


 力尽きた達郎がその場に座り込んだ。見ればそれは彼だけではない。妹さんやおかみさん、手代の二人も同様だった。

 気力を遣い果たした達郎は意識を失う寸前だ。三和土の上だろうと構わず、できればこのまま横になって眠ってしまいたいところだがそういうわけにもいかなかった。まだ一仕事残っているのだから。


「あなたは一体……」


 という妹さんの独り言のような問い。達郎のことを、訊くことがありすぎて何から問い質せばいいのか迷っているような様子である。だから達郎の方から、どうしても知りたかったあることを訊ねた。


「あの、一つ訊いてもいいですか」


「え、ええ」


「『今』は何年ですか?」


 開いた口が塞がらない様子の妹さんから、その答えが返ってくるにはかなりの時間が必要だった。

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