第二章1     『海って、なにイロですか?』

 ――2019年4月29日。


「じゃあ、ボクの眼球あげよっか〜?」


 広がる海を背景に、そんな提案をしてきたのは明るい笑顔を宿した少女だった。


 鎖骨まで伸びたサラサラな髪。

 長いまつげに挟まれた大きな瞳。

 左目の目尻の下にある、小さく薄い泣きぼくろ。


 ――しかし、その少女にイロはない。少女も、砂も、海も、イロなんて、無い。


 僕――津島時雨つしましぐれ全色盲ぜんしきもうを患っている。イロが全てモノクロにしか映らない病気だ。


「ナギサの眼球を貰うって言ったって、どうやってだよ」


 その僕の疑問に、少女――山崎凪沙やまざきなぎさは小首を傾げた。


「冗談だよぉ。シグったら本気で信じちゃうんだから〜」


 ナギサはくすくすと笑いながら、僕の肩を叩き始めた。

 ちょっとイライラするな。


「シグは冗談も通じないし、嘘つくのもバレバレだからなぁ」


「うそ? どういうことだ?」


 すると、ナギサは悪巧みするように口角を上げ、


「リンカちゃんのことすきでしょ?」


「いや……」


 ナギサは僕の返答を聞き、腹を抱えて大笑いした。


「はい、う〜そぉ。シグはね、嘘をつくときにね? ほっぺたをね? 人差し指でかくんだよ!」


 意識を右手に移すと、たしかに僕の人差し指は頬をかいていた。

 僕はとっさに手を後ろに隠し、


「……次からは絶対抑える」


「むーりだよっ。だって、まだ嘘つくときの癖あるもんっ」


 ナギサは僕を小馬鹿にするように笑っていたが、その笑みの奥には何か違うものが見えた気がした。

 どこか無理をしているような、虚勢を張っているようなものが蠢いていた。


「7月31日さ、シグとナギの誕生日でしょ? だから、もっかい海来ようよ!」


 ずいぶんと話が変わった気がするが、いつものことだ。


「まあ、いいよ。どうせ祝ってくれる人なんて身内にいないからな」


 僕とナギサには両親がいない。

 どちらの両親も、数年前に事故で他界してしまった。

 僕は高校の寮暮らし。

 ナギサは両親が遺した一軒家でひとり暮らししている。

 

「そういえばナギサ、『ボク』っていう一人称をたまに出すのはやめた方がいいぞ。ただでさえ『ナギ』っていうイタイ一人称なんだから」


「ナギはナギだよ〜?」


 話が噛み合っていないのを理解し、それ以上のアドバイスはやめることにした。


 すると突然、ナギサは二つ折りにされた色紙をバッグから取りだし、それを広げて見せびらかしてきた。


「へへへ〜、いいでしょ〜」


 そこには、何もかいていなかった――と言ったら嘘になってしまう。

 文字は書いていないが、線は描かれていた。

 しかし、絵や文字を表すような線ではなく、まるで二歳児が乱雑に線を描いたような状態で、その沢山の無秩序な線に規則性を見出すことはできそうになかった。


「まだシグにはわからないかもだけど、この線はたっくさんの色で描かれているんだよ!」


「それは……あまりに酷だな」


「シグって赤色がいちばん気になるんだよね?」


「あ、ああ、そうだけど」


 ナギサは僕にカメラを差し出した。


「写真! とってよ!」


「え? まあいいけど」


 ナギサは色紙をもう一度手に取り、海に向かって走っていった。


 波打ち際に到着すると、ナギサはこちらを向いて色紙を広げ、海を背景にして笑顔を浮かべた。

 僕は、ナギサと彼女が持つ長方形の色紙を画角に収めた。


 ナギサは僕からカメラを取り、写真を確認して、


「ふったりがいっくのはすいへいせ〜ん、ナ〜ギとシグレは平行線! いぇい! シグ! ありがとね!」


 と歌ってから感謝を述べた。

 意味がわからないので、僕はそれを無視することにする。


 僕はナギサの左目の下の泣きぼくろに目をやる。


「その泣きぼくろ、精神年齢にあってないんじゃないか。消した方がいいよ」


 するとナギサは、びっくり仰天! というのを全身で表しながら、


「ええぇぇえ!! この泣きぼくろは、ナギのターニングポイントなのに?!」


 と叫んだ。


「それを言うならチャーミングポイント――いや、チャームポイントね」


 と、いちおうツッコんでおく。


 するとナギサは、一歩足を踏み出して海に近づいた。

 そして、後ろで手を組みながら、海ではなく夕陽を見ながら彼女は呟いた。


「やっぱ、シグと色つきの海見たいなぁ」


 期待と不安が入り交じったような、か弱い声音だった。


 僕にだって夕陽は見える。

 ――ただそれが、オレンジイロではないだけだ。


 僕とナギサは同じ夕陽、同じ砂浜、同じ海を見ているが、イロだけは違う。

 それにどこか疎外感を抱いてしまう。


「約束、覚えてる?」


 ナギサの発した声は、全てを包み込むような柔らかい音だった。


「約束?」


「『色の彩られた同じ海を一緒に見る』って約束!」


 ナギサは海から僕に視線を移し、優しく微笑んだ。

 泣きぼくろがいい味を出す、普通のかわいい少女のような笑みだった。


「そんな約束してたな」


「覚えてたんだ! でも、もう何年も前の約束だからねぇ。もっかい約束しよ?」


 ナギサは小指を立てた右手を僕に差し出した。


「指切りか。声には出さないよ?」


「うん! いいよ!」


 僕も右手の小指を立てて、ナギサの小指に絡ませる。


「『一緒に見る』だからね!」


「わかったよ」


 僕は微笑みながらそう言って、ナギサと強く指切りを交わした。

 決して叶うことのない、夕焼けに染まる海のイロを夢見て。


「魔法でもない限り、無理だけどな」


 その自嘲じみた呟きは、大海の中に消えていった。



 ――この時は、まさか次の日に、本当に魔法と出会うことになるなんて思ってもみなかった。


 多分この世でそれを分かっていたのは、『死の神』くらいだろう。

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