第四章6   『花火のヤクソク』

 コクセイ祭を数日後に控えた今日。生徒の心にはそれこそ希望と渇望で満ち溢れていた。

 そんな浮かれた期待を胸に寄せる他のクラスメイトとは違い、僕は自席で静かに読書をしていた。


 読んでいる本は太宰治の人間失格。

 主人公が人を恐れる故に道化を演じ、酒と女に溺れ、瓦解していく人生を歩む本作。これは現代の若者にも通ずるところがある。少数を恐れ、多数派に入ろうとする人間の性。自分が間違っていないことを正当化するために、少数派を忌み者とし、唾棄すべき存在とみなす人間の醜悪さ。それらで埋め尽くされるこの現代社会を生きる人々には、ぜひとも読んでいただきたい作品だ。


「時雨くん、今ちょっといいかな?」


 文字だけの世界に耽っていた僕の意識が、少女の美声で帰還する。

 気づくと、周囲の談笑が大合唱のように耳に入り、ひどく辟易させられた。


「邪魔しちゃったかな?」


「いや、ちょうど第三の手記に入るところだし、いい区切りだった」


「人間失格好きなの!?」


 興奮のあまり大声を荒げるリンカ。周囲の私語は淘汰され、代わりに僕らに視線が集中する。


「あ、うん」


「そうなんだ! どんなところが……じゃなくて。時雨くんにお願いがあるの」


 気を引き締めるようにリンカは咳払いした。


「あのね、コクセイ祭最終日。その日の歌の勝負で――――」  


「え!? 山崎さん? それどうしたの?」


 リンカの言葉を遮る形で、教室の扉付近から女子の大きな声が上がった。悲鳴でも歓喜でもなく、ただただ戸惑いの声。

 僕が扉ら辺に視線を向けると、登校したてのナギサが立っていた。


 ナギサは周囲の視線を浴びている。その理由は、昨日までのナギサと今日のナギサの間に決定的な違いが生まれたからだろう。


「ナギサちゃん、その眼鏡イメチェン?」


 別の女子がナギサに問いかける。ナギサは僕が貸したフチなしの丸眼鏡をかけていたのだ。


「えへへへ。イメチェンというか、心変わりというか、運命共同体というか、なんて言えばいいんだろ〜? シグに貸してもらったの!」


 と同時にナギサはバッグを地面に落とし、とてつもない疾駆をする。到着地点はたぶん僕。


「ん〜、えい!」


 ナギサは僕の背後から抱きつき、アナコンダのように締め上げてくる。苦しい。


「なんで僕は朝っぱらから絞首刑をされなきゃいけないんだ」


「なぬ!? クラス二位の美少女のハグでも動揺しないのか!」


「その話し方やめて。気持ち悪いから。あと女子の大半を敵に回したな。これは陰湿ないじめにあうやつだ」


 僕とナギサのやり取りを遠目で鑑賞しているクラスメイトたちは、ドン引きか苦笑いのどちらかを浮かべている。最悪だ。帰りたい。


「――ちょっ! リン! リンカッ!!」


 またもや静寂に包まれた教室内に、焦燥に駆り立てられた大声が鳴り響く。声の出し手はクラスの委員長――モモコだ。


 ふと周りを見渡すと、リンカの姿が見当たらない。

 モモコは般若のような身の毛がよだつ睥睨を僕に喰らわせてから、飛び出るように教室から出ていった。


「いったい……なんなんだ……」


「シグ」


 いつの間にか僕の首を開放していたナギサは、どこか不安げな口調で僕の肩を優しく叩いた。

 僕は返事の代わりに顔をナギサに向ける。


 昏さと優しさ、そして慈愛を眼球に宿すナギサは、ゆっくりと唇を開き、


「シグ、行ってあげて。ね?」


 少し躊躇するも、ナギサの言葉に瞬きで応じ、立ち上がって教室から出た。


 朝のホームルームのために教室に向かってきた担任に軽く会釈して走り出す。背後から当惑を込めた大声が聞こえてくるが、無視して僕は屋上へと向かう。


 屋上への階段を駆け上がると、鉄扉の前にモモコが立っていた。

 モモコは僕を発見すると、堪忍袋の尾が切れたように口を開こうとしたが、今それをするのは野暮と判断したのか、唇を噛み込んで堪えた。


 モモコは鉄扉の方に親指を向け、僕に行けという合図を送る。そのままモモコは階段を下り、僕の横を通り過ぎると同時に、「後で殺す」と言い残し立ち去っていった。


 少したじろぎながらも、僕が屋上の扉を開けると、夏の日差しが全身を焦がすように炙った。


 鉄柵に寄りかかりながら体を丸め込む少女――リンカはアスファルトの上に腰掛けていた。

 僕はリンカのところまで歩き、同じく隣に座り込む。


「そんなところにいたら、日焼けするよ」


「……ごめん……ね」


 ひどく掠れて不格好な声をリンカは絞り出した。


「委員長とは、何か話した?」


「……どうしたの、とは聞かれたよ。あと、授業に遅れちゃうとも言われた」


「たしかに、授業に遅れちゃうね。戻らないの?」


「う、うん。私は……戻らないかな。時雨くんこそ遅れちゃうよ?」


「そうだね」と言い、僕は立ち上がる。


 俯いて顔を上げないリンカを見下ろして、


「じゃあ、行こっか」と続けて言った。


 リンカは顔を半分だけ見せながら、僕を見上げる。


「……いや、私……教室には……」


「サボっちゃおっか、授業」


 リンカが言い終えるよりも早く、僕は言葉を紡ぐ。意味がわからないのか、リンカは首を傾げながらキョトンとしている。

 そんなリンカの腕を掴み、彼女を立ち上がらせた。


「抜け出しちゃおうか」


 僕は微笑んで、リンカの腕を優しく引っ張る。まるで花壇に咲く花を扱うくらい丁重に。

 リンカも最初は渋っていたものの、すぐに受け入れてくれた。


 僕らは階段をかけ下りて校舎を後にし、炎天下の中、最寄りの駅まで走って行った。



※※※※※



「――こんな遠くまで……」


 心もとない憂わしい表情を浮かべながら、リンカがそう呟いた。不安に染められた表情ですら麗しいと思わせる彼女の容姿は、一種の芸術的な造形美を感じさせる。


 そしてなにより、リンカの背景として存在する荘厳な自然が、彼女の美貌をよりいっそう際立てていた。

 ほんとに絵になるな。まあ、モノクロの絵だが。


「海まで来てしまったからね」


 陽に照らされた海は、黙々と波を打つ。作業のように、義務であるように、事務的にさざ波を立てる。

 それを傍観する僕らは、ひどくちっぽけで矮小なものに思える。


 僕とリンカは波打ち際から少し離れたところに腰を下ろし、果てしなく広がる海を眺めた。

 この海に来るのは、二ヶ月ぶりくらいだろうか。


「学校、大丈夫かな……?」


「まあ、大丈夫ではないだろうね。早退じゃなくて、脱走だし」


 その言い回しが面白かったのか、リンカは両手で口を隠しながら可愛らしく笑った。


「だね。明日はお説教かもね」


「それは嫌だな。怒られないように明日も抜け出す?」


「バカ」とリンカは満面の笑みで言った。


 海の上に浮かぶ空を鳥は泳ぎ、空の下に沈む海で波が跳ねる。


 時の流れさえも水平線の奥で色褪せ、海に同調するように潮風が吹き寄せる。

 雲の動きが僕たちに時間という概念を教え、そんな講釈を垂れる雲を僕たちは無視する。


 軽い毛綿のような沈黙に埋もれる僕ら。それに時とイロを与えるように、リンカが僕の肩に頭を乗せた。

 心臓の鼓動の音は、海の鳴き声に呑み込まれ、僕に安寧を与える。


「なんか、昔に戻ったみたい」


 僕の肩に頭を預けるリンカは小さな声で呟いた。


「そうなのかな?」


「うん。すごーく、懐かしい」


 穏やかな口調で、穏やかな回想に耽るリンカ。彼女は安らかに瞠目している。


「僕って昔、どんな感じだった?」


「え……?」


「ああ、そんなに深い意味はないんだけどさ。ほら、自分のことってあんまりわからないじゃん? 灯台下暗しというか」


 なにに焦ったのか、必死の弁解を繰り出す僕。一種の条件反射のようなもので、気づいたときには喉から言葉が出ていた。

 リンカは瞑った目を開き、僕から海へと視線を変える。


「そう……だね。優しい男の子だったよ。今も優しいけどね」


 優しい……か。それは買い被りすぎだ。僕は、ちっぽけで、矮小で、脆弱なんだから。


「その……さ」とリンカが目をあちこちにやりながら言った。


「どうしたの?」


「逆に、私は昔どんな感じ……だった?」


 リンカが砂を握りしめる。絞られた砂たちはリンカの指の隙間から溢れ出した。


「そう……だな」


 僕は深い回想に入り、熟慮する。

 僕の思い描くリンカは、真面目で、優しくて、人付き合いが上手で、男女問わず大人気な女の子だ。接しやすい高嶺の花と言うべきだろうか。だから、時折見せる覚束ない雰囲気は、僕にとってイメージとは異なるものだった。


「明るくて、人付き合いが上手で、優しい女の子、かな」


 あけすけに客観的な評価を述べた僕を、リンカはまじまじと見つめる。瞳の奥を覗くように、彼女はその美しい双眸を投げかけた。


 数秒、視線が交錯した後、リンカは再び海に視線を戻した。


「たいひ」

「たいひ?」


 リンカが口に出した単語を僕は復唱する。

 リンカは喉を鳴らし、「ううん。なんでもない」と言いながら首を横に振った。

 続けてリンカは、


「こんな時間が、続けばいいのに……」と嘆息した。


 その言葉は、僕の心を醜く抉った。ドロドロと赤く溶けた鉄で、胸の奥がかき混ぜられるような錯覚を覚える。ぐちゃぐちゃになった僕の心。それは見るも無惨な形骸となる。


『こんな時間が続けばいい』


 そんな些細な願いすら、きっと叶うことはない。

 恣意的な思考で死神と契約を交わしてしまった僕は、そんな些細な願いすら、享受してはいけない。


 順当に事が進めば、きっと僕は7月13日——コクセイ祭最終日に眼球を失う。ささげるのではない、失うのだ。


 一度、何の罪もないナギサから眼球を取り上げた報いを、僕は受けなければならない。


 ――そして、僕という存在は色褪せる。


 でも、それでも、この何の変哲もない日常を、少しだけ、少しだけでいいから、過ごさせて欲しい。きっと、これが僕にとって、最期に眺める海だろうから。


「あのさ、もし歌の勝負でナギサちゃんに勝てたら、一緒に花火見てくれないかな?」


 リンカが海に語りかけるように、僕に語りかける。


「それは――」


 ナギサと同時刻の約束を交わしてしまっている。僕はナギサが勝とうが負けようが、ナギサのところに出向くつもりだった。でも、


「屋上、モモがどうにかするって言ってくれたの。だから、勝ったら屋上に来て欲しいな」


 リンカは照れくさそうに顔を伏せながら、小声で呟いた。


「実は僕……ナギサからもリンカと同じこと言われたんだ」


 リンカの顔にプカプカと浮かぶ羞恥は淘汰される。代わりに浮かんだ表情はあっけらかんとしたものだった。目と口をぼんやりと開いている。


「……その、歌の勝負で勝ったら、一緒に花火を見るってこと……?」


「そうだね。そういうこと。場所は屋上ではないけど」


「そっか……」


 露骨にリンカは憂慮に呑み込まれた顔をした。


「でも、正直、この勝負はリンカが勝つと思う。お世辞抜きで」


「……そうかな? ありがと……」


「そして、この勝負がどっちに転がろうが、僕はナギサのところに行くつもりなんだ」


 リンカの顔は悲哀に占領される。そんな顔をしないで欲しい。とっさに、僕は言葉足らずの説明に補足をした。


「もちろんリンカが勝ったら、リンカのところに先に行く。でも、勝っても負けても、ナギサのところに足を運ぶことは、もう決まってる」


 リンカの顔に光がさされたような気がした。でも、肝心な部分の不安は拭えていないのだろう。だから僕は続ける。


「これは色恋沙汰とかではないんだ。ただ単に、ケジメをつけなくちゃいけない」


「けじめ?」


「そう、ケジメ。でも、万が一ナギサが勝って、ナギサと先に会ってしまったら、きっとリンカとは会えないと思う」


 リンカはツバを飲む仕草を見せる。そんな行為ですら可愛く美しくできてしまうのは、もはや反則だろう。


「だけど、僕はリンカとも会いたい。だから……」


 リンカは言葉を待っている。僕の口から発せられる音を、今か今かと待ちわびている。


「だから、リンカに勝って欲しい」


 彼女の顔が喜びと嬉しさで埋め尽くされた。でもそれを悟られないように、必死に表情を堪えている。可愛い。


「ナギサには悪いけど。でも、ナギサが嫌いとかではないんだ。なんというか……少し身勝手なんだけどさ。二兎を追おうとしてるというか……」


「わかってるよ? 時雨くんは凪沙ちゃんを傷つけるようなこと言わないもん。たとえ凪沙ちゃんがいなくても、ね」


 美少女に相応しい愛嬌だらけの笑顔。夕焼けに染められるリンカの笑顔を見てみたかったが、それは行き過ぎた願いだ。


「要するに、私が勝てば、時雨くんは私と凪沙ちゃんに会えるってことでしょ? ちょっぴり妬けちゃうけど、了解したよ。私も時雨くんに会いたいし、伝えなきゃいけないこともあるからね。わかりました。私は本気を出して、凪沙ちゃんに勝ちにいくね」


「ああ、助かる。それと……悪いな……」


「全然。気にしないで? 私――」


 リンカは一旦言葉を区切り、僕の片手を持ち上げる。持ち上げた手を優しく両手で包み込み、


「絶対勝って見せるから」


 自身に満ち溢れたその表情。決意を固めたその瞳。

 強くたくましく美しい少女。そして、今もどこかで気遣いの作り笑いを浮かべているであろう少女。

 そんな素晴らしい二人の女性に挟まれる僕は、おかしいくらい恵まれていて、笑けてしまうくらい愚かなんだろう。


「快然、勧然、毅然、怡然。いと美しき愛の、純愛の協奏曲なのでしょうか。わたくしは感服いたしました」


 名も知らぬ、声も聞き覚えのない少女の美しい声。感嘆に溺れ、涙を含んだ泣き声。

 自然の恵みのような、『天使』のような音色が、どこからか聞こえたような気がした。  


 ――そして、僕たちの運命を決める学校祭が始まった。

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