第四章5 『ハナビの約束』
僕がナギサの家を訪れてからまた二週間ほど経った。
コクセイ祭まで一週間もなく、各クラスは模倣演習などを行っている。
二年六組の調理実習では、ナギサとリンカが上手いこと皆を先導していた。
隠れた料理スキルを披露したナギサはいちやく人気者になった。これで歌も上手くことが運べば、ナギサは全校から脚光を浴びることになるだろう。
――そんなことを考えながら、屋上の鉄柵に腕をかけ、夕焼けに染められた街並みを一望する。
相変わらず『夕焼け』なんてわからないが、おそらく僕がそれを知ることはない。
決意を固め、見捨てるように鉄柵から離れる。そのまま屋上のアスファルトに腰を下ろした。
空を見上げ、雲を見つめ、夕陽に手を伸ばす。まるで悲劇の主人公のような被害者面をする自分に思いっきりの嘆息を浴びせてから、伸ばした手を引っ込める。
雲は柔らかく散りばめられていて、真綿のような繊細さと緻密さを併せ持っていた。
信号の規則的な音や、車の不規則的な機械音が屋上まで届いてくる。
そんな静寂な空間を切り裂くように、乾いた金属音が屋上に響く。
それは屋上の鉄扉を開けたときに鳴る、怪獣の赤ちゃんが上げるような甲高い音。
「シグ」
「……ナギサか」
鎖骨まで伸ばした髪を靡かせながら、泣きぼくろを艶やかに見せつける少女。
ナギサは気まずそうに小さな声で僕の名前を呼んだ。
「ちょっと、いいかな……?」
「……ああ」
以前ナギサの家を訪問するまではシカトを突き通し、嫌われる努力をしていた。
だが、あの日浮かべたナギサの悲痛な泣き笑い。自分の失明より僕の眼球を優先したナギサの優しさ。
それを目の当たりにしてから、僕はナギサを無視することができなくなった。
本当に中途半端な男だ。
「あのさ、シグ――」
「それ、どうしたんだ」
わざとではないが、ナギサの言葉を遮ってしまった。
ナギサは目を丸くし、僕が指をさす方に視線を変えた。少女の綺麗な細い指に、絆創膏が巻かれていたのだ。
「あ、これはね……えっと、その……」
「目が悪くて、料理のとき切ったのか?」
絆創膏を片手で押さえながら、ナギサは視線を泳がす。そして、観念したようにコクコクと首を縦に振った。
「そうか。じゃあ…………これ」
僕はポケットからフチ無しの丸眼鏡を出し、ナギサに差し出した。
「え、これは……」
「僕は大丈夫だ。度はあんまり合ってないかもしれないけど、気休め程度にはなると思う。だから、使えよ」
ナギサは両手を出したり引っ込めたりして、眼鏡を受け取るのを渋っている。
「いい、の……?」
「ああ」
「だって……だってシグは……」
ナギサは目をキョロキョロさせてから、僕の瞳をまっすぐに射抜いた。
「……ナギのことなんて、嫌いになっちゃったんじゃ、ないの……?」
上目遣いに涙を浮かべるナギサ。僕は思わず目をそらす。そうせざるを得ない。
「……別に嫌いになんて、なってないよ。ただこの間は、機嫌が悪かっただけだ」
ナギサの瞳が願望から希望に彩られていった。彼女は「しぐぅ!!」と言って、僕に抱きついてくる。
ナギサは僕から眼鏡を受け取り、それをかけた。
「どう? 似合う? 似合っちゃう!?」
「……しらね」
「シグのいけず!」
僕は抱きつくナギサを無理やり離し、
「で、本題は?」
「その……さ、コクセイ祭最終日の花火のことなんだけど……」
コクセイ祭の最終日の午後七時から花火が上がる。大きな花火だ。
と言っても高校主催のものではなく、花火大会と日程が被っているだけだ。それを利用した学校行事の番外編のようなもの。
通常は午後七時完全下校のところが、この日だけは午後八時完全下校となる。
「もし、リンカちゃんに歌の勝負で勝てたら、一緒に花火を見て欲しいの!!」
大きな声が、屋上に轟いた。僕はその気迫に押されながらも、頭の裏を掻きながら、
「いや……そのさ、ちょっと……」
「ナギの……ナギの最後のわがままです。迷惑ばかりかけてきたナギですが、これで最後にします。ダメ……ですか?」
心の底からの懇願。胸に隠してきた本懐。それらの全てがナギサから溢れ出したように見えた。
地中から湧き出る泉のように、最期の願いを僕にぶつける。
「どこで……」
「花火の時間、屋上は立入禁止だから、美術準備室なんてどうかな……じゃなくて、どうですか?」
らしくもなく敬語を使うナギサ。その精一杯の願いを、頼みを、僕は断らなければならない。
心を鬼にしてでも断らなければ、ナギサは失明してしまうのだから。
「…………僕は――」
僕ができる返答は一つだけ。だから、
「……負けたら、絶対に行かない」
「……いいの?」
「勘違いするなよ? 負けたからって情けをかけることはない。だから、一票でリンカに負けたとしても、僕が美術準備室に足を踏み入れることはない」
息を荒げ、声も荒げ、でも心だけは生ぬるいほどに甘ったるい僕は、この上なくちょろくて、この上なく卑怯者なのだろう。
――僕は、そんな僕が大嫌いだ。
ナギサのためを思うなら、ここで断らなければならなかった。ナギサに優しくしたいなら、ここでナギサを足蹴にしなければならなかった。
ナギサのためという欺瞞で、弱くもなれない自分が、僕は大嫌いだ。
「いいよ全然。絶対勝って見せるから」
あどけなく、頼りなく、お騒がせな少女。その少女が見違えるほどたくましくなっている。
ナギサ自身、僕の目が届かないところで様々な葛藤や苦難を乗り越え、成長していたのかもしれない。僕は今、ひな鳥が巣立つところを目撃しているのだろう。一番成長していなかったのは他でもない僕だった。でも、これなら心配無用だ。これなら、
――安心して、失明できる。
リンカに歌の勝負で勝とうが負けようが、ナギサが折れることはきっとない。僕がいなくても、仲のいい友人や人柄のいい恋人と幸せな時間を共有し、幸福な人生を歩んでいくことが、きっと今のナギサにならできる。だから、
――僕に眼球はいらない。
僕はこの瞬間、ナギサが勝負に勝とうが負けようが、美術準備室に出向くことを決めた。
たとえナギサを嗚咽させ、慟哭させ、彼女から果てしない憎悪を向けられようとも。
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