第四章4 『契約解消の保険』
『そんなの求めてない』
「――っ!!」
酷い鈍痛を頭に感じながら、僕はゆっくりと目を開けた。
今のは、夢……だろうか?
視界はやはり冥かった。どうしようもない冥い世界が僕を待ち望んでいた。
でも、これは僕の渇望する世界ではなかった。
たぶん仰向けになっているからだろう。部屋の天井がよく見える。目だけを動かして色々なところに目をやると、ローテーブルや棚も目に入る。
これでひとつの結論が出た。
「ど、どうして……」
思わず声が漏れる。
それも当然だ。
ナギサに眼球を潰させるために、僕はナギサを傷つけることを平気で言った。三週間もの間シカトを突き通し、話しても最低限の会話のみ。そうしてまで叶えようとした望みが、全くもって達成されていない。
睡眠薬の影響を受けた歪な視界と朦朧とした意識が回復してくる。そこで初めて、自分が馬乗りになられていることに気づく。
馬乗りになっているのは少女だった。
僕の胸に顔を埋めて、僕の手を両方ともしっかりと握っている少女。
「ナギサ……」
少女――ナギサは僕の声に反応して、僕の胸から顔を離す。
ナギサは泣きながら笑っていた。
目頭と目尻から線のように涙が流れている。僕は息を呑むことしかできない。
「しぐ……しぐ……」
ナギサは僕の両手から手を離して、僕の胸に添えてくる。そのまま心臓の鼓動を確かめるように再び僕の胸に顔を当てた。
僕は解放された両手でナギサを抱きしめようとするが、そんな資格は僕にはない。
僕は、このナギサの優しさを受け止め、拒絶することしかできない。
※※※※※
泣きながら眠ったナギサをベッドに横にならせてから、僕は家を出た。
時刻は午後六時を過ぎていて、雲が空を覆っていた。
「――失敗しちゃったね、シグレくん」
背後から悪意が、邪気が、声を出した。
玉を転がすような美声とは相反した悪辣さ。そんな矛盾を具現できるのは、僕の知る限りでは一人しかいない。
「死神……」
血の気が引くような恐怖。その甘く美しい声音に込められた『無』の音色。それは人間とは根本的に異なる狂気を帯びている。
「そんなに怯えないで。ほんとにすぐ終わるから。顔も向けなくていい。このまま話を終わらせよう」
「……用件は?」
「そーだね。ナギサちゃんを救う最終手段について」
死神は背後から抱きつき、耳元で声を奏でる。己の額から流れる冷や汗を色濃く感じ、僕は呼吸すら忘れていた。
「最終、手段……?」
「イエス。それはね、もしナギサちゃんがキミの眼球を潰せなかったとき、使用できるものとする」
死神は続ける。
「ナギサちゃんを失明ではなく、全色盲で済ませてあげる。でも、その代わり――」
死神は手袋に覆われた手で僕の顎を撫で、さらに顔を耳に近づけながら、
「ナギサちゃんから、この件と、色と、シグレくんとの思い出、その全ての記憶を消す」
「は……?」
「記憶を消す。そして作り変える。だが、記憶喪失とは違うよ。これは『死』だ。肉体的には死ななくても、『ナギサ』という一人の人格を消すことになる。ナギサちゃんにとってのシグレくんってさ、彼女という存在を形作る大きな要因だよね。その記憶を消すんだ。それは映画の数十分をデリートしたようなものさ。つまり、別物になるということ」
下衆だ。人が時間と共に積み重ねてきた記憶を、思い出を、赤の他人が削除するという卑劣な行為。
――だが、それでナギサの失明が食い止められるなら……。
「7月13日――コクセイ祭最終日までに眼球を潰させることができなかったら、頼っていいよ」
「それはどういうこ――」
「なぁ、ボクが喋ってるだろ? 期限をその日にするってこと。その日までに実行できなかったら、ナギサちゃんは失明エンドということで。あと、本命の方も面白くなってきたしね」
つまりコクセイ祭最終日までに、ナギサに僕の眼球を潰させることができなかったら、ナギサの失明は確定してしまう。そのときの救済処置として、記憶を代価に全色盲で済ませるということ。
背後から抱擁してくる死神の方を向こうとすると、
「――キミが振り返る必要はない。振り返るのはあくまで傍観者――いや、俯瞰者に限る。わかるかい? 物事の順序っていうのは、物語としては大事なものなんだよ。上から読んだら悲劇でも、下から読んだら喜劇、なんてこともざらにある。そして、舞台装置であるキミには、それを選ぶ資格などない」
「なにを言って――」
死神は僕の口を塞いだ。
「キミの疑問はこうだね。本当に記憶を消し、記憶をすり替えることができるのか。でも、それはね――」
死神は僕の耳元ですーっと息を吸い、吐息混じりの声で、
「――いつかわかるときが来るよ、シグレくん」
その響きに反吐が出るような異物感を覚えながら、僕はツバを飲んだ。
「……もし、ナギサが僕の眼球を潰したとき、一つだけ……一つだけ、頼みがある」
「なんだい?」
僕は深く深呼吸。その空気の流れで、僕の畏怖も、嫌悪も、全て決意に変わった。
「――僕という存在を、この世から抹消して欲しい」
「ほう? なるほどなるほど。できる限りなら考えてあげるよ。覚悟は決まったようだね。健闘を祈るよ。さようなら、シグレくん」
僕の体を温かく包み込む、醜悪な感触は消え失せた。それは死神がどこか彼方へと色褪せた証拠でもあった。
――そして、僕は覚悟を決めなければならない。
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