第四章3     『ボクは眼球を潰す。冥い目をした君の』

「……では、ステージ発表部門、並びに屋台部門も大まかな概要は決定しました。これもまた、後日話し合いの場を設けたいと思います。余談かもしれませんが、二年六組のステージ発表は、コクセイ祭最終日の大トリが担当となっております。『花火』の時間までそれほど猶予はありませんので、速やかな準備と後片付けが求められます。心してかかるように」


 委員長――モモコの締めの言葉を皮切りに、二年六組の生徒は放課後を迎えた。


 来月に迫った学校祭の話し合い。そこで決定した事項は大きく分けて二つ。


 一つ目、屋台部門では、クレープ、ドーナツ、タピオカドリンクを販売すること。

 また、それぞれのグループリーダーは、クレープがリンカ。ドーナツがナギサ。タピオカドリンクがフウマ、となるということ。


 二つ目、ステージ発表では、ボーカル二名による歌勝負を行うこと。

 先攻と後攻に分かれ、それぞれ一曲ずつ歌を披露する。勝敗は会場の観客に決めてもらう。

 そして、先攻のボーカルがリンカ。後攻のボーカルがナギサとなった。


「大丈夫、かな……」


 目立ちたがり屋でないナギサがグループリーダーやボーカルに名乗りを上げた理由として、ここ数週間のシグレの態度がある。


 遊園地に出かけてから三週間ほどが経った。

 あれから、ナギサとシグレは会話という会話をしていない。それはナギサから拒絶しているわけではない。シグレからの拒絶だ。


 シグレから一方的に、ナギサは大きな壁で隔てられている。

 何を話しかけても素っ気なく流され、遊びの誘いをしても呆気なく拒否されてしまう。

 挙げ句の果てには、ここ一週間ナギサがどんなに話しかけようと、シグレはそれをあしらうように無視してきた。


 ナギサに怒りなどない。ただ自分の胸をナイフで刺されるような罪悪感。その痛みが日を追うごとに激しくなる。ただ、それだけだ。


 ――あの日、失明を告げてしまったからだろうか。


 ――あの日、変なことを言わなければ。


 そんな後悔と懺悔がナギサの心を蝕み、侵し、侵食する。

 何か話すきっかけが欲しい。いつか弁解の機会が欲しい。

 魂胆とは言い難い、そんな願望で、珍しくナギサは双方に立候補したのだ。


 ナギサが良心の呵責に苛まれていると、隣のシグレが荷物をまとめて教室を出た。急いでナギサも荷物をまとめ、教室を出たシグレを追いかける。


「シグ!」


 ナギサの一声でシグレの足が止まる。しかし、シグレがナギサの方を振り返る気配はない。

 ナギサはその間に息を整える。そして呼吸を落ち着かせてから、シグレの横に並んだ。


「シグ」


「なんだよ」


 冷たい目でナギサを見下ろすシグレ。ナギサは発言を躊躇うが、うじうじしてても何も変わらない。拳に力を入れてから口を開いた。


「シグ。今日、ナギの家……来ない?」


 シグレの顔に感情が宿った。目を見開いて、何かを勘づいたような驚きと覚悟の顔だった。


 彼は少し間を開けてから、「ああ、いいよ」と言い、ナギサから目を逸らし、歩き始めた。


 それから、黒西高校から最寄りの地下鉄に乗り、ナギサの家の最寄り駅に着くまで、シグレとは一言も会話しなかった。


 繁華街からナギサの家のある住宅街へと向かっている最中、ナギサは空を見上げる。

 前に見た空よりも、酷く霞んでいた。雲の模様ははっきりと捉えられず、空に映し出される橙色もどこか淡く、儚い。


 ナギサの視力は○・五を切っている。

 おかげで、標識の文字を読み取ることすら出来ない。だからナギサは空を見る。空に逃げる。


 何の変哲もない住宅街に入り、両脇に並ぶ数多の一軒家を見ながら歩く。シグレは速度を速めることも遅くすることもせず、淡々と機械のようにナギサの自宅に向かう。そうして、ナギサの一軒家の門扉の前に到着した。


「し、シグ! 久しぶりだねぇ〜。えっとどのくらいかな?」


「知らない」


「あははは。そうだよねぇ〜。覚えてないよねぇ〜。ははは」


 ナギサは門扉を開けて、玄関の扉も開ける。


「たっだいまぁ!」


「おじゃまします」


「えっとぉ、二階のナギの部屋行こっか?」


「任せるよ」


 冷たいシグレになんとか作り笑いと高いテンションで誤魔化そうとするナギサ。そんなナギサの努力を粉砕する冷酷なシグレ。これではただの一方通行だ。

 虚しい気持ちを噛み殺しながら、ナギサは必死に取り繕う。


 ナギサとシグレは玄関のすぐ近くにある木製の階段を上り、手前のナギサの部屋に入った。


「帰ってきたぁ!」


 シグレは答えない。


「クッション二つあるから、そこに座ってね〜」


 ナギサの指示通り、シグレはローテーブルの手前に座った。


「あ、あの飲み物とかお菓子とか持ってくるね! どんなのがいい?」


「……別に、なんでもいいよ」


「そ、そっか! わかった! おっけー!」


 冷たい返事しかしないシグレから逃げるように、ナギサは部屋を出て階段を下る。


 冷蔵庫からオレンジジュースを取り、コップに注ぐ。二つのコップと手作りドーナツが乗った皿を鉄の丸盆に乗せて、慎重に自分の部屋まで運んだ。


「おっかえり〜」


 シグレは何もせずただそこに鎮座していた。


「オレンジジュースとクッキーにしましたぁ。美味しいよ? ジュースは百パーセントだし、クッキーもナギの手作りだもん!」


「そうか」


 ナギサはシグレの隣に腰を下ろして、テーブルにコップと皿を並べる。


「シグ……」


「なに」


「おこってる……?」


「どうして」


 シグレはジュースにもクッキーにも手を付けず、ナギサではないどこかを見ている。

 それは部屋のどこかではないだろう。現実とはかけ離れた空虚な何かだ。曖昧な概念のようなもの。


「いや……ごめん、ね。なんでもない」


 シグレはそのまま微動だにせずに、バス停でバスを待つように沈黙の風にその身を隠す。


 ――突然、シグレが口を開いて軽く息を吸った。


「お前、学祭の歌のやつ、なに歌うの」


 シグレが小さく冷徹な声音を発した。

 決して目を合わせることはしてくれない。だが、ここ三週間で初めてシグレが話しかけてくれた。

 それがナギサには何よりも嬉しく、それだけで涙が出そうだった。


「あ、その……えっとね、『カツアイ』とか歌おうかなぁって……」


 ナギサは肩をすくめながら横目でちらちらとシグレを確認する。

 シグレは無機質に窓の外を眺めながら、


「そうか……練習しとけよ。お前がヘマしたら、僕が被害を受けるかもしれない。だからお前のためじゃなくて、僕のために練習しろ」


「そ、そうだね! 練習しないとね! じゃあ、練習も兼ねて今からカラオケにレッツゴー! しちゃ――」


「しない」


「ですよね……」


 最低限の会話はしてくれるようになったが、声と口調と言葉に込められた氷は中々溶けてはくれないようだ。ナギサは正座で両拳を膝に乗っけている。


「ひとりで行けよ。なんでわざわざ僕もついていかなきゃいけないんだ」


「え?」


「変な噂されたら嫌だから。正直もう疲れた。幼馴染だから慈悲で接してたけど、お前は何も成長しないし、僕に頼りっきりだし、うんざりだわ。顔が可愛ければまだ良かったけど……僕の好みではない。お前になんの需要があるんだよ。身の程を知れよ」


 シグレの容赦ない罵詈雑言を浴びたナギサは、必死に涙を堪える。涙が零れないように満面の笑みを懸命に作って、目を閉じる。絶対に涙が零れださないように作り笑いを顔に宿す。


「……しぐ。ごめんね」


 ――震えてしまっただろうか。掠れてしまっただろうか。


 ナギサは嗚咽してしまいそうな体を、歯を食いしばって押さえたつもりだが、努力に結果がついてくるとは限らない。

 笑みとともに謝ったつもりだが、それは声音の震えで無駄になってしまったかもしれない。


 弱く脆い謝罪を聞いたシグレは、ナギサから目を離し、窓の外に目を向けた。


 ナギサはシグレの横顔を潤んだ瞳で凝視する。シグレは昏い顔――いや、冥い顔をしていた。

 黄昏の光すら拒み、外界からの光の全てを自ら遮断してしまうような、寂しく冥い目。


「……お手洗い」


 シグレはため息なのか深呼吸なのかわからない息を吐いてから、その場に立って呟いた。

 そのままナギサには一瞥もくれずに部屋から出ていく。


 シグレが居なくなって緊張が解れたのか、涙の粒がナギサの目尻から数滴流れてきた。それを拭くために、ポケットにあるハンカチを取り出そうとしたとき、


「これは――」


 死神から貰った睡眠薬が入っていた。それは遊園地の日に死神から受け取り、いざというときのためにナギサが常備していたものだ。


 ナギサはそれを両手で掴み、袋の中の白粉に目を凝らす。ナギサの中で良くない考えが浮上し、膨れ上がる。ナギサは白粉の入った袋から、ローテーブルに置いてあるシグレの手付かずのオレンジジュースに目を向けた。


 段々とナギサの呼吸が荒くなる。同時に動悸も爆発するように激しくなり、体温が上昇して、視界が朦朧とする。


 ――シグの……ため……シグの幸せのため……。


『入れなさいよ、その粉を。ほら早く。早く、早く、早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く早く』


「――うるさい!!」


 ナギサは自分の頭を殴って、理性を取り戻す。

 時間はない。シグレはいつ戻ってきてもおかしくはない。やるなら今しかない。でも、やったとして本当にシグレは幸せになれるのだろうか? シグレは大好きなリンカを見ることすら叶わなくなる。それが本当にシグレにとっての幸せなのだろうか?


 ナギサは深い熟慮に呑み込まれる。自分の弱った視力で、念を送るように袋とジュースを交互に見るが、何も答えなど出てこない。

 無慈悲にも時計の針の音は規則的に鳴り続ける。


「はあ……はあ……はあ……」


 運動などしていないのに肺が酸素を求める。全身が力んだせいで体を上手く動かせない。

 袋を開けようとするが、手先が震えて覚束無い。それどころか足も震えて歩くことすらままならない。そのようにナギサは葛藤の渦に巻き込まれていた。


 ――突然、木製の扉の奥からコツン、コツンと階段を上ってくる音がする。


「し、しぐが……」


 シグレが戻ってくる。あと十秒前後でこの部屋に入ってくる。ナギサの危機感が限界を迎え、手足の震えは収まり、勢いよく睡眠薬の袋が開いた。


 階段を登る音が消え、シグレがナギサの部屋に向かってきているのがわかる。


 それに気づいたナギサは、シグレのオレンジジュースが入っているコップまで這って近寄り、中に白粉をぶちまけた。


 袋の中身が全てジュースに入ったのを確認し、袋をテーブルに置いてから、即座に元いた位置に戻る。


 ――同時に、部屋の扉が開いた。

 ナギサは露骨に体をピクリと痙攣させてしまったが、バレないように深呼吸をして抑え込む。

 シグレは何食わぬ顔で先程と同じ絨毯の上に腰を下ろした。


「あ」


 ナギサの声が漏れる。

 その理由はローテーブルの上に置いてある開いた袋の存在に気づいたから。ナギサは緊急事態のため、袋を隠すのを忘れていた。


 ナギサの動悸が荒くなる。呼吸の乱れは自制したが、動悸までは抑えられない。ナギサは正座した膝の上にきっちりと拳を乗せて体を丸める。


 シグレは窓の外を見ながら深呼吸をした。数分前とは違い、それはため息ではなく、たしかに深呼吸だった。


 そしてシグレは窓からコップに視線を移して、力強くコップを掴む。

 砂漠で遭難してしまった旅人のように、一気にオレンジジュースを胃に流し込んだ。


 シグレは空のコップをテーブルに叩きつけるように置いて、口端に残った水滴を自分の袖で拭った。


「し、ぐ……」


 ナギサは思わず声を発してしまう。その声にシグレは微かに反応して、ナギサに目を向ける。


 鋭く厳しい目のように見えた。冷然と目を細めながら、ナギサを未だに拒絶していた。

 でも、その瞳の奥にあるのは優しさだと、ナギサは感じた。


 すると、シグレの目がゆっくりと細くなっていく。それにあわせて体から力が抜けていく。

 シグレは懸命に唇を開けようとしているが、唇から言葉が出てくることはない。

 そのままシグレはピンク色の絨毯の上で仰向けになって眠りに入った。


「し、しぐ……」


 自分でシグレが眠るように仕向けたのにも関わらず、倒れたシグレに手を伸ばすナギサ。


 すぐにその手を引っ込め、じっとシグレを見つめる。シグレは本当に眠っているようだったが、万が一を危惧してナギサはシグレの近くまで足を運んだ。


 ナギサがシグレの胸に手を当てると、たしかに心臓が鼓動を刻んでいた。脈もあるし、呼吸もしている。


 ナギサはほっと胸を撫で下ろし、シグレの寝顔を舐めるように見た。少し癖があるような黒色の髪。長いまつげ。整った鼻口。小さい顔の輪郭。いつもと変わらないシグレだ。


 ――これ以上シグレに辛い思いをして欲しくない。


 ――これ以上シグレに冥い顔をして欲しくない。


 ナギサの衷心からそんな本懐が溢れ出す。


 ナギサは立ち上がり、棚に置いてある裁縫セットに目を向ける。裁縫セットを開いて、十センチ強の長い針を手に取る。


 そして、仰向けになっているシグレの上に馬乗りになった。


「はあ……はあっ……はあ……」


 ナギサは両手で針を持って構える。三度目の荒くなった呼吸にも気づけないほどに、ナギサの精神は切迫感で塗り固められていた。


 逼迫したナギサの魂が悲鳴をあげるように、動悸と呼吸が鳴り響く。


「はあ……はあ……はあ……ああああ……」


 ナギサの涙腺からの涙の供給は止まり、眼球がひどく乾く。じわじわと同心円状に広がるように、熱が眼球の表面に蔓延する。


 文字通り、瞬きもせずにナギサはシグレを見つめる。

 乾いて血に染まったように充血した眼で、今も眠りに耽る美青年の顔を凝視する。


 怯えて痙攣する両手に力を込めて、自分が潰されるわけでもないのに、ナギサは制服のリボンを口に入れて噛み締めた。

 全ての責任と痛みと辛さを転嫁するように、リボンに歯を立てて噛み込む。


「はあ……はあ…………はあ……」


 リボンを通過して漏れ出す荒い息。締め付けられた胸から絞り出される喘ぎ。

 ぶくぶくと海に溺れた草食動物のように体が酸素を望む。

 ナギサは葛藤と煩悶の波に呑み込まれ、自分すら見失い、正気をも失う。


 室内で発せられる音は、掛け時計の秒針が動く音のみ。

 カチ……カチ……カチ……とたしかに時間だけを刻んでいく秒針。


 一秒一秒が進み、今現在も世界が動いている中、ナギサとシグレの膠着状態は一向に進む気配を見せない。時間から切り離された寂寥かつ孤立した部屋。


 ナギサの額から冷や汗が溢れ出し、やがてリボンに汗が垂れる。


「はあ……はあ……はあ……。――っ!!」


 荒い呼吸を沈める。

 心臓の鼓動を制する。

 眼球に潤いをもたらす。


 そして、両手で握っている長針をゆっくりとシグレの眼球に近づけた。


 ナギサは左手でシグレの右目のまぶたを開く。シグレの白目を見て、また荒くなりそうな呼吸と動悸を鎮圧し、リボンを不躾に噛み締めた。


「――――――――」


 ゆっくりと右手で握った長い針を、シグレの眼球に近づける。

 ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり……。


 針先とシグレの眼球の距離が数ミリになる。あと一歩を踏み出せば、シグレから光は失われ、同時にシグレは幸せを享受する。だからナギサの使命はひとつしかなくて、それはナギサにとっても自明の理だ。

 だから――、


『や――ろ』


 ナギサの脳内に声が鳴り響く。魔女の囁く声だ。


「はあ……はあ……はあ……」


『や――ろ』


 ――やらなきゃ……。


 ナギサは首を絞められるような錯覚を覚える。両手で気道を圧迫するように絞められる感触。


『や――ろや――ろや――ろ』


 ――やらなきゃ。


 ナギサは自分の首を絞める両手を強引に引き剥がす。


『や――、ろ。――めろ。や――』


 魔女の——否、ナギサの囁く嘆き声が聞こえる。でもそれは自分だ。本当はシグレの眼球を潰したくない自分の願い、甘えだ。


 ――そんなの…………ダメだ。


 ――やるしか、ないの。


「――ッ!!」


 ナギサは右手の針を振りかざした。

 懸想する彼の幸せを願って。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る