第四章2     『二人目の契約者』

 ぽつぽつ。ポツポツ。ざーざー。ザーザー。

 黒雲に支配された青き空は、為す術なく雨に席巻される。


 空の涙が、人を、家を、地表を濡らす。皆が雨を嫌うなか、少女は、少女だけは雨を望んでいた。雨に彩られた世界。そこに虹はない。


 天を仰ぐように空を見上げ、降りそそる雨粒を一身に受ける少女――ナギサは、泣けない。

 まるで川に落ちてしまったかのように、ナギサは全身が濡れていた。


 遊園地からの帰路にて、にわか雨と遭遇したナギサは、濡れることを望んだ。


 理由はわからない。ただなんとなく、そうしたいと思ったからだ。雨なら、空の涙なら、心に染み付いた砂利を洗い流してくれると、そう考えたからだ。


 失明を告げたときのシグレの顔、それは昏かった。たぶんナギサよりもシグレは動揺したのだろう。きっと、失明を告げたことで、シグレは傷ついたんだ。


 それがナギサは辛かった。自分が失明することなんかより、何倍も。何十倍も。


 顔中にこぼれ落ちた雨粒が、毛虫のように肌を這い、やがて顎に集結する。雨粒に頬を濡らされても、ナギサは泣かない。泣けない。


 ――泣けたら、いいのにな。


「風邪ひいちゃうよ?」


 ラジオのノイズのような豪雨の音。そんな雑音のすべてを無下にするような美声。


「……あなた……は」


「ボクは死神だよ、ナギサちゃん。ボクと契約してくれないかい?」


 全身が雪のように白い男。髪の毛先だけが青く、幻想的な絶景が擬人化したような容姿。


 なのに、黒い瞳は場違いと言わざるを得ないくらい平凡だった。瞳の綺麗さや大きさではない。綺麗さと大きさは他の追随を許さないほどに圧倒的である。


 ――ナギサが着目したのは、平凡な瞳の色合いだ。


 傘もさしていないのに、彼は濡れていなかった。たぶん泣くことすらできないのだろう。


「契約してくれたら、キミの失明を食い止めてあげよう」


 ――雨は、止まない。


 ナギサは訝しむような視線を送った。目線に胡乱げな感情を精一杯込めて。


「どういう……」


「簡単さ、二つ条件を満たせば、キミは失明しなくなる。ついでに失った視力も回復する」


 ――雨は、止まない。


 死神は薄笑いを顔に貼り付けている。きっとこの人は、笑顔を知らない。ナギサのように。


「ま、そりゃ信用してくれないよね。じゃあ、こう」


 死神はナギサに近づき、額に人差し指を突きつけた。


 ――雨が、いない。


 ナギサの視界が瞬時に暗闇に包まれた。体の感覚はある。雨の音もある。でも、何も見えない。まるで真っ暗な独房に閉じ込められたような、孤独。


 必死に瞬きをするも、視界に張り付いた黒が無くなることはない。一筋の光さえ途絶え、ナギサは焦燥した。

 二度と光を目にすることはできないのだと、切迫した。


「あ……あ、た……たすけ――」


「たすけるよ」


 何かに包まれる感触。それはとても優しく、とても冷たかった。雨なんかよりもよっぽど。


 気づくと、ナギサの視界は白だった。死神に抱かれていたのだ。


「これが失明だよ、ナギサちゃん」


 ナギサの手が、体が、小刻みに震えていた。体温の低下による不随意運動ではない。暗闇に対する畏怖。失明に対する恐怖だ。


 ナギサは失明を受け入れるつもりだった。写真家の夢、シグレとの約束。それらを果たすことは叶わない。だが、それが自分の運命だと、甘んじて受け入れようとしていた。


 ――だけど、もう、無理だ……。


「失明って、怖いよね。だけど、それを食い止める方法があるんだ。聞く?」


 考えるよりも先に、ナギサは首を縦に激しく振っていた。死神の両腕をぎっしりと握り、懇願する。

 こんなにも胡乱な男を、ナギサは頼ってしまった。


「いいよ。一つ目。キミがシグレくんの眼球を潰すこと」


 ――雨が、止まない。


 依然として、死神は歪んだ笑みを口元に宿している。


「二つ目、これを誰にも口外しないこと」


 死神はたしかにシグレと言った。シグレの眼球を潰す? そんなことナギサにできるはずがない。選択の余地などない。


「なにを……言っているの……?」


 眉根を寄せ、ありえないという眼差しを送るナギサ。

 死神はあっけらかんとした表情で笑う。


「キミ自身の手で、シグレくんの眼球を潰すんだ。そうしたら、キミの失明をボクが止めてあげるよ」


 ナギサの脳内に金属のように鋭く反響する音が鳴り響いた。

 内側から抉り出されるような、引きずり込まれるような感覚。思わずナギサは頭を抑える。


「その痛みはきっと、自己意識の齟齬だね。四年前、両親を事故で亡くした頃、キミの心は不安定になってしまった。ポッカリと大きな穴が心に空いてしまったんだ。元気で、天然で、お転婆な『ナギサちゃん』を演じるのは、それを悟られないための自己防衛。でも、そうやって振舞っているうちに、なにがなんだかわからなくなっちゃったのかな? 自分という存在――アイデンティティそのものを喪失。結果、自分とは相反する考えや意見を述べる声が鳴り響くようになった。まるで本当の自分という悪魔――いや、魔女が囁くように」


 ビートを打つように、頭が痛む。まるで脳みそに心臓が入ってしまったような異物感。

 その心臓は、たしかに生きている。蠢いている。


「ああ、ごめんね。ボクって人の記憶を覗き見ることができるからさ。いじることもできるけど。てかキミさ、失明してもシグレくんがいる、とか考えてる?」


 ナギサの心の奥底に隠してきたパンドラボックス。それをいとも簡単に開いてしまう死神。

 彼はナギサに気を遣うわけもなく、言う。


「キミはさ、イケメンで人付き合いもそれなりに上手なシグレくんの慈悲でなんとか生活できてるわけだよね? でも、シグレくんは凛奏ちゃんが好きでしょ? 失明したキミにシグレくんが相手してくれると思う? 彼がいなくなって、光もなくなったら、キミに何が残るの? 夢を失い、幼馴染とその約束を失う。なんともまあ、空虚だね。そんなんで生きていける?」


『生きていけるわけないでしょ、お前は空っぽだもの』


 死神の指摘のせいか、頭痛が声に変わった。それは女性の声で、ひどく冷淡で、ひどく静謐で、ひどく飢えていた。その声はナギサがよく知る人物。それは他でもないナギサだ。


 ナギサは何も言えない。何か反応しようとしても、それが論理的なものになることはないだろうから。

 そうやって反駁しているうちに、きっとボロが出てしまうだろうから。


「視点を倒錯してみよう。キミが暗闇で生きていく覚悟ができても、シグレくんがキミを見捨てると思う? たぶん、キミが失明したら、凛奏ちゃんを無下にしてでもキミを助けるよね。そうなると必然的にシグレくんの恋は成就しなくなるんだ。『キミのせいで』。そうして弱ったシグレくんを頼ることはできそ?」


 ――雨は、病んでいた。


 でき、ない。そんなことナギサには絶対にできない。

 ナギサが願うのはただ一つ。

 ここまで自分を支えてくれて、ずっと一緒にいてくれたシグレの幸せ。ただそれだけ。それをナギサが奪いたくなんてない。むしろ与えたい。


「で……でき、ない……」


「だよね? じゃあさ、キミがシグレくんの眼球を潰したらどうなる? たしかにイロを見る夢も叶わないし、光を失っちゃう。でも、キミが月下氷人となってシグレくんと凛奏ちゃんをくっつけることに成功したらどうかな? それって結構幸せなことじゃない?」


『彼の幸せだけを考えなさい』


 ドロドロとした暗闇の中から足を掴まれる感覚をナギサは覚えた。

 ぬかるんだ沼のような暗闇。それは海のように波を立て、一部が人の腕になる。それがナギサを引きずり込もうとするような錯覚。


 その影響もあり、ナギサは良くない方に思考を展開してしまう。死神の言葉は、詐欺師の使う欺瞞と詭弁だ。

 ――なのに、ナギサは納得してしまう。


 だって、きっとそうだから。


 シグレはナギサを絶対に見捨てない。

 だから、死神の予想通りの未来が待っているだろう。


 ――このままナギサが失明したら。


「欺瞞とか詭弁とかいいから、ちゃんと頭で考えよ? キミのすべきことはなに? キミの使命はなに? キミの本懐はなに? きっとシグレくんの幸せだよね。じゃあさ――」


 死神はナギサの顎を片手で持ち上げ、


「僕と契約しなきゃ、ダメだろ?」


 と囁いた。

 

「シグの……シグの、ため……?」


「そう、キミのためじゃない。キミが愛するシグレくんのためだ。シグレくんのためにキミはシグレくんの眼球を潰さなきゃイケナイ。それは全てシグレくんのためだ。シグレくんの幸せのため」


 ナギサは息を呑んだ。息に溺れるくらい、強く、激しく、醜く、飲む。


 ――シグの……ため。シグの……幸せの、ため。


 頭の中で、何度も何度も何度も、死神の言葉を反芻する。


「ナギサちゃん、できるかい? シグレくんのためにシグレくんの眼球を潰すことを」


 ――全てはシグのため。シグが昏い顔じゃない、明るい顔で笑えるように。


 揺れるナギサの心も一つの結論を出そうとしていた。死神に言いくるめられているはずなのに、そんな不信感や危機感は微塵もない。


「で……で、でき……でき、ます……」


「よく言った。偉いよナギサちゃん。これ、良かったら使って」


 ナギサの手に死神が何かを握らせた。それに目をやると、白い粉が入っている袋だった。病院で処方される粉薬にも見える。


「それ、即効性の睡眠薬。数秒で眠っちゃうよ。害はない、保証する」


 死神はナギサの頭を再び抱き寄せて、深い抱擁を強いてくる。


「こんなにいい女の子なのに、可哀想に。一緒にシグレくんを幸せにしてあげようね、ナギサちゃん」


 死神はナギサの頭を撫でると、一瞬で消え失せた。まるで紙が燃えて煙になってしまうように、瞬きのうちにいなくなっていた。


 あたりを見渡すと、なぜか一軒家の門扉の前に立っていた。これは、ナギサの家だ。


 ――雨は、止んでいた。

 


 ――こうして、眼球を潰させたい男と、眼球を潰したくない女の、残酷なジレンマが始まった。

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