第四章1     『契約解消の条件』

 ――酷使された肺は悲痛な悲鳴をあげる。

 僕にもう走るなと、足を止めろと肺は主張するが、僕は止まらない。走って、走って、走って、走り続ける。

 無我夢中でとにかく走った。


 ――あの公園を目指して。


 ナギサの未知の病が発覚したのは、昨日、眼科で会ったときらしい。


 ナギサ自身が眼の違和感に気づいたのが、ゴールデンウィーク明け付近。


 僕の混乱した思考回路が導き出した結論は一つしかなく、それを確かめるために一周したゴンドラから飛び出した。


 やがて黒西公園に着いた。

 もう夕陽も沈もうとしている。一ヶ月前に来て以来、一回たりとも立ち寄らなかった公園の土を踏みしめる。


 そこで肺の嘆きに気づいて、僕はその場に跪いた。

 呼吸の中に血が混じり、舌先が不快な鉄の味を感知する。


 そして前触れもなくポツポツと雨が降り出した。

 雨は指数関数的に勢いを強め、断罪するように僕を打つ。


 僕の体はシャワーを浴びたあとのようにビシャビシャになり、服も髪も心も重くなる。


「どこだ……どこに、どこにいるんだよ……死神――ッ!!」


 僕は孤独なにわか雨に打たれながら、声にならない叫びを上げる。


 何度も濡れたアスファルトを叩き、拳からは血が出ていた。零れた血は雨に浸され、イロの見えない僕にとっては区別できなくなる。

 僕は地面に頭を打ち付けて唇を噛み締めた。


「ど……こだよ……頼む……出てきてくれ……」


「そんなに大声で呼ばなくてもいいのに」


 前方から声が聞こえた。忘れたくても忘れることのできない声だ。

 大雨の音を全て帳消しにしてしまうくらいに透き通った声。そして、大雨が泣き出すくらいに歪んだ声。


 僕が見上げると、そこには死神がいた。死神は傘もささずに前と同じ格好で立っている。

 死神の体は全く濡れておらず、びしょびしょな僕の方が間違っていると言いたげな顔をしていた。


「お……まえ」


「モテるイケメンは辛いよね。男の子からもモテちゃうんだもんね」


「お前……代償は……生贄は誰にした!?」


 死神は目を点にしたあと、不敵に笑いながら膝を曲げて屈んだ。


「気づいた? ははは。ナギサちゃんだよ?」


 死神の満面の笑み。それが僕の堪忍袋の緒を切った。


「――ッ! おまえ――――ッ!!」


 僕は殴りかかるが、伸ばした腕は瞬時に掴まれた。宙を舞う粉雪を手に取るみたいに容易く。


「暴力はよくないよ? ね!? ていうかなんで怒ってんの? ウケるんですけど〜」


「なんで……なんでナギサなんだよ――ッ!!」


 僕は大声を死神にぶつける。死神は耳を塞いでから何食わぬ顔で自分の顎を触った。


「なるほどなるほど。キミはナギサちゃんが生贄になったことに腹を立てているのか。んー、ボク言わなかった? この世界の誰かだって」


「だからと言って、なんでナギ――」と言いかけたところで、死神は僕の口に人差し指を添えてきた。


 そして「あはははは」と邪気を宿して笑った。


 死神は僕に顔を近づけ、じっと僕の瞳を見つめる。睥睨するわけでもなく、実験中のハムスターを観るような目で僕を観察する。

 こいつからしたら、僕は人間ですらないのだ。


「キミさ、心のどこかではわかってたんじゃないの? そんな都合のいい話はないって。でもキミは聞かなかったよね? その生贄は僕の関係者ですか? って。それはなんでかな? 聞けばよかったじゃん? 聞いていたらナギサちゃんはあんなことにならずに済んだんだよ? でもキミは聞かないことを選んだ。口と耳を自ら閉ざしたんだ。それってさ――」


 死神は僕の両頬を片手で掴む。


「聞きたくなかっただけじゃないの?」


「ちが……」


「逃げただけでしょ? 自分の都合のいいところだけ切り取って、自分の都合のいいように勝手に解釈して、そして自分の都合のいいようにボクに憤怒を向ける。キミ、それがどれだけ傲慢なことなのかわかる?」


 正論だ。言い返す言葉など何も無い。僕は逃げた。聞くことを逃げた。口に出すことを避けた。日に日におかしくなるナギサから目を背けた。僕は逃げてばかりだった。それでも――、


「なんで、ナギサなんだよ……なんでなんでなんでなんでなんで!! お前はなんでそんなことを!? なんでだよ!? あんなに心が不安定な子をいじめて楽しいのか!?」

 

「――嫉妬されるのは、強者の権利」


 死神は冷静に言う。


「――嫉妬をするのは、弱者の権利」

 

 死神は口を閉ざさない。僕は口をひらけない。


「ボクはね、弱者の権利を奪うことはしないよ? だって弱者の権利なんて、ピーピー泣き喚いて強者を妬み、僻み、嫉妬することくらいしかないじゃん? だから好きなだけ僕を妬んで、僻んで、嫉妬すればいい。でもさ――」


 死神はさらに僕に顔を近づけた。


「――責任転嫁するなよ、雑魚」


 死神に対する恐怖。そんなものなかった。

 ただただ自分が愚かで哀れで救いようがないことに気づいてしまった。

 自分は弱い。弱者だ。弱者が願いを叶えようと強者に縋った結果がこれだ。

 だから僕にできることは一つしかない。


「お願いします……どうか、ナギサから視力を……光を奪わないでください……あいつからこれ以上、なにも……なにも奪わないでください……。あいつには夢があるんです……」


 土下座。綺麗に両手を地面に揃え、額を地面に擦りつけ、相手に懇願する行為。


 死神は僕のそれを見下ろして、


「夢って、どんな夢?」


「写真家……。色んな風景を撮りたいって……」


「写真家になりたいんだー。それならボクの心も痛む。あんな可愛い子を痛めつけたくはないよ。ボクはサディストじゃないからね。可愛い女の子は笑って幸せになるのが義務であり権利だと思うんだよね。ナギサちゃんは可愛いもんね。だから………………いいよ」


 僕はゆっくりと顔を上げる。


「ほんと……ですか?」


「うーそぉおお!」


 死神はゲラゲラと爆笑しながら腹を抱えた。


「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」


 その時に痛感した。こいつはあくまで死神で、人の心なんて永遠に理解できない化け物――狂人なんだ、と。

 ナギサを犠牲にした僕に言えた義理はないが、人間の上げる笑い声とは根本的に本質が違った。


「その希望に満ちた表情。そして蹴落とされ地獄に舞い戻ったような絶望した表情。あぁああぁぁあああ美しい。これだから感情というものは素晴らしい。エクセレントだよ。そしてジェラスだ」


 僕は何も言えない。怒りもあるが、それよりこのどうしようもない狂人の取り繕った話し方に嫌悪と厭悪が込み上げる。

 そして死神はわざとらしく首を傾げた。


「まあ、割とガチの嘘抜きで、ナギサちゃんを救ける方法はある」


「なん……ですか」


 死神は不気味で歪な笑みを作った。それは悪魔のような怪物の笑顔だった。


 

「――ナギサちゃんにキミの目を潰させたら、ナギサちゃんだけは救ってあげる」


 

 僕は耳を疑った。こいつは僕の耳を狂わせたのかと。でもそれは違った。


「どう……いうこと」


「ボクが提示する条件は二つ。一つ目、ナギサちゃん自身の手で、キミの眼を失明させる。ああ、キミがナギサちゃんの手を掴んで潰させるのは駄目だよ? ナギサちゃんの意思でキミの眼を潰さないと駄目。ちなみに道具はなに使わせてもいいよ? 綿棒でも、つまようじでも、ナイフでも、手の指でも、なんでも! ナギサちゃんの意思であればなんでもいい」


「は……?」


「二つ目、これを誰にも口外しないこと。ボクとキミの、ひ・み・つ・だよ? ふふ。ナギサちゃんに言うなんてもってのほかだけど、それ以外の人に言うのも駄目。ああ、前回の契約のことは誰に言ってもいいよ〜」


「お前、何言ってるんだ……?」


 理解不能な僕。死神はそんな僕が理解不能そうな様子だ。


「え? ナギサちゃんを救けたいんでしょ? だからその方法を提示してあげただけだよ? ボクが嘘ついたことあった? ああさっきのはほんの冗談だから無しね!」


 と死神は無邪気に笑う。いやその無邪気さこそが邪気の塊だった。子供のように純粋な悪意。それは裁きようのない悪辣。それはまさしく天災だった。


「ナギサが……ナギサが僕の眼を自分の意思で潰すと思うか……?」


「ああ、それは大丈夫。布石はちゃんと打つから」


「ふせき……?」


「うん、確かになんの脈絡もなくナギサちゃんがキミの眼を潰すとは思えない。ナギサちゃんってキミのこと好きそうだしね。ああ違ったか」


「は……?」


「安心して、ボクはこれと全く同じ契約を結ぶから」


「誰と……?」


「もちろんそれは――」



 ――死神が口にしたのは、この世でもっとも口にされてはイケナイ名前だった。

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