学祭一日目1 『幼女と少女と聖女と悪女』

 7月12日、金曜日。ついにその日がやってきた。

 コクセイ祭一日目。


 この高校の学祭は二日間に分けて行われる。午前が教室展示や屋台、午後がステージ発表であり、それは二日とも変わらない。


 ステージ発表に関しては全員参加で、姉妹校である黒東高校の生徒を除いて、原則黒西生のみの鑑賞となる。つまり午後は、教室展示も屋台も開いていない。


 現在は午前十時を回り、教室展示と屋台の終了時刻である午後一時まであと三時間ほどだ。


 僕ら二年六組の屋台は、列のように並ぶ模擬店たちの丁度真ん中あたりだ。向かって右では焼きそばやお好み焼き、左ではかき氷やハンバーガーなどを販売している。


 僕らの提供する食品は、クレープとドーナツ、そしてタピオカドリンクである。むろん、クレープとドーナツに手練れの女子の大半がさかれている。よって残された使えない男子たちは、ただカップにタピオカを詰めてジュースを入れるという幼稚園児でもできる作業に勤しんでいる。まあ、七割以上の男子はサボっているけど。


 僕は女子に咎められ罵られて喜ぶマゾではないので、与えられた仕事はしっかりとこなす。


 そんな単調かつ何のやり甲斐もない作業を終え、僕は休憩していた。

 ふと、隣のクレープグループに目をやると、リンカとモモコが中心となって生クリームやチョコシロップで飾られたクレープを大量生産していた。


 リンカの目は、やる気と気概で溢れていた。勝負は明日のステージ発表の歌だが、模擬店でもナギサに負ける気はないという気骨が見受けられる。


 対してドーナツグループは、ナギサを筆頭に円環型の食べ物を作っている。完成度の高さは、会計場所からずっしりとできた長蛇の列を見れば一目瞭然だ。


 ナギサは一人暮らしということもあり、基本料理は自炊。加えて、菓子作りには小学校低学年から没頭していたため、スイーツに関しては百戦錬磨と言える。


 やはり僕の見立て通り、菓子作りに関してはナギサの方がリンカよりも一枚上手だろう。


 ナギサは僕が貸した眼鏡をかけ、イチゴとうさぎの三角巾を被りながら、せっせと汗を流している。普段、僕以外と話すことのないナギサは、今や様々な人に囲まれ、求められている。


 僕が懸念していたことの一つが、僕がいなくなった後のナギサの立場だ。

 友達もおらず、話しかけてくれる人すらいないナギサを自立させることが僕の役目である。


 だが、この様子を見ている限り、明日のステージ発表が終わった後、ナギサはいちやく時の人となるだろう。

 その後、それを持続させられるかどうかは、ナギサ次第だが。


 僕は近くの段差に腰をかけ、自分で作ったタピオカドリンクを口にする。


 ストローからクロく丸い物体が口蓋に侵入する。人生始めてのタピオカは、想像以上に弾力がありモチモチとしていた。小さい白玉のようなものなのか。


 …………そんなに美味しいか?


 と疑問を眉に宿しながら、チューチューとドリンクを吸い上げる。


「あのぉ」


 タピオカに懐疑的な目を向けていたとき、斜め上から声をかけられた。

 声の主は女性で、制服を見る限り黒東高校の生徒だろう。髪型はボブで、愛嬌のある笑顔を浮かべている。一度見たら長いあいだ忘れないくらい可愛い顔をしていた。


 そして、その隣にはもう一人女性がいた。その子も同じく黒東高校の制服に身を包んでいた。髪を鎖骨まで伸ばし、先端を内巻きにしている。ナギサと似たような髪型。


 何よりも驚くべきなのは、その女性が僕の生涯で最も美しかったこと。たった十七年弱の人生で語るのは早計かもしれないが、現段階では間違いなくそう言える。もちろん、テレビに映る女優さんたちも含めて。(現物を目にしたことはないけど)


「お、お〜い?」


 ボブ髪の子が硬直した僕に苦笑いする。その行為によって僕の意識が体に返ってきた。


「あ、す、すみません……」


「ううん。全然大丈夫〜。だってムギムギ可愛いもん。見惚れちゃうのもわかるよ?」


「ちょ、ちょっとカレン、やめてよ……」


 ボブ髪の子――カレンの茶化しを聞いたミディアム髪の子――ムギムギ? が、困った表情でカレンの裾を引っ張った。


 すると、カレンが微笑みながら僕の隣に腰掛ける。ムギムギ? は一歩も動かず、その場に佇んでいる。


「自己紹介が遅れちゃったね。私は翁カレン。草に恋でカレンだよ? よろしくね!」


「慈照寺ツムギです……えっと、ツムギは紬糸のツムギです。よろしくお願いします……」


「あ、えっと、津島シグレです。時に雨でシグレ。よろしく」


 各々が軽く自己紹介を済ませた後、すかさずカレンが僕の腕を抱きしめた。


「へ〜! シグレくんって言うんだぁ。かっこいい名前だね」


「あ、ありがと……ところで、何か用でも?」


 パーソナルスペースをぶち壊すカレンに困惑こそしたものの、嫌な気分にはならない。それはシンプルに彼女が可愛いからだろう。男という生物が嫌いになりそうだ。男に責任転嫁するのは良くないけど。


「そうなの。私たち黒東生だからさ、あんま校内とかわかんないんだよね。だーかーらっ、かっこいい男の子に案内して貰おうかな、って思ってたの」


「か、カレン……でも、ルカくんそろそろ来ちゃうよ?」


「あと二十分くらいあるしょ? だいじょーぶ。ちゃんと間に合わせるから。私がルーくんとの約束すっぽかすわけないじゃん?」


 不審なくらい乗り気なカレンと、不安そうで乗り気じゃないツムギ。だがカレンの言い分にツムギは気後れしながらも納得はしたようだ。ところで僕の意見はどこにあるんだろう?


 腕時計で時間を確認して、次のシフトまでそれなりに時間があることを把握する。


「二人がいいなら、構わないけど」


「やったぁ! シグレくん優しいね〜」


 僕の腕に再びしがみつき、猫なで声を出してくるカレン。己の可愛さを最大限利用する彼女の一挙一動は、ぶりっ子という一言では片付けられない技術を感じる。魔性だな。


「じゃあ、行こう」


 僕の言葉を合図に、初対面の美女二人との学祭デート? が始まった。


 屋台は一通り回ったとのことなので、校内のクラス展示を巡る。


 初めに入ったお化け屋敷で、カレンはしょうもない小道具に対して大袈裟に怖がったりしていた。売れたいアイドルか、と思わずツッコんでしまいそうなくらい。


 一方ツムギは、未だに意欲的には参加してこない。とても不安そうに、悲しそうに時間を過ごしている。

 一ヶ月半前に行ったお化け屋敷よりも数段格落ちのお化け屋敷を抜け、迷路やギャンブルなど様々なクラス展示を回った。


 カレンは非常に話しやすく、僕の心も少しは晴れたような気がした。もしかしたら神様が、僕を待ち受ける運命を気の毒に思い、気配りしてくれたのかもしれない。そうでもない限り、この二人と学祭を回るという出来事は起こらないだろう。まあ、僕は無宗教なので神様も仏様も信じないが。信じる神がいるとすれば、それは死の神くらいだ。


 十五分程度クラス展示を巡った後、カレンがお手洗いに行ってしまった。

 僕はカレンとの会話は多かったが、ツムギとは一言二言しか話していないため、非常に気まずい。


 しかも場所はお手洗いの近くなので、あたりにいるのは静寂と沈黙のみ。遠くから学祭を楽しむ喧騒が聞こえてくるが、まるで傍観者のような距離感だ。


 気まずさに押しつぶされそうだった僕は、意を決してツムギに話しかけることにする。


「その……カレンはすごいよね。なんというか、人との会話になれてるというか。男子からも人気ありそうだし」


 ツムギは僕に話しかけられたからか、目をキョトンとして黙っている。

 だが、すぐに僕の言葉の意味を理解して、僕から目をそらした。


「そうだよね。すごく明るいし、話し上手。でもね、数ヶ月前までは語頭が毎回吃っちゃったり、人の目を見て話すこともできない子だったんだよ」


 どこか嬉しそうに、どこか悲しそうに、ツムギがカレンの過去を話す。その情報は僕にとって衝撃的と言わざるをえないものだった。リンカがいじめを受けていた過去を告白してきたときに近しいくらい。


「カレンは成長したってことだよね。……ううん。他の人もたくさん成長してる。ルカくんだって、レンくんだって、東峰さんだって。でも……でも、私だけは成長できてない。なにも……なにも変われてない……」


 ここまで悲痛に蝕まれた表情を見るのは、それこそナギサ以来だ。ツムギの瞳や、顔を見るたび、あの時のナギサの泣き笑いがフラッシュバックして胸が締め付けられる。痛くて、辛くて、苦しい。ツムギの感情の機微が僕の心に共鳴して、鈍い疼痛を感じさせる。まるで頑丈なハンマーでヒビの入ったガラスを、ドン……ドン……と叩きつける音のような悲鳴を、僕の心が上げる。

 でも、そのガラスが割れることはない。割れることなんて、許されていない。


「何が……あったの……?」


「…………昨日、一緒に笑い合いながら、話していた人。昨日、何の変哲もない笑顔で、もっとも近くにいてくれた人。昨日、誰よりも自分を大切にしてくれた人。その人が、今日もいるとは限らないんだよ」


 悲しく笑いながら、ツムギが続ける。


「今日、とっても一緒にいたいと想う気持ち。今日、おかしいくらい恋しく感じる心。今日、狂ってしまいそうな胸の痛み。それらが、明日消えてくれることはないんだよ」


 ツムギが僕の眼球を射抜く。忠告するように、啓蒙するように。厳しく。されど、優しく。


「過去は変えられないし、未来はわからない。でも、自分の心を変えられないことだけは、わかっちゃうんだよね」


 すると、校内に流れる曲が変わった。この曲は確か――、


「シャーデンフロイデ」とツムギが言った。


 シャーデンフロイデ。どこかで聞き覚えのある曲、そして言葉だ。たしかドイツ語のはずだが、意味まではわからない。


「シャーデンフロイデって、ドイツ語かな? 意味とかわかる?」


「意味はね――」


「おまたせ〜!!」


 ツムギの開口と同時に、お手洗いから飛び出し僕に抱きついてくるカレン。

 僕とツムギの呆然とした態度に釈然としない様子だ。どうやら妨害目的ではないらしい。妨害と言うほどの話でもなかったが。


 友達と待ち合わせがあるからという理由で、再び屋外の模擬店のところに三人で足を運んだ。

 嫌になるほど多かった人混みも、この数十分で落ち着いたようだ。二年六組の屋台に列ぶ人も今は数人しかいない。それは他のクラスも同様だ。


「ねね、シグレくん。私、ドーナツ大好物なんだよね〜。食べに行こうよー」


 依然として、抱き枕のように僕の片腕にしがみつくカレン。クレープグループのモモコさんから閻魔大王のような眼光を放たれたが、無理にカレンを押し返すことはできない。


 彼女の距離感の詰め方には並々ならぬ技術があり、跳ね除けることがひどく冷淡なことに思えてしまうのだ。


 ラブラブイチャイチャするカップルのような距離感の僕とカレン。そして横で優しく笑うツムギの三人で、ドーナツグループの会計場所に向かう。


 もちろんそこにはナギサもいるし、すぐ近くにはリンカもいる。クラスの半数くらいがたむろしていて、視線を豪雨のように浴びるのは不可避だ。

 視線が痛い……。心が痛い……。


「し、シグ……。お、お連れさん?」


「いや、これは違くて、さっき知り合ったばっかの――」


「彼女でーす」


 僕の必死の自己弁護に割り込み、訳のわからないことを抜かしだすカレン。彼女の声量はとても大きく、滞在するクラスメイト全員に聞かれただろう。勘弁して欲しい。


「いいね、その顔最高。そしてお隣でクレープ作ってる可愛い子も最高。それから……あと何人かいるね。シグレくんってすごいモテるんだね」


 悪女のような歪んだ笑みを宿しながら、カレンがナギサとリンカに指先を向ける。話の矛先を向けられた当人たちも、それ以外の無関係なクラスメイトたちも困惑を隠しきれていない。


 困惑し、硬直したナギサの眼鏡を、柔らかく妖しい手付きでカレンは取った。


「可愛い顔してるじゃん。もったいないよ? 女の武器は、顔と声、そして体。そして愛嬌と行動力、さらに適切な距離感。なんにも使いこなせてないじゃん。よくぶりっ子は嫌われるって勘違いしてる女の子いるけど、それは違うよ。それはブスの嫉妬と、嘆き。ブスはぶりっ子したらダメなのは当たり前じゃん。可愛い子の適度なぶりっ子は、男の子の大好物なんだよ? 何が言いたいかわかる? つまりね——」


 カレンは一旦口を閉じ、僕の腕を開放する。続けて、ナギサの片頬に片手を滑らかに添えた。


「――そんなんだから、負けるんだよ?」


 この場にいる全員は時が止まったように動かない。――否、動けない。皆が皆、美しい悪女の一挙一動に意識と視線を向けている。


 そんな緊迫した状態の中、動けるのは性の悪い女だけ。


「可愛い顔、可愛い声、大きな胸、サラサラな黒髪。チャーミングな泣きぼくろ。それだけ恵まれておきながら、これしきの男一人オトせないだなんて、ほんと笑える。勝てないからって諦めるの? 私は絶対ヤダね。負けたくないし、奪われたくない。自分の物にしたいし、彼の物になりたい。他人を蹴落としてでも、嫌われても、私は絶対に搾取される側には回りたくない。君みたいになりたくない。だから私は負けたくない。というか負けない――」


 カレンはスラスラと流暢に言葉を繰り出す。それから、視線をツムギに変えて、


「ね? ムギムギ」


 ツムギを射抜くカレンの瞳には、決意と宣戦布告が込められていた。女の勝負、そして複雑な関係を目の当たりにした僕の背筋に悪寒が走る。女って怖い。


「じゃ、ドーナツ二つください。あと、タピオカドリンクも二つ。ストローは三本で」


 そのカレンの発言に、一同は驚愕する。もちろん僕とツムギも。


「私とシグレくんで同じドーナツ食べるからさ。タピオカも二本のストローで同じの飲むし」


 ナギサは何か言いたげな顔をしながら、抵抗しようとモジモジしている。でもお客様の要求を無下にするわけにもいかず、渋々準備を始めた。動けず、何も言えない僕はゴミ野郎だな。


「なるほどね。この二人の女の子が可愛すぎて、他の子は勝負の土俵に上がろうともしない、と。負け犬の思考。ブサイクが取れる最後の手段は、もう体を売ることくらいしか――」


「そこまでだよ、カレン」


 不意に空中に轟く美声。男性特有の落ち着きを孕みつつも、限りなく澄み渡った美声。


 カレンの方に目を向けると、カレンの耳元で囁く男? がいた。その男? は中性的な顔立ちをしていて、つけまつげのように長いまつげを持つ。眼窩にはめ込んだ眼球と瞳は、女子のみならず男ですら瞬きを忘れてしまうほど大きく綺麗だ。その美貌に全員が目を奪われ、女子はトキメクことすら忘れ、恍惚としている。幻想的な絶景を眺めるように、心が甘くとろけ、形を失っていく。どろどろと。とろとろと。


「る、ルーくん……」


 勝ち誇り、生意気だったカレンは、乙女のような恥じらいを見せる。おそらく顔を紅潮させているのだろう。


 その反応に、ルーくん(おそらくルカ)は屈託のない晴れやかな笑みを見せ、カレンの頭を撫でる。


「言い過ぎだよ、カレン。ごめんね皆。気を悪くしたなら申し訳ない。悪い子じゃないんだ。大目に見てやって欲しい」


 男性陣は嫉妬すら忘れ、女性陣は恋情すらも湧いてこない。実在しているのかすらも曖昧で、まさしく別次元の存在。


 ルカは女子が固まっている屋台の中を見てから、ナギサに視線を向け、「悪くない」と無感情に呟いた。気づくと、僕の額から冷や汗が流れていた。


「ルーくん。ドーナツ一緒に食べない? タピオカも一緒に飲もうよ。ストローは二人分あるし」


 千載一遇のチャンスと見たのか、カレンが僕からルカへと切り替える。僕は捨て猫のようにいないもの扱いをされた。まあ、別にいいんだけどね……。


「あー……いいよ。カレンがいいなら」とルカは満面の笑みで答え、「じゃあ、ボクたちはこれで」と言い残し、背中を向ける。


 カレンは僕に見向きもせず、ルカにべったりだ。ツムギが僕の胸中を心配したのか、軽く会釈してからルカたちの元へと向かった。


 数メートル離れたところで、カレンが一度こちらを振り返った。が、何か禍々しく恐ろしいものでも見るかのように怯えた表情を浮かべてから、すぐさま前を向いた。


 結構心にくるな……。


 一難去ったことにより、僕の体が鉛のように重くなった。

 そのまま最初にカレンに声をかけられた段差に腰を下ろす。


 精神的な疲労が困憊し、帰宅して昼寝に耽りたいところだ。

 午後のステージ発表は絶対に寝ると確信する。


「レ〜グ」


 背後からにこやかな声が聞こえると共に、後ろから抱きしめられる。

 この段差には、災難が立て続けにやってくる呪いにでもかかっているのだろうか。なら今すぐにでも、霊媒師か呪術師に祓ってもらった方がいい。

 頼むから休ませてくれ……。


「ナギサ……どうしたよ……」


「デートしようぜっ!」


 活気と陽気に溢れた元気な声。よくもまあ、そこまで元気でいられるものだ。

 一種の才能と言っても過言ではない。

 いや、過言だな。


「やだ。寝たい。疲れた」


「え〜、あの可愛い女の子とはデートするのに、ボクとはしてくれないんだぁ〜。へぇ〜」


 やかましい、と言い放つ気力すら残っていない。このままダル絡みをされるのも面倒なので、仕方なく付き合うことにする。


 ナギサを見ると、眼鏡をかけていなかった。カレンに外されたっきりなのだろうか。


「てか、わかったぞ、規則性」


「なんのぉ?」とナギサは小首を傾げながら問う。


「シグとレグの規則性」


 ナギサはまだ首を傾げたままだったが、眉を上げ「おっ?」と言った。


「普段がシグ。甘えるときがレグだな」


 その言葉にナギサは無邪気に笑い、「へへへ、バレちゃったか〜」と呟く。


「レグはどっちが良い? シグとレグ」


「いや、シグレがいいよ、恥ずかしいし」


 ナギサは不満げに唇を尖らせ、目を細めた。


「ダメだよそれは〜。他の人と同じになっちゃうじゃん〜」


「ナギサはナギサだろ、アホか」


 ナギサは尖らせていた唇を引っ込め、照れくさそうに笑う。


「やだなぁ、恥ずかしいよ。そういうのはオウチでしないと。ご飯にする? お風呂にする? それとも――」


「離婚にする」


「結婚もしてないのに!?」


 身振り手振りで驚きを表現しながら、ナギサが声を荒げる。慎みを覚えて欲しい。


「津島くん! 仕事! もうシフトの時間きてるよ!」


 まただ。一難去ってまた一難。そして一難。次はどんな地獄が待っているのだろう。


 後方からモモコが怒気まみれの怒号を飛ばしている。カレンとは違うベクトルで恐ろしい。


 それを見たナギサが眉をしかめた。こんな表情もするんだな、と感心していると、


「ほーら、行かないと怒られちゃうぞ?」と何の変哲もないように、ナギサが僕に促した。


「お、おう……」


 その後、一時までぶっ通しで延々とタピオカを詰めさせられた。一日でそのへんのJKよりもタピオカを熟知した気がする。

 この世で最もいらない情報だが……。


 なんやかんやでステージ発表の時刻になり、劇や漫才などを鑑賞する。だが、眠気には勝てず、椅子に座ったまま睡眠に耽溺し、結局起きたときにはステージ発表は終わっていた。


 その後、クラス別に集合し、片付けと反省会をした。男子は解散となったが、女子は明日の作戦会議があるとのことだ。


 僕はなんとなしに寮へと向かう。

 明日が来る。避けたくても避けられない明日が。

 最後の二日間くらい楽しんでも、誰にも咎められないだろう。だから、この最期の学祭を、僕は羽目を外して思う存分楽しむ。


 眼球を失う――いや、シグレという存在が消える、その瞬間まで。

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