第三章3 『お泊まり会』
「帰ってきたぁ!」
「はじめてだけどね……」
ナギサが脱ぎ捨てた靴を揃えてから僕も部屋に入る。ナギサは荷物を置いて室内を走り回った。
数時間前までのしおらしさはどこへ行ったのやら……。
「勘弁してくれ。追い出されたらどうするんだ」
ナギサは普通の部屋ではしゃぎまわっている。
まるで旅先の旅館に足を踏み入れた小学生のように。
そう、小学生だ。
「けっこー広いんだね!」
「たしかに。ありがたいことにね」
僕は壁にかけられた時計を一瞥して、
「ナギサ、何食べたい? 今日くらいは奢ってやってもいいけど」
「にししし。シグは目が悪いのかな? このレジ袋が目に入らぬか!」
「ああ、目が悪いよ。おまけにイロも見えない。ついでにナギサも見えなくなればいいのに」
僕の嫌味には全く耳を貸さず、ナギサはジャンプしてベッドに飛び込んだ。
ベッドはぎしぎしと音を立て、瓦解しそうな雰囲気を醸し出す。そして、ナギサはベッドから飛び起きる。
――――なにがしたいんだこいつは。
「そのレジ袋には食材がたくさん入ってるんだよ!」
嫌な予感が頭の中で渦を巻いて湧き上がった。
「おい、お前まさか……」
「にししし。今日はナギがクッキングします!」
とてもじゃないがナギサに料理の才能があるとは思えなかった。僕はきっとムラサキ色の液体がふつふつと煮えたぎる料理を食べさせられるのだろう。ムラサキなんてわからないけど。
僕はナギサを連れてきたことを後悔した。
――僕はナギサを連れてきたことを後悔したことを後悔した。
「は……うま……」
ナギサの出した料理は、サーモンと玉ねぎのカルパッチョ、ビーフシチュー、シーザーサラダだった。どれも絶品だった。
舌の上で踊るようにマッチするソースとカルパッチョ。牛肉も見た目からは考えられない柔らかさを持ち、歯が疼くほどに食欲がそそられる。
「料理なんてできたんだ」
「将来の夢は料理屋さんですから!」
「写真家どこいったよ……」
「ていうかシグ、メガネかけてるんだね!」
「家ではな。あんまり度数合ってないんだけどね」
そしてペロリとナギサの手料理を平らげ、満腹になった僕は身動きを取れずにいた。ナギサは食器を洗ったりなど後片付けを済ませてくれたみたいで僕は頭が上がらない。
時計を見ると、午後九時を回っていた。
「シグ! これなに?」
「それはプレステ。ゲーム機だよ」
「やりたい!」
正直に言うと僕は就寝したかったのだが、ここまで手厚い待遇を受けたあとで断ることなどできなかった。やむなし。一種のお礼ということで、付き合うとしよう。
「しゃーねーな」
それから二人でテレビゲームを始めた。サッカーのゲーム。格闘ゲーム。銃のゲーム。色々やったのだが、ナギサの全敗。ナギサにハンデを与えても、戦況は大して変わらなかった。
つまり僕は恩を仇で返したということ。悪い気分ではなかったけど。
「よわ」
「こんなの難しくてできないよ! シグのおたく!」
「理不尽……」
僕だってゲームをするのは久しい。そんな僕にゲームで負けるナギサは単に下手なだけか、それとも――、
「…………ナギサ、変なこと聞くけどさ、もしかして――」
「シグ! もう二時だよ!」
ナギサの焦った声を聞いてから時計に目をやると、深夜二時を過ぎていた。
「……これはやばい」
すぐにゲームを止め、寝る準備を始める。
僕とナギサが歯磨きと着替えを終えると、すぐにある困難に直面した。
「ベッドはひとつ。ソファも布団もない……か」
「一緒に寝ちゃう?」
「しょうがないな。ここはじゃんけんで」
「むし!」
「「最初はグー、じゃんけん――」」
僕はグー、ナギサはパーで僕の負けだった。
「早く寝ろよ、まじで寝坊するから」と言って電気を消そうとすると、
「じゃあ、一緒に寝よっか!」とナギサは満面の笑みで返してきた。
「え? 何のためのじゃんけん?」
「勝った人が決めれるんだよ? 当然の権利でしょ?」
「それはちょっと違くないか」
「じゃあもっかいじゃんけんする? でも次もナギが勝ったらぁ〜、ど〜うしよっかな〜?」
「さっき負けまくってたくせに……」
すると、ナギサは魔女のような笑みを浮かべた。異端審問にでもかけられればいいのに。
「……条件。僕が外側、ナギサが壁側。最大限距離をとる。ふたりとも反対方向を見る。これなら……」
「ナギが外側、シグが壁側。言っとくけど拒否権はないよ?」
ナギサはウインクをして、目元でピースサインを作った。
「……もう逃げたい」
「逃がさないぞぉ?」
結局ふたりで寝ることになった。帰りたい。もう帰ってるけど。
電気を消し、携帯で時刻を確認すると既に午前二時三十分を回っていた。
僕は壁にできるだけ密着するようにしているが、ナギサはそこまで距離をとっていない。必死に寝ようとしても、先程までゲームをしていたせいか、この状況のせいか、眠気が来ることはなかった。
ひとまず僕は目を瞑る。まぶたの裏をじっと見つめる。息を吸うことにも気を遣い、先が見えない沈黙の中に息を潜めた。
部屋と外を繋ぐように、開いた窓から風が吹き寄せる。たまに風の余波が当たり、顔の温度を下げる。そんな柔らかい風以外の音が何も聞こえない空間で目を閉じ続ける。
閑古鳥が鳴く寂寥な一室は、世界から切り離されたように孤立している。夜の海に呑み込まれた僕の部屋。酸素なんてどこにもない。
――そんな静かな空間が切り裂かれる。
後ろからベッドが軋む音と、枕と髪の毛が擦れる音がした。後者の音は段々と近くなっていき、やがてピタリと止まった。
僕の背中に優しく温かい感触が広がり、それが手だとわかる。でも、その手は誰かの熱を欲していた。誰かの熱がないと生きていけない、か弱い手のようだった。
「こわ……い……よ……」
頭のすぐ後ろから声が聞こえた。
その声は、まるでライオンの群れの中に迷い込んだ子鹿のように物怖じしていて、折れそうなくらいに震えていた。
今際の際のように掠れていて、でもそれを懸命に届けようとしていて、だけどそれは届く前に空気の一部に還元してしまう。
そんな細く脆い糸のような声音は、摩耗しきっていて、乾いた音を立てていた。
僕はハッとして後ろを振り向く。その光景を見て絶句した。
――ナギサは涙を零していた。
横向きになっているナギサの目からはまっすぐ涙は零れない。目から目に涙が零れて、その目に貯まった涙をシーツに垂らしていた。
ナギサは眠っている。悪夢にうなされたように涙を流したが、それ以外は何もしない。
僕は何とかしなければならないと思い、とっさに両手で包み込もうとしたその瞬間、
「レグ」
暗闇の中で、ナギサが薄らと名前を呼んだ。欠片の光もないこの部屋で、ナギサは薄らと笑っていた。最初から笑っていたよ、とでも言いたげに。
暗闇のせいで、彼女の泣きぼくろを見ることはできなかった。
「レグ、いいよ、喋らなくていいよ、ありがとう」
微笑みながらナギサは僕の頭を撫でる。
「助けようとしてくれたんでしょ。やっぱり……レグは優しいよね」
ナギサは震えた手を僕の頬に添え、
「レグ、見える?」
「あ……ああ」
「ずっとこのままでいたいんだけどね、それはできないんだ。ボクのこと見て欲しいんだけどね、叶わないんだ。だから、あと少しだけ……あと、四回だけ、見てもいい?」
夜の海なんかよりもよっぽど大きく深い帳。全てを安らかに包み込んでしまうような、羊水みたいに柔らかい声音。
「答えなくていいよ、レグ。おやすみ」
ナギサは僕の頬に接吻してから孤独な笑みを浮かべ、そのまま消えるように目を閉じた。僕はしばらくナギサを凝視するが、本当に眠っているようだった。
安らかに眠るナギサの顔を見ていると、なんだか眠気が押し寄せてきた。
僕の狭まる視界が最後に映したのは、シーツに零れたナギサの涙だった。
――それが最初の警告だとは、僕はまだ知らなかった。
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