最終章 『海って、何色ですか?』
――7月31日。
ぼんやりとした意識が覚醒し、カラスの鳴き声と太陽の日差しが、僕に朝を与える。
僕は眠たい目をこすってから開けると、妙な違和感に気づいた。首の内側が少し熱く、内出血しているような感覚があったのだ。鏡で確認すると、丸っぽい痕が小さく首にできていた。
僕は瞬時に原因を察した。
「ナギサ、痛いんだけど」
起床したばかりのナギサに声をかける。すると、ナギサは僕の首の痕を指先で触ってから、
「キスマーク? 浮気した!? シグが浮気した!? うわ〜ん……」とあからさまな泣き真似をした。
確実にキスマークを付けた犯人はこいつだ。目をこするフリをしながら、僕の様子を伺っていたからだ。もっととんでもないことをされていたっておかしくない。
僕とナギサは旅館を出て、ある場所に向かった。
そこは人が恐れ、人が好む場所。地表の七割を占有し、人に夢と希望、そして無力さを与える場所。その入口。
そんな場所、この世には一つしかなくて、
「綺麗な海〜!!」
「普通の海だけどね」
普通の海とはなんだ、と言われたらおしまいだが、別に観光スポットでもなんでもない。
「眼鏡があったら、も〜っと見えたのになぁ」
「それはナギサが壊したんだろ」
眼鏡ケースに入れないままバッグに突っ込んでいたからなのか、今朝見ると眼鏡にヒビが入っていたのだ。
以前ほどではないが、景色を眺めるのにレンズのヒビは邪魔だ。だから今ナギサは裸眼である。
まったく、僕の眼鏡は何回壊されれば気が済むんだ。誰かこの眼鏡に恨みでもあるのか、と本気で思った。
僕とナギサは水着に着替えて、はしゃぎ回る。この海は人気がないので、周りの目なんか気にせずに遊びまくった。それこそ仲のいいカップルみたいに。
しかし、この世の中で唯一止まってくれない時間というものは、刻一刻と歩みを進める。
――やがて、夕方がやってきた。
僕とナギサは制服に着替えた。
夕焼けが空を覆い、雲を蝕み、海をも照らす。僕はそれをあと少しで知ることができる。残念ながら。
僕は波打ち際から少し離れたところに腰掛け、波打ち際に立つひとりの少女を凝望していた。
少女は昏い目をしていた。まるでこのあと待ち構える闇夜を嘆く黄昏のような、そんな昏い目。
少女――ナギサは走って僕に抱きつき、「最後の写真、お願いしてもいいかな?」と言った。
僕は頷いて了承する。ナギサは今まで使ってきたカメラではなく、チェキカメラという、撮った写真がその場で印刷されるカメラを渡してきた。
ナギサは正方形の色紙を持ち、海を背景にして笑った。僕は彼女をできる限り綺麗に撮り、印刷された写真を彼女に手渡す。
ナギサは、写真を裏返し、端っこに『5』と書いた。それから、六枚の写真を僕に手渡してきた。
「これは……」
一枚目の写真。それは鹿苑寺金閣でのもの。
二枚目の写真。それは慈照寺銀閣でのもの。
三枚目の写真。それは『百万ドルの夜景』でのもの。
四枚目の写真。それは薔薇園でのもの。
五枚目の写真。これは今僕が撮ったもの。
そして六枚目は――、
「これって……」
三ヶ月前、死神と契約する前日。その日に僕がナギサを撮った写真。
他の五枚と違うのは、色紙が横長に大きいこと。
「それあげる。あとで順番通りに見てね?」
ナギサの忠告に従うように、僕はポケットに写真を入れる。決して曲がらないように。
ナギサは周りをキョロキョロと見回してから、
「ごめん、シグ。やばいかも……。もう、あんまり見えなくなってきちゃった……」
「ナギサ……」
「シグ。最後に一つだけお願い……いいかな?」
ナギサは僕の両手を優しく握り、おぼろげな目で僕を見つめる。
「なんだ?」
「えっとね……最後にさ、シグに――」
ナギサの言葉が、声が、止まる。突然何かにせき止められたかのように。
それは物理的なものではない。なぜなら彼女の口も首も塞がっていないから。だから精神的なものだ。たぶん、状況を呑み込めないのだろう。
「し……ぐ……?」
ナギサは僕の胸元で疑問符を浮かべる。まだ何が起こったのか理解できていないのだろう。
だから、僕はわからせるように、もっと強く抱きしめる。
「……ナギ、まだお願い言ってないよ?」
「どうせこうだろ」
ナギサは僕の胸元を揺らすように、「へへへ」と笑った。
「バレちゃったか〜」
「ああ、バレバレだ。だから、今日は特別に、もう一つだけいいよ」
ナギサは胸から顔を離し、驚きを顔に浮かべた。すぐに彼女の顔は照れくさそうな笑顔に彩られ、「ありがと。う〜ん、どうしよっかなぁ」と呟く。
僕は静かに彼女を抱き寄せ、静かに彼女の言葉を待つ。
「ん〜、じゃあ、一つだけ」
「なんだ」
ナギサは僕の胸から顔を離した。そして彼女は、ひどく悲しそうに、ひどく泣きそうに笑いながら、
「――ナギのこと、忘れないでね」
震えた声だった。涙を含み、掠れそうな声音だった。眉を下げ、目を緩やかに細め、唇を広げてえくぼを見せる。
僕は、そんな無用な心配をする彼女を戒めるように力強く抱きしめて、
「……馬鹿野郎」
ナギサは鼻をすすりながら、また僕の胸に顔を埋めた。泣きたい気持ち、怖い気持ちを僕にぶつけるように。僕はそれを受け入れる。
時間の流れなんて忘れて、そのまま抱きしめあった。海の奏でるさざなみの音なんて、僕らの耳には入らない。鳥の泣き声も、潮風の吹く音も、全部どうでもよかった。
どのくらい経ったのかはわからない。数十分かもしれないし、数十秒かもしれない。そんな曖昧な時間を経て、ゆっくりとナギサが胸から顔を離し、僕を見上げた。
きっと、きっと同じことを考えたんだと思う。お願いするとか、奉仕するとか、そんなの今は些末なことで、ただ今したいこと、今するべきこと、それを僕とナギサは考えた。
ナギサは僕の首に両手を回し、つま先立ちをして僕に顔を近づける。それに応えるように、僕も首を少し曲げ、ナギサの顔に近づく。まるで磁石が引き寄せ合うみたいに、互いが互いを欲した。ゆっくりと顔を、口を近づけ合う。
ナギサは妖艶に目を細め、着実に僕の顔に近寄る。僕も彼女のように目を細め、確実に彼女の顔に近寄る。
目は細めても、絶対に瞑ったりはしない。互いの顔を、互いの目を、互いの眼球を、己の眼球に刻み込むために、僕らは目を閉じない。僕は彼女の、彼女は僕の一挙一動すら逃さまいと、瞬き一つすら惜しんだ。
口が、唇が近くなり、少しでも息を吐いたら相手の唇に吸収されてしまうような距離感になる。
数センチ――否、数ミリの距離を気が遠くなるような速度で詰め合った。
そして、音が鳴った。
僕とナギサの唇が触れ合った音じゃない。ナギサが砂浜に倒れこんだ音だ。ガサっと砂が散るような乾いた音と共に、ナギサは力なく、だらりと寝転んでしまった。
僕は、まるで眠ったように目を瞑るナギサの顔を見下ろす。安らかと言うよりは、無感情に眠るナギサを、僕は助けない。正確には、助けられない。
――だって、僕の目には、僕の眼球には、イロが――違う。『色』が宿っているんだから。
僕の視界は、『色』というものを初めて捉えた。
目を刺激するような明るい『色』。
心を穏やかにするような落ち着く『色』。
何がなんの『色』なのかはわからない。
視界が急に開くように、無色な世界が色で彩られていく。
僕は初めて見る海の色を無視し、屈んでナギサの頭を抱えた。
「ナギサ……」
僕の声に呼応して、ナギサがゆっくりとまぶたを開く。ナギサは目を泳がせ、不思議そうに、
「なにも……なにも、見えないや……」
僕は息を呑み、ナギサの頭を抱きかかえる。ここにいる、と自分の場所を教えるように。
「そんなにきつく抱きしめられたら、頭潰れちゃうよ? ねえレグ、立つの手伝って欲しい」
ナギサの言葉に応じ、僕はナギサを立ち上がらせた。
ナギサは周囲を見渡し、
「ぜんぶ真っ暗。少しの光もないや……」
「そうか……。ごめん、な……」
「いいよ。いいんだよ。レグ、海、みたい」
僕はナギサの体を海の方向に向ける。
そこで僕はハッと思い出した。
「写真……」
僕はポケットから六枚の写真を取り出し、一から六の順番を確認してから一枚一枚眺める。
一枚目。鹿苑寺金閣でのもの。
キラキラとした光沢を見せる寺院を背景に、ひとりの少女が色紙を持っていた。その色紙には、色々な色で無秩序に線が描かれている。
――でも、一色だけは違った。少し明るい色。少し刺激的な色。少し胸がざわつくような色。
持っている情報からその色を推測するために、僕はナギサの顔を観察する。ナギサの唇の色と、その色はよく似ていた。だから、この色は——、
「赤……」
その一色の――赤色の線は、文字として成り立っていた。たった一字。でも、たしかに一字。
その字は――、
「『あ』」
続けて二枚目の写真を見る。それは慈照寺銀閣でのもの。
その写真にもまた、赤色の線が文字として映っていた。
「『り』」
三枚目。それは百万ドルの夜景でのもの。
「『が』」
四枚目。それは薔薇園でのもの。
「『と』」
五枚目。それはさっきここで撮ったもの。
「『う』」
脳みそと胸がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような痛みを感じる。
この『ありがとう』の文字さえ、隣の少女は見ることができない。自分で書いた文字なのに。自分で計画したことなのに。彼女がこれを見ることは、もう許されない。
僕は叫びそうな体を抑え、六枚目に目を向ける。
六枚目。それは三ヶ月前にこの海で撮ったもの。この残酷な物語が始まる前の写真。
その写真には透明な水が付着していた。その写真を目に焼き付けるために、僕はその水滴を拭う。でも、拭っても、拭っても、写真から水滴がなくなることはない。こんなにも、この写真を、この子を、この文字を見たいのに。まるで、お前には見せないと雨が糾弾するように、写真から水滴が淘汰されることはない。今も尚、その水滴は数を増している。僕はその雨の原因を、根源を激しく恨んだ。消えてしまえばいいのに、と考えるほど。
「レグ……? どうして? どうして、泣いてるの……?」
――僕は、泣いていた。
まるで僕の眼球に雨雲がやってきたみたいに、僕のにわか雨は止んでくれない。
早く止んでくれ。早く止まってくれ。早く去ってくれ。
僕はこの写真を、この子を、この赤い文字を見たい。喉から手が出るほど、眼球が飛び出るほど、眼球を抉り出してでも、この雨粒に隠された写真を見たい。
だから早く雨、止んでくれ。
やがて、雨が止んだ。にわか雨なんて嘘だったみたいに、静かに止まった。
まるで秋に訪れる、時雨みたいに。
僕はその写真の水滴を残さず拭き取り、そこに映る色紙の文字を読む。
赤い字だった。数を数えるのが面倒なほどに、たくさんの色で彩られた色紙だった。そこで唯一、赤色だけは文字として生きていた。その文字は、たった四文字だった。
その赤い言葉は――、
『だいすき』
また雨が降り出した。僕の声を合図にしたみたいに、秋に訪れたシグレみたいに、ボロボロと雨がこぼれ落ちる。写真は雨粒で覆い尽くされ、その少女と赤い言葉を見ることは叶わなくなる。
こんなに雨で濡れてしまっては、色紙のインクが落ちてしまう。色紙に刻まれた赤い文字が消えてしまう。少女が贈った『だいすき』が色褪せてしまう。
でも、写真がどんなにずぶ濡れになろうと、ふにゃふにゃになろうと、この四文字が落ちて、消え失せ、色褪せることはない。
「馬鹿だ……三ヶ月も前から……。死神がいなかったら、僕がこれを読むことなんて、なかったのに……」
死神が来ても、死神が来なくても、ナギサの気持ちはずっと同じだった。ただ純粋に、ただ一途に、ただ健気に、この四文字を胸に抱いていた。
「お前は……ナギサは、ほんとに……ほんとに、馬鹿野郎だよ……」
ナギサは一度たりとも、僕に想いを告げることはなかった。どんなに甘えても、どんなに頼っても、どんなに好意をあらわにしても、決して口にすることはなかった。それはつまり――、
「『色の彩られた同じ海を一緒に見る』まで、心に留めておくつもりだったのかよ……」
馬鹿だ。本当に馬鹿だ。魔法みたいな力がなかったら、そんなの叶わないのに。僕だって諦めてた。死神と会うまで、『色を見る』なんて、絶対に叶わない夢だと思ってた。
なのに、なのにナギサは、ナギサだけは――、
「諦めてなかったのかよ…………」
もう泣くことすらできない。
今まで弱いと、守るべきだと、支えるべき存在だと思っていた少女。その少女は、弱くなんてなかった。ただ守られる存在じゃなかった。そうやって、人を、僕を支えてくれていたんだ。
「レグ」
「なんだ……」
「海とかの色、どう?」
「そうだな。海の色は――」
僕は目に残った涙を拭き取り、
「思ったより、汚かったよ。もっと、綺麗だと思ってた」
「そっか」
ナギサは闇くなった目で、僕の顔をしっかりと凝視していた。暗闇の中で一筋の光に縋るみたいに。
「レグ…………怖いよ……」
僕はすぐに抱きしめる。ここにいる、と主張するみたいに。
「そんなに強く抱きしめなくても、わかるのに。真っ暗な世界の中で、レグは、レグだけは、光ってる。虹みたいにたくさんのイロに彩られながら、ボクを、まっすぐに、照らしてくれてる」
僕はナギサを抱きしめるのをやめる。それでもナギサは、僕の眼球をまっすぐに射抜いた。
「レグ。ボクに、ついてきてくれる?」
「……ああ、もちろん。どこまでも」
「じゃあ、こっち」
ナギサはポケットに入った眼鏡を砂浜に捨て、僕の手首を優しく掴んだ。それから、海の方へと歩いていく。
制服姿の僕とナギサは、少しづつ水に浸かっていく。波が僕たちを阻んでも、僕とナギサは止まらない。やがて、胸のところまで僕たちは沈んでしまう。
「ナギサ。ここからは、危ないよ」
ナギサは振り向かずに、
「平気だよ。レグとだったら、怖くなんてない」
僕は、「そうか……そうだな……」とだけ言い、腕を引っ張るナギサに身を任せる。
「ナギサ、お前……」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
聞こうか迷ったが、それはきっと勘違いだろう。だから、心に留めておく。
「ボクのイロつきの顔、どう?」とナギサが言った。
「そうだな……まあ、普通だよ」
「レグの嘘つき」
「なんで?」
「なんでって、レグが嘘ついてるかどうかくらい、声聞けばわかるもん」
「そんなの……反則だ」
腕を引っ張り前方を歩くナギサに微笑んだ。
どんどん水に浸かっていく。制服が重くなり、歩きづらくなっても、僕らは海を歩く。
夕陽が見える。綺麗だ。淡く、儚く、幻想的な夕焼け。でも、どれだけ歩いても、少しも距離が縮まることはない。僕とナギサの見える世界のように、見えない壁に隔てられている。
突然、ナギサが消えた。ポツンと沈んだように、消えてしまった。
焦った僕も一歩前へ踏み出すと、そこに足場はなく、あるのは海水だけだった。
僕は水中でナギサを見つける。
もがくように、逆に受け入れるように、ナギサは僕を探していた。
僕は泳いでナギサの元に近づき、彼女の腕を掴む。
途端に、ナギサは安堵に包まれたような顔をした。
ナギサは水の中で、闇くなった目を開き、何か声に出そうとしている。でも、海に溺れる僕らは、声を出すことなんてできない。
「……ボクは…………ゅう…………る……い目……君に」
ナギサの溺れる声が聞こえた。わからない。聞こえたのかどうかはわからない。でも、そうやって僕に何かを言おうとしてるのを、僕の耳が、僕の肌が、僕の眼球が捉えた。
僕とナギサは、海に溺れながらそれでも懸命に近づき合う。
『だから、僕も誓う――』
酸素のことなんて忘れた二人は、互いが互いを求め、接近する。
まるで最初から、運命で繋がってたみたいに近寄る。
そして、底を知らない海のど真ん中で溺れながら、求め合うように、捧げ合うように、接吻した。
【僕は眼球をささげる、闇い目をした君に】
――海に溺れた青年の誓いは、青年に溺れた少女の心へと、冷たい唇を通して伝わった。
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