第五章1   『ハナビの色と花火のイロ』

「あ……? え、え……は……? ちょ、ちょっと……ちょっと……ま、待って…………」


 頭が、理解が、追いつかない。凛奏の――リンカの言葉が、耳に入ってから、頭に入ってこない。自分が、シグレがその記憶を拒絶するかのように、頭が混乱する。


「信じてもらえないのは覚悟の上だよ。こんな突拍子もない話」


「つ、つまり……四年前に、僕――『時雨』は死んでたってこと……?」


 リンカはゆっくりと頷く。


「……たぶんだけど、『凪沙』ちゃんも死んでると、思う……。死神は言ってなかったけど、『凪沙』ちゃんの記憶も調整されてるんだと……思う……」


 三ヶ月前に同じ話をされたら、僕はたぶん信じなかっただろう。でも、死神と邂逅してしまった僕は、それを信じる以外の選択肢はない。


「つまり、私は――いや、ボクは、二人の両親を死なせ、『時雨』くんと『凪沙』ちゃんを殺した張本人なんだよ」


「……じゃあ、僕は、シグレだけど、時雨ではない……ってこと……?」


 リンカは申し訳なさそうに首を縦に振った。

 これが死神の言っていた最終手段。記憶を消し、人格を作り替え、同姓同名かつ同じ肉体の人間を二人生み出す。

 クローンと似たようなものだ。クローンと違うのは、肉体を作るか、精神を作るかの違い。


 ――つまり僕は、紛い物ということ。


「『凪沙』ちゃんはすごく大人しい子だったよ。年齢にしては大人びてたし、ボクとシグのお姉さんみたいな立ち位置だった。逆にシグは、今よりずっと活発だったかな。ナギに注意されることが多かったくらいだし」


 今とはまるで違う立ち位置。

 僕は頭を押え、荒ぶった呼吸と動悸を落ち着かせるために深呼吸する。


「『時雨』と『凪沙』が戻ってくることは?」


 リンカは目を閉じ、首を横に振った。


「完全に消えちゃうって。ファンタジーの世界なら、大事な場面で人格が戻ってきたりすることもあるけど、そんなことはないんだって……」


 死神がやりそうな手口だ。やると決めたら救いの光は一切与えない。

 死神とは――狂人とは、そういうやつだ。

 現に、僕には時雨の頃の記憶が一切ない。要所要所は映像や音として流れたこともあったが、それはあくまで映像や音に相違ない。他人の人生を映画として観てるような感覚で、傍観者のような気分だ。


 ――つまり、時雨はもう死んでしまっているということ。


「じゃあ……この眼鏡って……」


 僕はポケットからフチなしの丸眼鏡を取り出した。


「そうだよ……最期にボクがシグにあげたやつ。だから、ナギがそれをかけてるのを見て、どうしようもない気持ちになっちゃったの……」


 リンカの不可解な行動も、これで全て説明がつく。

 この行き場を失ったやるせない気持ちを、僕は眼鏡にぶつけるように握った。


「でもね、ボクってずーっと、シグレくんに時雨くんを重ねてたの」


 俯く僕に近づきながら、リンカが言った。


「シグレくんと時雨くんは全然違う人なのに、ごっちゃにして見てたの」


 リンカは僕の両手を掴む。彼女の手はどこか温かく、どこか冷たかった。


「でも、今は違う」


 リンカは、俯く僕の顔をそっと上げさせ、優しい瞳を投げかけてきた。


「君の両親を、君の幼馴染を、君を、殺した女です」


 リンカは、僕の頬に手を添える。優しく、慈しむように、慈愛を込めて。


「――そして、キミに二度も惚れてしまった女です」


 リンカは悲しく笑いながら、


「――ボクは、時雨くんが――シグレくんのことが好きです」


 光った。イロのない光が、リンカの背景として、まるで花が咲くみたいに、光った。

 花が満開になってから、花が開花する音が、ドッと聞こえた。音ズレしてるみたいに、火の花と、火の音は噛み合わない。それから火の花は、窓ガラスに結露した水滴みたいに、跡形もなく散っていく。


 その散った火花の音が、バチバチと断末魔を鳴らす。寿命数秒余りの大きな火の花は、日としてリンカを照らし、火として散っていった。


 思考が、思考が鈍る。頭の、脳みその中で、花火が爆発するような、バラバラに砕け散るような、そんな火傷。丸焦げに火葬されるみたいに、血の一滴すら出てこない。

 振ろうと思っていた。自分の想いに関係なく、彼女を振るために、僕はここに来た。


 ――だが、その想いの重さ。その想いの深さ。それを突きつけられると、胸が、感情が、心がひどく歪む。ゼリーを掻き混ぜたみたいに分裂して、僕の意志という名の罰が、砕け散る。


 ――逃げ出したい。全てを捨てて、逃げ出してしまいたい。


 ――イロ褪せたい。あの花火みたいに、砕け散るようにイロ褪せてしまいたい。


 ――消え失せたい。独りの幼馴染を見捨て、全部忘れて、消え失せてしまいたい。


 ――やり直したい。この想いに、応えて、耳を塞いで、目を背けて、一からやり直したい。


 ――見たい。イロを、見たい。眼球を簒奪して、この女性と共に、イロを見たい。


 逃げたっていいじゃないか。僕が奪ったわけじゃない。僕が苦しめたわけじゃない。僕のせいじゃない。僕は苦心した。僕は葛藤した。僕は煩悶した。もう、十分じゃないか……だから、


「僕も……僕も、君が好きだ。だから――」


 甘えたい。縋りたい。彼女を、リンカをよすがとして、生きていきたい。


 胸が、心が、心臓が、動く。自分の弱さが水みたいに奥底から滲み出て、心が浸水していく。


 ――この手を取りたい。この人を取りたい。そんな想いは、希望から願望に変わり、欲望へと変わる。だから、僕の返事はひとつしかなくて、


「………………ごめん」


 リンカの顔は見えない。――じゃない。見ない。見たらきっと、取り返しがつかなくなるから。見たらきっと、応えが倒錯してしまうから。


「……僕も、君が好き……だけど、それはきっと……きっと僕の想いじゃないから……」


 四年間想い続けた。四年間焦がれ続けた。でも、それはきっと僕の心じゃない。どう頑張ったって、僕は、僕は……、


 ――僕は、時雨にはなれないから。


 記憶と感情が別物なら、この心にある感情は、きっと時雨の物だ。僕の物じゃない。それに、僕は、『二人の幼馴染』を見捨てることなんて、できない。


 ――見てしまった。


 心に負け、誘惑に負け、感情に負け、リンカを見てしまった。


 ――リンカは、涙を流しながら、笑っていた。


 泣いているんじゃない。笑ってるんだ。微笑ましく、笑っているんだ。線が四本できたみたいに、リンカは、涙を流しながら、笑っていた。


「――――――ありがとう」


 涙ながらに笑顔で、それでも震えないよう健気に、リンカは言った。

 僕は思わずリンカを抱き寄せる。リンカは声も上げず、まるで涙に声量を搾取されてしまったように、淡々と涙を流す。


 僕の胸元に零れたリンカの涙は、何事も無かったかのように乾燥していく。

 まるで、感情と想いの存在を否定するみたいに。


「……僕、いかなきゃ」


 僕の囁きに、リンカは顔を上げ、依然として涙を流しながら首を縦に振った。

 僕はリンカからゆっくりと離れ、リンカの目を見ながら鉄扉に向かった。


 やがてリンカから目を離し、僕は屋上からの階段を下る。

 後ろを振り返ると、屋上のアスファルトの上で、リンカは割座をして座り込み、顔を両手で隠しながら、泣いていた。


 たぶん、泣いていたんだと思う。でも、その泣き声が聞こえてくることはなかった。火花が散る音が、リンカの泣き声をかき消していたのだ。


 それが火の華の厚意なのか、嫌がらせなのか、僕にはわからない。


 でも、その火華の鳴き声がなければ、僕はこの階段を下れなかっただろう。



 だから、ごめん。


 

 風に靡くように凛々しく奏でられた風鈴草。彼女との最期の逢瀬を、僕は火花と共に終えた。

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