第五章2 『嘘』
腕時計を見ると、午後七時を大幅に過ぎていた。
僕は花火の鳴り終わった静かな廊下を歩き、ある扉の前で立ち止まる。
深呼吸してからドアノブを捻って中に入ると、様々な絵画や彫刻が無秩序に置かれていた。
奥の窓際の椅子には、ひとりの少女が座っていた。鎖骨までサラサラな髪を伸ばし、左目の下に泣きぼくろをつけ、ナイフを手に持つ少女――ナギサだ。
ナギサは奥の窓から空を眺めている。
「遅れた」
僕の一言で、ナギサはこちらを向いた。あの能天気な少女とは思えないほど、鋭い目付きだった。手に持つナイフなんかよりもよっぽと鋭利な眼光。
「…………聞きたいことがあるの」
「なんだよ」
「……カレンっていう女の人と話してたことは、君の本心?」
いつもとは一風変わった口調。僕に対する明らかな敵意と殺意を、ナギサは瞳と声に宿していた。僕はそれにたじろぎながらも、ぐっと拳に力を入れた。
「……なんだ聞かれてたのか。ああ本音だ」
僕は臭い芝居をする。だが、今のナギサに気づかれることはないだろう。現に、ナギサの厭悪は衰えていない。僕は自分の頬を触らないよう、一心不乱に手を抑える。
「……ナギの失明の代わりに、色と視力を手に入れるっていう契約をしたのは?」
死神が話してくれたのだろうか? 嫌がらせのつもりなのかもしれないが、こちらとしては非常にありがたい。この機会を利用させてもらうことにする。
「もちろん。知ってたさ」
「…………失明するのがナギっていうことは……知ってたの?」
後戻りはできない。もはや手遅れだし、戻る気も取り繕う気もない。だから、ここは少し嘘をつくことにする。きっとナギサは、この返答次第で決めるつもりなんだろう。
僕は鼻で嗤いながら、
「当たり前だろ」と小馬鹿にした。
――瞬間、ナギサはナイフを握りしめ勢いよく立ち上がった。その反動でパイプ椅子は後ろに倒れる。その 音と、ナギサの素早い足音が被る。
ナギサは僕に詰め寄り、壁に押し付けた。僕はナギサと壁に挟み撃ちにされ、退路を失う。
「……許さない。ナギを……ナギをなんだと思ってるの……?」
「ただの道具。ちなみに使えない道具な。でも、まあ、結果的に僕の眼を治す道具になったから、役には立ったな」
ナギサは歯ぎしりをギリギリと立て、眉を寄せた。僕は頬を触りそうになる手を強引に抑える。絶対に嘘がバレないように。
「……今まで優しくしてたのは……?」
「利用できると思ったから。優しく手懐けておけば、ペットみたいに従順になると考えたから。実際そうだっただろ? はっ。気づいてなかったのか? まあそうだとは思ってたが、やっぱバカだな」
ナギサはまた歯噛みして音を鳴らした。そして、目に力を込めてからナイフを僕の眼前に持ってくる。
僕の眼球とナイフの先はほんの数センチで、何かの余韻で刺さってしまう程度の距離感だ。
ナギサは手をブルブルと震えさせ、呼吸を荒くする。
「なんだよ? やれよ。どうせできないんだろ? 腰抜けだな。それともなんだ? まだ男に媚びようとでもしてるのか? 低脳のメス猿ができることなんて、それくらいしかないもんなぁ? 腰抜けじゃなくて、腰振りか? 笑わせてくれるな! なんなら、今そこで脱いでもいいんだぞ?」
ナギサはナイフを振り上げる。僕は思わず目を閉じてしまった。
――次の瞬間、痛みが走った。じわじわと熱が液体のように広がる鈍痛。人生初めての眼球を潰される感覚。それは、とても奇妙なものだった。
だって、
――頬が痛いんだから。
「は……?」
僕の疑問符と共に、金属音が室内に鳴り響く。ナギサを見ると、彼女の手にナイフはなかった。今の金属音は、ナイフが床に落ちる音だったのだ。
「ビン……タ……?」
右頬が熱い。ビリビリと電気が走るように、熱が蔓延していく。
それは明らかに、平手打ちされたときの痛みだった。
「……最低」
親の仇のような憎悪の睥睨。そんなナギサの目付きが、変わった。
キツネのように鋭かった目付きは、徐々に弛緩され、ゆったりとしたタレ目になる。
「……ほんとに……最低……」
僕は言葉を失い、思考回路も切断される。これはいったい……どういうことなんだ。
状況が呑み込めない僕を置いてきぼりにするように、ナギサの両眼の目頭と目尻から、涙がポツポツと流れ始める。
「なんでっ……なんで嘘もっ……なんでこんな嘘もっ! こんな嘘もつけないの――ッ!?」
ナギサは眉と唇を震えさせ、泣きながら大声を上げた。
僕は頬を指で触らないように、必死に意識した。嘘をついてることがバレないように、懸命に抗った。
じゃあ……なんで……?
「嘘……? は? 何言ってんだ……? お前が知ってる癖だってしてないだろ!? いい加減男に媚びるのはやめろよ、このク――」
「唇……」
震えたナギサの呟き。それに少し遅れて反応するように、僕は自分の唇を触った。
「これは……」
液体がべっとり付着していた。イロはわからない。でも、その鉄臭い匂いは、明らかに血液だった。
流血を自覚してから、僕は唇の痛みに気づく。空気に触れる度に、唇がヒリヒリして痛い。まるで肉を直で触られるような感覚。
「……前、ナギ言ったでしょ……。嘘をつくとき、頬をかくって。もう一つあるんだよ」
ナギサは潤み、涙の溢れ出した瞳を投げかけながら、
「君は――シグはね、頬をかけないときは、唇を噛みしめるんだよ?」
「ちょっと……待て……それは何かの、何かの勘違いで……」
形勢逆転。
この言葉が正しいのかはわからない。でも、僕の願いが遠ざかるということに関して、この言葉は当てはまるだろう。
どうすればいいのか、何をしたら立て直せるのか、と頭が焦燥感で満杯になる。
「なんで……?」
ナギサは涙腺を崩壊させながら、今一度問う。
「なんでナギに、恨ませてくれないの……?」
僕は口を噤み、ナギサの瞳を凝視することしかできない。
「なんでナギに、憎ませてくれないの……?」
ナギサは一度瞬きをした。その影響で、溜まった涙がさらに溢れ出す。
「なんでナギに……ナギに、眼球を潰させてくれないの……?」
「ちがく――」
「全部……全部嘘だったなんて……。本気で恨んで、本気で憎んで、本気でシグの眼を潰そうとしたナギが、バカみたいじゃん……」
ナギサはその場に座り込み、顔を伏せるように俯いた。
僕も目線を合わせるために片膝をつく。
「待て……。違うんだ……。これはそういうこ――」
「ナギは死神とある契約をしました」
僕に顔を向けないまま、ナギサは声に芯を持たせて言った。
「その契約は、シグの眼球を潰せば、ナギは失明しなくなるっていうやつです」
それは絶対に言ってはいけないこと。たとえ既知である僕に対してでも、言ってしまったら契約が取り消されてしまうこと。
額から冷や汗が流れ、背筋に悪漢が走るのを無視し、僕は焦燥する。
「ば、バカ!! きっと、きっとまだ間に合う! だから――」
言葉が、声が塞がれた。僕は今も出そうとしている。だから精神的なものじゃない。物理的なものだ。首も絞められてない。
じゃあ、どうして?
「もう……いいの」
口だ。唇が塞がれている。――違う、顔が、顔全体が塞がれている。でも、何に塞がれているのか、それはわからない。そもそも塞がれているのかすら、断定はできない。塞ぐというには、少し柔らかすぎる。目の前が真っ暗なため、何が起きているのか、僕には把握できない。
「もう……もう……いいんだよ……」
上から、すぐ上から、違う、耳元で囁かれた。本人どころか声も泣いているような、涙で潤った音。バイオリンの鳴き声みたいな、透き通る細い声音。
そのような悲壮に満ちた音が、僕の鼓膜を優しく揺らした。
「もう……もう十分だよ……シグ」
そこで初めて自覚する。僕は今、ナギサの胸に顔を埋めている。正確には埋められている。
抱き寄せられているんだ。だからといって、精神年齢にそぐわない豊満な胸を堪能することなんてない。そんな下品な考えや劣情なんて、片鱗も、微塵も湧いてこない。
温かいコタツの中に入ったような、肌触りのいい毛布に包み込まれるような、優しい慈母に愛されるような、そんな温もり。
優しさと温もり、そして慈愛。それらで作られた帳に覆われるような、そんな温かさ。
「ありがとう。ありがとうシグ。そして……ごめんね」
なんで、謝る? 意味が、わからない。こうなったのは全部僕のせいだ。恣意的な考え、身勝手な思考で死神と契約し、ナギサを陥れた。酷く惨い罵詈雑言を浴びせ、精神的に追い詰めた。なんで……謝るの?
「『色の彩られた同じ海を、一緒に見る』。この約束のために、無理させちゃってごめんね。この約束を、叶えられなくてごめんね」
まるで僕の頭の中を読んでいるみたいに、ナギサが補足をした。僕の考えることなんて、全部見透かしてると言いたげに。
ナギサは胸から僕の顔を離し、頬に両手を添えてきた。
「いいよ……シグにナギの眼、あげる」
ナギサは両手を頬に添えたまま、僕に顔を近づけた。そして、にっこりと微笑んで、
【ボクは眼球をささげる、冥い目をした君に】
リンカの歌と同じ言葉。
ナギサは歯を見せずに唇を広げ、眉を下げる。そして、たおやかに目を細めて笑った。
彼女の胸元はびちゃびちゃに濡れていた。制服のカーディガンを貫通するくらい、水浸しになっていた。その原因は一つしかなくて、
「男の子がそんなに泣いちゃダメだよ? 男の子は女の子を守らないとダメだからねぇ。シグは泣き虫さんだね。――でも、今はいいよ」
生涯――と言っても四年間しかない人生だが、その中で泣いた記憶なんてない。涙を流したことだって、欠伸のときくらいしかなかった。なのに、もう涙腺が枯れ果ててしまいそうだ。
「――素晴ら、しい……」
室内に感嘆の声が響く。それは、美しく、禍々しかった。
「赤い……目……」
当然のことのように突然現れた狂人——死神に目をやり、ナギサがそんなことを呟く。
「カラコンだよ、カラコン。そんなことより、ナギサちゃんに提案がある」
死神は右頬だけで笑って、
「――キミから、この件と、色と、シグレくんに関する大事な記憶を消す。そうしたら、キミを全色盲で留めてあげよう」
僕は推奨することなんてできない。リンカの過去を聞いてしまった僕は、そんな身勝手なことを口走ることなんて、できない。それは、『死』を意味するから。ナギサというたった四歳の命を、死なせることになるから。
「――遠慮しておきます」
凝り固まった意志のような声が一閃、室内に轟いた。
「……そうか! そうかい! そうなのか! そうなんだ! そうなんだね! そうなんだな! …………あぁそうだ。そうだとも。そうに決まっている。そう決まっている。そう決まっていた。最初から。全て初めから。零から。零章から。…………素晴らしい」
死神は目を見開き、両手を広げて狂ったように声を出す。
「憤怒。気品。嫌悪。悲哀。畏怖。勇猛。驚嘆。平安。そして、恋情。全てが織り交ざって、ぐちゃぐちゃに混雑して、判別できなくなって、そして感情が生まれる。なんと、なんと健気な……儚く、美しく、甘く、淡く、幻想的な、耽美的な、芸術的な、感傷的な、不可視な物体――感情……。ああ、ボクも、ボクも味わいたい。喰らい尽くしたい。抱きたい。抱かせて欲しい。抱いて欲しい。気持ちを、心を、感情を、一心で、一身で受けて、咀嚼して、反芻して、反芻して、反芻して、反芻したい」
僕とナギサは呆気に取られ、言葉を失い絶句する。
死神は涙を流しながら僕たちに指を向けた。
「キミたちはやはり、他の高校生とはレベルが、次元が違いすぎる。ありがとう。キミに、キミに、キミに、キミたちに、感謝を贈りたい。感謝しなければならない。お詫びをしなくては。だから——」
僕とナギサは息を呑み、死神の言葉を待つ。何かに期待するように、何かに縋るように、何かを希望するように。都合のいいことを切望した。
「――だから精々、悔いのない二週間を。じゃあ、さよなら」
死神は音もなく消えた。
夢でも見てたかのように消えた死神。悪夢が去った僕たちは、ほっと胸を撫で下ろす。
「シグ。お願いしたいことがあるの」
「なに?」
「――ナギと、契約してくれないかな?」
まっすぐに僕の目を射抜く、ナギサの視線。欠片の澱みも屈託もない煌びやかな瞳。それを僕は無下にはできない。――できないじゃない、したくない。
「いいよ」
「じゃあ、二つ。一つ目、これからナギが失明するまで、ふたりで旅に出かけること」
ナギサは続ける。
「二つ目、ナギに眼球をささげること!」
ナギサはからかうように笑って、
「物理的な意味じゃないよ? 精神的な意味!」
「……そういうことか。わかった。でも、契約はもうこりごりだ。他に言い方ないか?」
ナギサは「う〜ん?」と言いながら首を捻る。そして何か閃いたように、口を縦に開けた。
「『約束』でいいじゃん!」
「……ああ。それがいい」
僕とナギサは指切りをする。決して声には出さない指切り。
終わってからナギサは僕の腕を掴み、美術準備室を抜け出した。
そのまま廊下を走り、校舎を出た。
そうして、僕とナギサの最初で最後の旅が、始まった。
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