第一章    『凛奏』

 疾風凛奏はやてりんかは産まれたときから全色盲という病気を患っていた。イロはわからないが、それでも両親に大切にされて、それなりの美少女へと成長していった。イロがわからない彼女にとって、イロがわからないことの欠点などわかるはずもない。

 疾風凛奏はそうして、なんの不自由もなく小学生に上がった。

 

 図工の時間、母と父の絵を描く時間があった。

 当然、凛奏にイロはわからないため、響きのいい名前のイロを大雑把に選び、両親の顔と体にイロを塗った。


 ――凛奏は笑い物にされた。


 それは凛奏が、両親の肌の色をミドリで染め上げていたから。ただそれだけの理由。

 次の日から、凛奏のあだ名は『きゅうりオバケ』になった。元々、可愛くて男子からの人気も高かった凛奏は、その弱みを付け込まれ、女子に陰湿ないじめを受けるようになった。

 担任の先生も注意はするが、凛奏の絵を見て鼻で笑った。


 しまいには、凛奏は眼鏡までも馬鹿にされるようになる。

 なにより、両親は凛奏の個性を尊重する人たちだったので、凛奏の『ボク』という一人称も受け入れていた。でも小学生からしたら、女子で一人称がボクというのは異質以外の何物でもない。

 それらが相まって、とても小学生とは思えないいじめを受けていた。


 凛奏は悲しかった。でもそれよりも悔しかった。それはイロが見えないというだけで、本来の自分を誰も見てくれないから。

 凛奏は自分の尊厳を取り戻すために、様々なことに挑戦し、努力した。

 そのうちの一つが『歌』だ。歌はイロではなく、目が見えない人でも歌うことができる。だから凛奏は歌を必死に練習した。皆に『凛奏』という一人の人間を見てもらうために、たくさん練習した。

 

 やがて数年もしたら、凛奏の歌唱力は小学生とは思えないほどに極まっていた。もちろんそれを披露すると、たちまち皆に絶賛され、人気がでるようになった。それがちょうど小学三年生の春頃。


 ――でも、いじめは酷くなった。


 歌唱力の高い凛奏を妬み、僻み、嫉妬する女子の軍団が、凛奏を徹底的に攻撃するようになった。

 でも凛奏は怖くなかった。それは、もう自分はたくさんの人に認められているし、人気もある。だから、誰かが助けてくれる、という期待だった。


 ――その期待は、期待のまま終わった。


 誰も助けてくれなかった。

 誰も手を差し伸べてくれなかった。

 そこで凛奏は気づいてしまった。


 ――皆が見ているのは、『疾風凛奏』ではなく、『イロの見えないきゅうりオバケ』と『歌が上手い女の子』というステータスなんだ、と。


 凛奏は絶望し、不登校になる。大好きな歌も封印し、自らの殻にこもるようになった。

 そんな日々が続き、両親は嘆いた。そこで、小学四年生の春に南黒石小学校への転校が決まった。


 転校初日、凛奏は人を恐れたまま教室の扉を開けた。大勢の人を前にして、凛奏はパニック状態に陥り、挨拶をすることもなく保健室に運ばれた。

 挨拶もできない情けなさに打ちのめされた凛奏は、嗚咽して泣きじゃくった。


 次の日、凛奏は自己紹介をした。震えて、どもりながらではあったが、しっかりと最低限の情報は伝えた。

 不運なことに一時間目は、図工だった。しかもそれは隣の人の顔を描くという授業。


「早く、描いてよ」


 隣は時雨しぐれという男の子だった。

 時雨は絵が下手なんてものじゃなく、幼稚園児の方がまだましなほどだ。凛奏はクーピーを持っていなかったから、時雨に借りることにした。

 うすだいだいイロのクーピーを文字で判断し、慎重に時雨の絵を描いた。その絵を時雨に見せたとき、時雨は笑った。


「あははははははははは。僕の顔そんなに青かった?」


 時雨がクーピーをバラバラに置いていたせいで、凛奏はアオを区別することができなかったのだ。凛奏は咄嗟に絵を隠し、すぐに描き直そうとするが、


「なんで描き直す?」


「ボ……わ、わたし、イロがわ、わからないの。びょ、病気のせいで」


 時雨の顔に驚きが出たが、すぐに笑みが浮かび上がった。


「そうなのか。でも、おもしれぇな」


 またいじめられる。また虐げられる。凛奏の頭にはそれしかなかった。


「みんな同じような絵しか描かないのって気色悪いしな」


 しかし、そんな凛奏の危惧は杞憂に終わる。


「僕はそういうのがあんま好きじゃないんだよな。皆、その他大勢と同じになりたがる。本当は目立ちたいのに、群衆に溶け込もうとする。それはなんというか、雨が海に降って同化するのと同じだと思うんだよな。わけわからんけど。要するに、自分という存在を露呈しないために、身を隠すんだよ。それで目立つ人や変わり者を蔑む。それは、自分が正しいと周りに誇示するためだよ。弱い自分が間違っていないと正当化するため。僕はそれが嫌いなんだよ」


 時雨は淡々と持論を展開する。サイコロを切り開くみたいに内奥に溜まった不平不満を垂れた。

 傍から見たら何を言いたいのかわからないだろう。小学生にしては難しい言葉ばかりというのもあり、凛奏にもわからなかった。

 でも、凛奏はこの言葉に救われた。

 

 それから凛奏は時雨と仲良くなった。

 時雨の幼馴染の凪沙なぎさという女の子とも仲良くなった。


 すごく可愛い女の子で、サラサラとした髪の毛を胸よりも長く伸ばしている笑顔の似合う美少女だった。

 物静かで大人びているのに、よく笑う、人付き合いの上手な女の子だった。

 皆から人気で、接しやすい高嶺の花のような、女子の羨望の眼差しを受ける存在だった。

 時雨ともまるで夫婦のように仲が良く、凛奏は羨ましかった。

 

 ――凛奏は凪沙になりたかった。

 

 三人は学校生活でずっと一緒にいるようになり、凛奏は転校先の小学校でいじめを受けることはなかった。 

 時雨も凪沙も、人見知りな凛奏に優しく接してくれた。それは同情などではなく、一人の個人、一つの個性として、差別ではなく、区別してくれていた。凛奏はそれが嬉しかった。


 凛奏は歌だけではなく、料理にも挑戦し始める。料理上手な凪沙に少しでも近づくためだ。五感のうちの視覚が乏しい凛奏は、視覚以外の五感を最大限に活かそうとする。

 凛奏はある時から、時雨のことをシグと言うようになる。凪沙の真似事だが、時雨はそれを受け入れてくれた。


 やがて凛奏は時雨に特別な感情を抱くようになった。

 生まれて初めての経験だったので、凛奏は心が擦り切れ、破けそうな感覚に困惑する。一緒にいたいのに直視できない。話したいのに話すことも怖い。だからそばにいるだけでいいというもどかしい気持ち。そして、時雨と最も近くにいて、最も話をする凪沙がすごく羨ましかった。


 それが恋だと気づいたのは、小学六年生になった頃。

 

 小学六年生のとき、時雨が凛奏に誕生日プレゼントをくれた。それは、『フチなしの丸眼鏡』。凛奏はすぐにレンズを取り付け、一生大切にしようと誓った、


 いつしか、凛奏と時雨はふたりで会うことが多くなった。凪沙には申し訳なかったが、それでも凛奏は自分の心を留めることはできなかった。

 やがて、凛奏と凪沙が話す機会はなくなっていった。

 

 中学一年生になり、凛奏と時雨と凪沙だけ黒石中学校に通うこととなった。凛奏は休日は毎日時雨と遊びに出かけた。そして4月も終わる頃、ふたりは海に行く。


「海、綺麗だな」


「いじわるだよそれ。ボクには見えないもん」


 夕焼けが海を照らしている。でもそれを凛奏が見ることはない。その夕焼けに照らされた海の光は、凛奏の眼前でモノクロに変化してしまう。まるでシャボン玉が凛奏の瞳の上で破裂してしまうみたいに。


「ナギ……来ないの?」


「ああ、喧嘩しちまった」


 時雨はあまり聞いてほしくなさそうな顔をしていたので、凛奏はそれ以上詰問しない。


「シグ。シグってなんで、自分のこと『僕』って言うの?」


 時雨は腕を後ろについて長座しながら、海ではなく空を見上げている。時雨は昏い目で、飛び方を忘れた小鳥のように空を眺めていた。切なく、虚しく、儚く。


「『僕』って、なんか知的でかっこいいなって思っただけだよ。皆が『俺』だとつまんないでしょ。逆に聞くけど、なんで凛奏は『ボク』って言ってんの?」


「なんでだろうね。自分に自信がなかったからなのかな。今では癖になっちゃったっていうのもあるけど」


 凛奏は時雨の顔をスケッチでもするかのように凝視するが、時雨は空の虜になっている。凛奏は嫉妬するように自分の鎖骨まで伸びたサラサラな髪を撫でた。


「凛奏。なんで中学の皆に全色盲のこと言わないんだ?」


「別に言う必要ないかなー、って。シグとふたりだけの秘密だし」


「元小の奴らは全員知ってるだろ。中学の範囲って意味なら凪沙も」


 胸の中にトロトロな甘酒が詰まっているような異物感に襲われた凛奏は、頬を膨らませながら時雨に視線を送る。だが時雨は全く気にかけていないようだ。時雨は依然として空に恍惚としている。時雨の見る空を凛奏はひどく渇望した。


「凛奏から見たら、僕ってどんな人?」


 時雨の突然の質問。凛奏はそれに首を傾げたが、考えるよりも先に喉から言葉は出ていた。


「優しい人かなぁ」


 時雨は凛奏の目をじっと見つめてから、「そうか」と言い、また空を眺める。


「シグから見たボクは、どんな人?」


「そうだな……暗くて、人付き合いが苦手なヤツ」


 その響きに、凛奏は顔を伏せて砂浜に目を向けた。


「――あと、まあ……優しいヤツ」


 付け加えた言葉を聞いた凛奏は、すぐに時雨の顔を見る。時雨は空に目を向けたままだったが、明らかにさっきまでとは違うところがあった。


「あれ〜? もしかして顔をアカくしてるの〜?」


「してねーよ、バカ」


 強がる時雨の心意気を尊重するため、凛奏は口元を隠しながら笑う以上は何もしない。


「そういや凛奏さ、歌詞進んでんの?」


「ぜんぜん。まだ題材も決まってないの」


 時雨は見捨てるように空から目を離した。そして凛奏の瞳を視線で突き刺す。


「じゃーさ、ふたりでつくろうよ」


「え?」


「僕は歌詞書いたこととかないからあんまわからないけどさ」


 時雨は照れくさそうに凛奏から目を逸らし、海に視線を移す。顔をアカくしてるんだろうな、と凛奏は心の中で微笑んだ。


「うれしい! 題材とか決まってるの?」


「全色盲について」


 時雨は注意深く海を見ている。海底に潜む何かを探すように。


「それって……」


「デリケートな部分かもしれないから、少しでも嫌なら止めるよ。でも書きたいって思った」


「なにを?」


「僕の無知を」


 凛奏は思わず首を傾げる。無知なのはボクの方だ、と反論したいところだったが、嫌われたくないからやめた。


「君はさ、色を知らないだろ。でも、僕は無色をしらない。だから、一番で僕の無知を描いて、二番で君の無知を描くのはどうかなって」


「なんだか素敵だね」


 凛奏は海に目を向ける。いつかイロの付いた海をこの目で眺めたいな、なんていう願望が凛奏の胸を埋め尽くす。


「いつか」と時雨は言う。凛奏も時雨に目を移す。


「いつか凛奏の目が治ったとき、色の彩られた同じ海を一緒に見よう、って約束覚えてるか?」


 凛奏は優しく柔らかく微笑んだ。


「うん、もちろん」


 海の鳴き声は、凛奏にはまだ届かない。



*****


 

 次の日の4月30日。凛奏が公園のベンチで読書をしていたとき。


「こんなところで読書かい? 随分と勉強熱心なんだね。それとも本が好きなのかな?」


 凛奏の隣には一人の男が座っていた。顔立ちは上品に整い、その美貌と組み合わされた笑みを見れば、女性は間違いなく落ちてしまうだろう。でも、凛奏は全くそんな感情を抱かなかった。それは人の形をしているが、人だとは到底思えなかったからだ。


「は、はい」


「なるほどなるほど。君は太宰治と芥川龍之介が好きなのか」


 凛奏はもう一度肯定しようとしたときに異変に気づいた。本日、凛奏が持ってきた書籍は太宰治の短編集だけ。なのにこの青年は、見事に凛奏の好きな作家を全て当ててきた。


「え……? なんで?」


「凛奏ちゃん。ボクは死神なんだけどさ。ボクと契約しないかい?」


 死神は薄ら笑いを顔に貼り付けながら、ピンとこない発言をする。


「契約?」


「そう、契約。契約の内容は三つある」


 死神は淡々と契約の内容を話し始めた。

 一つ目は、凛奏の視力を三ヶ月かけて回復させ、三ヶ月後のある日に色を与えること。

 二つ目は、この世界の誰かの視力が三ヶ月かけて低下し、三ヶ月後のある日に失明すること。

 三つ目は、凛奏とは無関係のこの世界の四人が死ぬこと。

 凛奏も最初は拒絶した。自分の色盲のために五人を犠牲にはできない、と。だが、そんなのは聞こえのいい詭弁で、それを死神は見透かしていた。

 死神は時雨の話を持ち出してきた。


 このままだと、凪沙に取られてしまうのではないか? 女の武器を使えば、きっと時雨は落ちてしまう。だから、凛奏が時雨を手に入れるためには、『色の彩られた同じ海を見る』約束を果たさなければならない。そう、助言という名の悪魔の囁きをしてきた。


 凛奏はどうしようもない不安に駆られた。その不安は溢れた水のように同心円状に広がり、凛奏の心を蝕んだ。そんなことありえないとわかっていても、悪い方に思考を展開してしまう。

 不安とはそういうものだ。


 ――結局、凛奏は死神と契約することにした。


 死神との握手を終え、契約を交わした。


「おめでとう『時雨』くんはキミの物だよ」


 死神はそう言ってから立ち上がり、どこかへと去っていった。



*****


 

 次の日、時雨と凪沙の両親が亡くなった。

 交通事故だった。ニュースを見たときに凛奏は呼吸困難に陥った。


 それを機に凪沙の態度が一変した。落ち着いて冷静だった美少女は見る影もなく、幼児退行して体だけが成長した精神年齢の低い少女になってしまったのだ。ところかまわず時雨に抱きつき甘えるようになった。

 それが両親の死と深く関係していることを察した凛奏は、酷い罪悪感と共に、自分のせいではないという現実逃避を胸に抱いた。


 ――それから一ヶ月後、時雨が凛奏に自分は失明すると言った。だから約束は果たせないと。


 凛奏はろくに運動もしてこなかった脆弱な体を精一杯動かして、あの公園に足を運ぶ。


「やあ、久しぶりだね。元々可愛かったけど、垢が抜けてさらに可愛くなった気がするよ」


 待ち構えていたように死神がベンチに座っていた。凛奏は即座に契約の解消を求める。


「解消? そんなのできるわけないでしょ」


 だが、ある条件を満たせば時雨の失明は食い止められると死神は言った。

 その条件は――、


 一つ目、時雨が凛奏の眼球を潰すこと。

 二つ目、これを誰にも口外しないこと。


 この契約を時雨とも交わすと死神は言った。

 さらに、最終手段を提示された。それは、時雨から色と、この件と、凛奏との思い出を消すことによって、失明ではなく全色盲で留めるというものだ。


「健闘を祈るよ」


 死神はそう言って、去っていった。

 


*****



 それから一ヶ月間、凛奏と時雨の距離は遠くなった。見えない壁が断罪するように二人を隔てた。凛奏の視力は回復し、時雨の視力は弱まっていった。凛奏は時雨に嫌われる努力をした。

 でも、直接的に時雨を傷つけることはできなく、自分の価値を貶めることしかできなかった。


 7月に入ったとき、時雨が凛奏を呼び出した。ひとけのない準備室に呼び出されたとき、ようやく時雨が自分の眼球を潰してくれると、凛奏は安堵とともに決心した。


「凛奏。実はな、僕は死神とある契約をした。それは君の眼球を僕が潰したら、僕の失明を食い止めてくれるっていう内容」


 時雨の口から漏れた言葉は、凛奏が聞いてはいけないことだ。それを聞いてしまえば、契約はたちまち燃えくずのように消え失せてしまうだろう。

 だから凛奏は焦った。動機を激しくし、呼吸を荒らげて、まぶたを閉じない。


「なに……言ってるの? いいから、いいから早く! 潰しなよ! ボクの眼球を! そんなこともできないの! 意気地無し!」


 時雨はそびえたつ樹木のように動じない。


「僕は君の眼球を潰すことはしない。しかも口外したから契約は取り消されたはずだよ」


「ち、ちがう……ま、まだ……まだ間に合う。きっと……きっと……だ、だから――」


 時雨は凛奏の体を両手でがっしりと掴む。


「いいんだ……もう。もうこれで、これでいいんだ……」


 顔は見えない。時雨がどんな表情をしているのか、時雨が今何を考えているのか、凛奏にはわからない。凛奏は涙を堪えきれない。時雨の優しさに溺れる自分に対する悔しさからの涙だ。


「なん……で? シグとナギの両親が亡くなったのも、シグが失明するのも、ナギがあんなに不安定になって、精神年齢が下がっちゃったのも……全部、全部ボクのせいなんだよ?」


「そうかもしれない」


 時雨は言う。


「だけど、君は何もしてない」


 凛奏が時雨の顔を見ると、時雨は笑っていた。でも、すごく悲しそうだった。


「君は僕の親を殺してもいないし、僕から眼球を奪うこともしていない。君は、何もしていないじゃないか」


 凛奏は強く時雨の体を抱きしめた。溜まった想いを、感情を、懺悔を、後悔を全てぶつけるように。それを時雨は温かく受け取ってくれた。


「いやー参った。これは参った。感服だよ。エクセレントだ。素晴らしい。ハハハハハ」


 隣には死神が立っていた。どこからともなく現れた死神を見て、凛奏と時雨は一歩後ずさりする。死神は手袋をつけた手で拍手をしながら近づいてくる。


「怖がらないで? ボクはキミたちを助けに来たんだから。時雨くん、キミに提案がある。キミの失明する未来を、イロの見えない未来に書き換えてあげる。その代わり、キミの記憶から、イロと、この件と、ここ数年の凛奏ちゃんとの思い出を削除する。それはすなわち一種の死だ。キミという存在を形成する大部分を削除することになる。キミは死に、新たな人格が生まれることになるだろう」


 ――時雨はそれを承諾した。


「記憶と感情は別物だ。たとえ記憶が無くなっても、この感情が色褪せることはない」


 そう時雨は言った。

 一ヶ月の猶予を与えられた凛奏と時雨は、時雨の余命一ヶ月をふたりで過ごすことにする。学校を欠席して、色々なところに出かけた。ふたりは時雨の記憶のことなど忘れて、幸せのひと時を過ごしていた。だが無情にも時は止まらない。その日がついにやってくる。



*****


 

 ――7月31日。

 

 時雨の命日。

 凛奏はその日を海で過ごす。もちろん、時雨とふたりきりで。

 三ヶ月前と同じように、夕焼けが海を照らしているらしい。時雨は弱くなった眼球に映るイロを事細かに説明してくれた。


「凛奏。一番だけ歌詞を考えた。でも二番は考えてないから、凛奏が考えてくれ」


「…………うん。わかった」


「僕さ、字汚いから、凛奏に書いて欲しいんだ。メモ帳あるか?」


 凛奏はメモ帳とシャープペンシルを取り出す。そして時雨は凛奏に歌詞を伝える。ゆっくりと、海面の波が広がるような速度で。その歌の名前は――、


【僕は眼球をささげる、暗い目をした君に】


 凛奏はメモ帳をぎゅつと抱きしめ、涙を堪える。


「僕は今日、ここで死ぬ。肉体的な意味ではなく、精神的な意味でだけどね。新しく生まれ変わったシグレには関わらなくてもいいよ。そのシグレは、ここにいる時雨ではないから」


「ボクの……ボクのせいで……ごめんねシグ……本当に……ごめんね……」


「ごめん、よりは、ありがとうの方が嬉しいかな」


 凛奏は泣き出してしまった。自分が死ぬわけでもないのに。むしろ、凛奏は色を手に入れることが出来るのに。


「そんな顔をしないで」


「シグ……」


 時雨が凛奏の頭を撫でた。この世の何よりも柔らかく、優しく。

 それに凛奏は名前を呼んで反応する。縋るように。哀しむように。


「これ、もらっていくよ」


 時雨は凛奏から眼鏡を受け取った。そして、時雨はにこやかに笑った。


「君はちゃんと僕以外の友達を作ること。信頼できる親友。そして、大切にできる恋人。そんな素晴らしい人たちに囲まれながら、陽気でお淑やかな女性になるといい」


 少女の―凛奏の涙は止まらない。

 涙腺が生きているかのように、涙が蠢いていた。


「シグがいなくなって、ボクは……ボクはどうすればいいの……」


「忘れないでいてくれれば、いいよ。それだけで」


 凛奏は鼻をすすり、目に残った涙を拭き取った。最後くらい笑っていたいと、そう思った。

 凛奏は時雨に近づく。時雨も凛奏に近づく。互いが互いを望み、ゆっくりと顔だけが近づく。


 凛奏も時雨も、目を閉じない。

 彼我で一つだと言いたげに、互いの瞳を眼球に刻みこもうとする。それが決して消えない刺青――いや、入れ墨になったとしても。


 海面を漂う小波がもどかしくなるような速度で、唇がゆっくりと近づく。それを海は嗤う。

 ピタリと時雨の動きが止まった。体がプルプルと震えだし、必死になにかを我慢している。

 凛奏は時雨に声をかけようか迷ったが、やめておいた。時雨が笑えなくなってしまうから。

 あと数ミリまで迫った唇が段々と遠ざく。


 時雨の瞳の光が失われていき、昏い瞳が、冥くなっていく。

 時雨のまぶたが閉じていく。眠るように。消えてしまうように。

 そして、全身から力が抜け、時雨は背中から砂浜に倒れそうになる。

 そんな中、時雨は凛奏に片手を伸ばした。暗闇の中で一筋の光に縋るみたいに。


 だが、その一筋の光である凛奏は、何も出来ない。ただ、時雨が砂浜にぐったりと倒れ込む様を眺めることしか出来なかった。


 そして、その時が来たのだと凛奏は理解した。もうこの世のどこにも『時雨』はいない。『時雨』という存在は、煙のように上空に舞い上がり、そのまま空気と同化してしまう。


 なぜ凛奏にそれがわかったかと言うと、それは凛奏の眼球に色が宿っているからだ。


 その場に倒れ込み、意識が乖離した時雨の色を凛奏は見つめる。死んでしまった時雨の顔の色を、人生で初めて見る色というものを眼球に焼き付ける。


 入れ墨を刻み込むように、凛奏は眼球を時雨に向ける。決して消えないくらい強い烙印を押すように。


 砂浜でひとり寂しく佇む凛奏は、砂浜で死んでいる時雨を見ながら、心の中で誓う。


 

 【ボクは眼球を捧げる、冥い目をした君に】


 

 ――そうして時雨は死に、シグレが生まれた。

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