学祭二日目6 『歌姫と木偶の坊』

「おいおい、ナギサちゃん大丈夫か?」


 体育館の中央に座っていると、隣のユウがそう問いかけてきた。

 あと数十秒でリンカの出番が来る。でも、結局ナギサは現れなかった。これはきっと、いや、確実に僕のせいだ。でも、これ以外に打てる手なんてなかった。


「おい、シグレ。おまえなんか知ってんのか?」


「え? 知ってんの?」


 ユウの穿った見解に、フウマが同調するように聞いてくる。僕はそれをあしらうように、


「……はじまるぞ」


 その言葉と共に、体育館――会場が暗闇に包まれる。

 幕が開き、うっすらと人影が見え、瞬時に人影が照明に照らされた。


 ステージの後方には、色々な楽器を持ったクラスメイトがいる。

 そして、前方のセンターには、サイドテールに触角の美女がアコースティックギターを構えて、スタンドマイクの前に立っていた。


 リンカを含むステージ上のクラスメイトは拍手喝采を浴びる。思わず耳を塞ぎたくなるほどの大歓声に包まれた場内。

 そのどよめきの矛先は、一人の少女に向けられている。


 リンカはマイクを握り、曲名を告げる。



【…………ボクは眼球をささげる、冥い目をした君に】



 千人を超える大群衆のどよめきを、たった一人の少女のたった一言が鎮める。今この場を支配しているのは、他でもないリンカだ。数秒前まで歓声を上げていた人たちも、一人の少女の喉から出てくる音を期待し、渇望する。


 観客の喉を鳴らす音すらよく聞こえてくるほどの静寂に包まれた場内。

 会場内の客は、私語も、挙動も、瞬きも、息を吸うことすらも忘れ、一人の少女に目と耳を奪われた。


 そんな大勢の視線と期待を一身に受けるリンカは、深く深く深呼吸。その息の音がスピーカーから流れ、観客は息を呑み、瞬きすら惜しみ、リンカを凝視する。


『――僕は眼球が欲しい』


 リンカの歌声と共に、演奏が開始。ギターやドラムなどの楽器の音が、間奏を紡いでいく。

 始まりを告げる歌声を聞いた群衆は、再び盛り上がりを見せた。その大きな喧騒に負けじと間奏を響かせる楽器とその所有者。


 リンカはギターを弾きながら、マイクに顔を近づける。


『――君は色の中で微笑んだ』


 間奏が終わり、リンカが歌い始めた。観衆は感嘆や雄叫びすら出さず、とても高校生とは思えない少女――リンカ――いや、歌姫の奏でる音を肌と耳で感じる。


『――――――――』


 歌姫は歌う。華麗な演奏と共に華麗な歌声を響かせ、観衆の喝采をも掻き消すように。

 歌姫は笑う。奏でられた演奏に言葉を、想いを乗せるような艶やかな旋律と共に。


「リンカちゃん……すげぇ……」


 左にいるユウが、無意識に感嘆を漏らした。

 僕に向けた言葉ではない。無自覚に口から漏れてしまった称賛だ。


 そんな観客の感嘆や感慨を度外視にして、歌姫は人の心に溶け込むメロディーを紡ぐ。一音一音を丁寧に、花でも愛でるかのように、慈しみながら発声する。


 人々は時間という概念を忘れ、今のこの一瞬、今のこの一秒を生きる。歌姫の歌が時間を忘却させ、歌姫の声が秒針となり時間を与える。


『――君は色の中でうそぶいた』


 二度目の間奏を終え、二番が始まる。曲調を掴んだ観客が手拍子を始めた。

 手拍子に讃えられながら、曲がサビに突入する。


『――ねえ、どうして。ねえ、どうして。ボクの勇気は死んでるの』


 佳境に入った歌姫の曲。その一音すら逃さまいと、観客が手拍子をやめ、歌姫に耳を傾ける。


 歌姫は悠然と歌う。

 歌姫は釈然と笑う。


『――ねえ、こんなに。ねえ、どんなに。動悸だけは止まってくれないの』


 歌姫は哀然と歌う。

 歌姫は依然、笑う。


『――夢だと、天の川は枯れたよ』


 歌姫は泣きながら歌う。

 歌姫は涙を流し、笑う。


 歌姫は――リンカは泣いていた。僕が遠目で見てもわかるくらいにはっきりと。

 なにより、スピーカーから流れる音が、涙を含んだように潤んでいた。


 ――だが、リンカは――歌姫は、くじけたわけじゃないだろう。

 歌姫の涙を込めた歌声は、不細工ではない。逆に、曲に命を吹き込み、歌を生々しく活性化させた。曲という名の生物が、マイクを通ってスピーカーから出てくるような、そんな錯覚を引き起こす。


 歌姫の――少女の涙ながらの歌声。それに、ある人は瞠目し、ある人は涙を呑み、ある人は涙を流した。


 少女の――歌姫の歌声は、流れるせせらぎのように人の心に侵入する。土足で踏み込むのではない。人の心の汚れを洗浄するために、歌姫のせせらぎは音を立てて流れるのだ。


『――嗚呼、ボクに眼球はいらない』


 歌姫の――少女の――リンカの最後の音を境に、演奏が終わり、曲が止まる。


 場内は、無人のような静けさに呑まれる。それは、歌が終わってしまったことによる喪失感からくるものだろう。良き夢に耽りたいように、歌姫の歌声に人々はもっと耽りたかった。


 その沈黙。


 しかしその沈黙は、一瞬で対照的なものになり、地響きが起きるような大歓声に変化する。

 大声を上げ、リンカを――歌姫を称える者。静かに涙を流し、感服する者。色とりどりな歌声を披露した歌姫には、色とりどりな称賛が贈られる。

 それは、拍手と共に。それは、涙と共に。


 歌姫は――少女は――リンカは――いや、疾風凛奏は、涙を流しながら屈託のない笑みで、


『――ありがとうございました!』


 感謝を伝え、ステージ裏へと去っていった。 

 疾風凛奏という名の歌姫は、ステージ上から消えても尚、拍手喝采を浴びる。


 たった五分弱の歌でだ。その程度の時間で、彼女は客に、聞き手に感動を与えた。たぶん、この五分間よりも濃い五分間など当分現れないだろう。音色と共に海馬に染み付いたこの記憶は、簡単に色褪せたりはしない。


 そんな神秘的な歌姫――リンカの発表が終わり、観客の期待値が、一秒一秒指数関数的に上がる。


 次の歌い手はどんなに上手なんだろう?

 次の歌い手はリンカよりも上手いのだろうか?

 と根拠のない憶測と期待が胸中を埋め尽くし、全体のハードルを上げていく。


 もはやリンカでも超えるのが難しいほどまで上がったハードルに挑戦する者が現れた。

 それは鎖骨まで髪を伸ばし、左目の目尻の下に泣きぼくろを付けた華奢な女の子。


「良かった……」


 僕はほっと胸を撫でおろし、それからステージの中央に立つナギサを凝視する。


【…………カツアイ】


 ギターなどの楽器は持たないため、スタンドマイクではない。両手でマイクを握りしめ、期待と希望に塗り固められた舞台に、独り放り投げられた少女――ナギサが曲名を言う。その選曲に、場内が湧き上がった。


『――平行線のその先で、ボクは泣いていた。割愛された純愛は、純粋に歪んでいく』


 ナギサの歌声を皮切りに、間奏が流れる。

 僕は不安になりながらも、独りの――いや、一人の少女の勇姿を見届けることにする。


『――ボクと君との確かな線が、いつか交わるんだろうって、そう思ってた』


 ナギサの歌は綺麗で上手だ。

 ――だが、それは一般人や、そのへんの歌自慢と比べた場合だ。


 とてもじゃないがリンカよりも勝っているとは言えない。

 その原因として、ナギサの歌声はひどく震えている。


 おそらく緊張からきているんだろう。

 ナギサはなかなかのあがり症だ。

 こんな大群衆の大歓声を目にしてしまっては仕方ない。


『――ボクと君との確かな線は、あくまでも平行線だって、そう気づいた』


 だが、仕方ないと捉えるのは、ナギサをよく知っている人のみ。

 むろん、そんな人はこの会場どころか、この世界に僕しかいない。

 だから、さっきまで高揚し、気持ちを高ぶらせていた観客が、次第に首を傾げだす。


 なぜ、この子が後なんだろう? と。


 会場は騒然とし、なにやら私語を始め、ナギサの存在を疑問視する声が多く上がる。

 会場の雰囲気を察したのか、ユウが、


「ナギサちゃんやばくね? 大丈夫か?」


 と僕に囁く。僕はユウの言葉を無視し、唇を噛みしめることしかできない。僕が精神的に追い詰めたからこんな事になったんだろうか? と後悔が一枚一枚、心に積み重なっていく。


『――いつしか世界はニヒリズムに染められて。喚いて嘆いて泣き叫ぶ』


 リンカのときとは正反対の状況。残念そうに首を横に振り、ナギサに目も向けてくれない人。スマホを触りだす人。友達と談笑をする人。最悪な色とりどりに満ちた会場。

 それを察知したのか、ナギサの声が余計震えだす。

 そんな中、曲はサビを迎える。


『――平行線のその先で、ボクは泣いてい――――』


 ガン! と大きな音を立ててナギサのマイクが床に落ちる。


 同時に不快な金属音のようなハウリングが場内に鳴り響く。反響したハウリングの音に、観客は耳を塞ぎ、不満や嫌悪をあらわにした。


 ボーカル不在の演奏。場内を埋め尽くした不快なハウリングの音。この二つが不協和音となって、場内に響き渡る。歌手を失った曲で、演奏が独り歩きするという秩序の乱れた状況。


 ナギサは座り込み、耳を塞いで、立ち上がれなくなった。


 彼女が座り込んで黙り込んでいる間も、時間と演奏だけは止まってくれない。

 やがて一番が終わり、二番が始まる。だが、素晴らしい演奏には、歌詞は乗らない。楽器の音だけが悲しく奏でられていく。


 一部の観客はブーイングを始め、それは会場全体に蔓延していった。


 最低最悪な状況。アウェーのようにブーイングの嵐となった会場。その非難や糾弾の数々に、演奏の音すら掻き消され、一人の――否、独りの少女が、不躾に批判される展開。


 中には会場から出ていく人も現れ始めた。

 依然としてナギサは両耳を塞いだまま、割座して微動だにしない。

 曲が二番を終え、三番――ラストスパートに突入する。激しくテンポの速かった旋律は、三番に入ったことで落ち着きを見せる。でも、ボーカルはいない。


 ――ボーカルはもう、死んでしまっている。


 そんな死んだボーカルに死体蹴りをするように、親指を下に向けて非難の声を出す群衆。


「あいつら……」


 ナギサを責め立てる一部の人達に、ユウが怒りの視線を送る。だがそんなのは、数の暴力の前には何の効果もない。


 噛み締めていた僕の唇から血が流れ、舌先を鉄分の味が支配する。拳を握りしめ、どうか、どうにかなってくれないか、とひどく傲慢な願望を抱く。


 ――刹那、ゆったりとしたメロディーとブーイングの嵐の中、一人の少女がステージ上に現れた。


 その少女は、マイクを片手に持ちながら、ナギサが落としたマイクを拾う。

 その少女――歌姫が現れたとき、観客から湧き出るブーイングは淘汰され、場内には再び静寂が訪れた。

 その歌姫は、二本持ったうちの一本のマイクをナギサに差し出した。


 マイクに音は入らなかったが、歌姫はナギサに何か伝えた後、マイクをオンにして、


『――水平線のその先で』


 と、歌姫――リンカは歌い出した。 

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