学祭二日目7 『無色な世界に佇む君』

 ――イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ…………。


 ナギサの脳内にはこの三文字しかなかった。

 ステージ上で割座して座り込み、今自分に向けられているブーイングを聞かないために耳を塞ぐ。ナギサにはそうやって殻に閉じこもり、ボーカルの責務を放棄することしかできない。


 ――負ける? 迷惑をかける? このままじゃ……シグレを美術準備室に呼ぶこともできなくなる。詰問し、問いただし、責め立て、眼球を潰さなくてはならないのに。負けてしまう? 


 ――なら、立たなきゃ。


 ナギサの行動理念は憎悪と怨嗟だ。だが、そんな負の感情を望む観客など一人もいない。


 依然、ブーイングは止まってくれない。視力の低下したナギサからは、自分を非難する人の顔なんて見えっこない。でも、相手から自分は見えている。その恐怖で、体が、全身が戦慄し、震えだし、立ち上がることすらできなくなる。


 ――なんで皆、ナギのことばっかり責めるの…………。


 シグレもモモコもカレンもユウコもアカネもミドリも、会場の観客も皆、ナギサを傷つける。ただ普通に生きたいだけなのに。ただ普通に生活したいだけなのに。どうしてナギサばっかりがこうも責め立てられなければならないんだ、とナギサの頭にはそんな疑問が連呼されていた。


 ――もう、もう諦めよう……。


 ナギサが歌うことを、立ち上がることを断念し、もっと硬い殻に閉じこもろうとしたその瞬間、


「――そんな簡単に負けることは許さないよ」


 声が、声が聞こえた。耳を塞ぎ、心を閉じたナギサに声が聞こえた。

 ナギサが顔を上げると、そこにいたのは、もう出番が終わって勝ちが確定した少女である、歌姫——リンカ。


 リンカはナギサにマイクを差し出し、


「昔みたいに一緒に歌おう。ほら、立って。――――ナギ」


 リンカは満面の笑みでナギサにマイクを手渡した。そして、ステージのセンターに向かい、歌を歌いだす。


『――水平線のその先で』


 ――リンカが助け舟を? どうして? だってもう勝ちは確定してるはずなのに? ナギサをさらに貶めるため?


 ――違う。

 リンカはそんな計算なんてしてない。善意からくるものでもない。

 ただリンカは、ナギサと歌いたいんだ。


 それが、ナギサにはなんとなくわかった。


『――君は泣いていた』


 リンカがマイクを片手に歌を歌う。観客から非難なんてされない。むしろ会場は盛り上がりを見せている。


 そんなの…………悔しい。


 ナギサはこのとき、憎しみなどの憎悪ではなく、初めて悔しいという感情を抱いた。今まで人の目ばっかり気にしていたナギサが今は、この瞬間だけは、千人を超える大群衆への羞恥より、一人の少女に対しての無念さが胸を支配していた。


 怒りや不審、嫌悪、憎悪ではない。


 ――ただただ、負けたくないという思い。


 その思いでナギサの脳内はいっぱいになる。

 ナギサはマイクを握り、立ち上がる。


 今も尚、会場を支配する歌姫の隣に立って彼女に視線を送る。

 その視線は、深い感謝の現れであり、絶対に負けないという堅い意思の現れであり、一緒に歌うという宣言でもあった。


 リンカはナギサの目を見て、にっこりと微笑む。そのままマイクを口から離し、ナギサに次を託した。

 その行動にナギサも微笑み返し、力強くマイクを握る。そして、


『――君の涙がボクの黒薔薇に零れて潤った』


 とても、とてもさっきまで耳を塞ぎ、責務を放棄し、殻に閉じこもっていた少女とは思えない歌声。その音には、一切の屈託も、澱みも、震えも何もなかった。


 ナギサを非難していた人々は言葉を失い、自分たちが追い込んでしまったのでは? と勘違いと反省を始める。


 ――だが、そんなのナギサには届かない。


 ナギサにとってそんなのどうでもいいことだった。

 今は千人を超える大観衆なんてナギサにとってカカシでしかない。


 ナギサの弱った視力が捉えるのは、たった一人の歌姫だけ。


 彼女と共闘して、彼女を打倒しようと、そんな闘志を燃やしていた。

 それはリンカも同様である。


『――――――』

『――――――』


 打ち合わせなどしてないはず。

 仲だっていいわけではないはず。

 なにより敵同士のはず。


 なのに二人の少女は、歌詞を交互に奏で、見事なデュオを披露する。二人の少女は、テレパシーでも使っているのかと思わせるほどの以心伝心ぶりを見せる。


 観衆は目を見開き、二人の少女が奏でる旋律を耳に入れることしかできない。


 一色の絵の具では大した物は描けない。だが、二色揃えば、一色のときとは桁違いに完成度の高い絵を描くことができる。まして、その二色がかけ離れた存在なら尚のこと。会場のキャンバスに――否、千人の内の一人一人のキャンバスに、二人の少女が奏でる歌声が彩られていく。それは音として。それは色として。


 観衆一人一人が別々の絵画を心に抱く。それは文字通り千種類の絵画であり、千通りの想いだ。千を超えるキャンバスが、会場というキャンパスに蔓延し、さらにそこから、千ではなく、万を超える色合いに変化する。


 そのような無限に彩られた会場のキャンバスを受け取るのは、たった二人の少女。

 人々はナギサを責めたことを恥じ、人々はリンカの凄さを再認識する。

 千人の中でブーイングをする人なんて、もう誰もいなかった。


 そんな状況で、曲はラストのサビまで差し迫る。

 二人の少女はマイクを顔から離し、互いが互いを見つめ合う。そして同時に笑顔を浮かべ、同時に息を吸い、同時に大観衆へと目を向けて――、




『『――魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする!!』』




 二人の少女の歌声が色鮮やかに重なり、最後のサビに突入する。


 そこから、交互には歌わなかった。

 己が己のために、隣で歌う少女に負けじと音を、声を、歌声を紡ぎだす。


 リンカが規格外の歌唱力を見せつけ、それに対抗するナギサが格段にレベルを上げる。


 追いつかれそうになるリンカが、それに対抗し規格外のさらに上を行くという構図。


 そんな螺旋とも思える急激な実力の高め合いは、切磋琢磨とも相互扶助とも言い難い。

 確固とした意思を持つ、威風堂々な二人の純粋な歌唱力の勝負だ。


 同時に同じ歌詞を歌っているのに、それが一色になることはない。赤と青が混ざって紫になるのではなく、赤と青と紫の三色が生まれるような、そんな幻想的な中和。


『『――平行線のその後で、ボクは嗤っていた』』


 音と音が混ざり合い、色と色が混ざり合い、新たな音、新たな色が、今この瞬間に誕生する。

 二人の少女――否、二人の歌姫は後のことも先のことも考えない。今歌うこの曲に、今出すこの一音に、全身全霊を込めて、『カツアイ』という旋律を紡ぎ、奏でていく。


 二人の歌姫は歌う。会場の大観衆全員を黙らせ、追い打ちをかけるように歌声を届けながら。

 二人の歌姫は笑う。己の高まっていく実力、それを認知し、さらなる高みへと歩みを進めながら。


『『――甘い黒の薔薇は、君の慈愛で満たされた』』


 二人の歌姫は歌う。この心地よい時間を愛でるように。そして、高揚した気持ちをぶつけるために。

 二人の歌姫は笑う。キャンバスに独特な、繊細な絵を描き、この『イロのない世界』に色を与えるために。


『『――君に届いたよ、ボクの赤薔薇』』


 最後の一言と共に、演奏が終わり、曲が終わる。


 大観衆は声も拍手も出せない。なぜなら、歌が終わったことを理解できなかったから。一人一人の内奥に煌めくキャンバスは、まだ色褪せていないから。まだ色濃く心に宿るキャンバスが、二人の歌姫の歌声を心に刻みこんでいるから。だから、歌の終焉を実感できなかった。


 しかし続々と、静かな会場に違和感を覚える者たちが現れる。

 これだけの歌声を披露した二人にこの静寂は似合わない、と。


 会場は瞬時に大喧騒に包まれ、二人の感謝の言葉をも掻き消す。それはただ手を叩くという動作ではなく、己の魂からの、心からの拍手だった。感謝と感嘆の拍手。


 その拍手は一分以上鳴り止むことはなく、二人の歌姫の影響力を大々的に象徴した。


 そして、この二人の歌姫のどちらかを選ぶという残酷な決断を、観衆は課せられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る