学祭二日目5 『絶対ニ許サナイ』
美術準備室。ここは基本的に鍵は閉まっていない。
ナギサは椅子に座りながら、カメラ内の写真を眺めていた。
時計を見ると、ちょうど四時三十分だった。もうそろそろ戻らなくては皆を困らせてしまう。
この学祭とその準備期間で、ナギサには友達ができた。まだ親密とはいえないが、まがりなりにも友達と言える人がナギサにはいる。
「戻らないと……」
シグレとカレンの会話を耳にして逃げ出してから、ナギサはずっと一人でここにいる。仮にもグループリーダーであるナギサがいなくなり、皆困惑しているだろう。もう十分に迷惑はかけたが、これ以上は取り返しがつかない。
ナギサは重い腰を上げ、美術準備室のドアノブに手をかざしたその瞬間、
「それなー」
ドアの向こう側で足音と共に、女子数名の談笑が聞こえてくる。それは、ユウコ、アカネ、ミドリだ。飛び出しておどかそうとナギサがドアノブを捻る。
「ナギサちゃん、まじ意味わかんないよね」
ナギサのドアノブを捻る手が止まり、硬直する。
「自意識過剰なんじゃない? 今いなくなってんのも、もしかしたら皆の気を引くためとか?」
「うわー、シグレくんとか? リンカちゃんに勝てないからって……なんでもありだね」
「昨日ルカくんにも色目使ってたし、ほんとやばいかも。悲劇のヒロイン気取りとか生理的に受け付けないわー」
爆笑しながら、三人は通り過ぎていった。
ナギサはドアノブを握ったまま止まっている。
「……そっか」
ナギサはドアを開け、歩き始める。目的地は、体育館――ではない。屋上だ。
三階まで上り、屋上への階段の前にたどり着くと。先約がいた。
真っ白でストレートなロングの髪。白――いや、透明な肌。赤と青のオッドアイ。
そんな神秘的な少女が、車椅子に座りながら、階段を見上げていた。
ナギサが呆然と彼女を眺めていると、それに気づいた少女がナギサを見る。
「…………ごめんなさい。通りたいですよね」
鈴の音のような美声だった。人間が発するとは思えない澱みのない声音。
白雪姫を連想させる白貌。妖艶を通り越した神秘性。それらは実在する人間とは思えない。
「あ、は、はい……」
「あなたは、恵まれていますね」
少女は無感情に微笑んでそう呟いた。その美貌、その美声、その言葉にナギサは言葉を失う。
「自分で自分の命を絶つことができるのは、幸福なことだと思いますよ」
少女はにこりと笑ってから唖然とするナギサを置きざりにし、ハンドリムを握ってどこかへと消えていった。
ナギサは少女の姿が見えなくなってから、階段を登り、屋上へと足を踏み入れる。
空は嫌味かというほど透き通っていた。雲ひとつなく、太陽が直接ナギサを照らす。
なんなら、ナギサの心まで照らしてくれそうなくらい眩い光だったが、体という名の器に光は遮られ、逆に心に影を作る。
ナギサは誰かに必要とされている。それは勘違いだった。
ナギサが友達と思っていた人たちだって、ナギサなんていなくても悲しまない。シグレだってそうだ。自分は存在しているだけで、迷惑な存在だし、疫病神な存在だ。
だったら、だったらもう……
――――もう、いいや。
ナギサは鉄柵を超え、狭いスペースに立ち、地面を眺める。
途端に、ナギサの手足が震え、死にたくないと本能が泣き出した。
でも、さっきの少女の言う通り、自死することができる時点で、ナギサは恵まれているのかもしれない。
ナギサは全身から力を抜き、屋上から落下した。頭から落ち、風がナギサの顔にぶつかる。
体が重力に抑え込まれ、体と地表が磁石のように引き寄せ合う。高速で落下しているはずなのに、時がゆっくりと遅く感じる。
耳元では風を切る音が鳴り、胃の残留物がのし上がる――いや、下っていく感覚。
地面が近づいて、ナギサは死を肌で感じる。後悔はある。死にたくないという気持ちもある。
――でも、ナギサは死ななきゃいけない。
地面との距離が二メートルくらいまで迫り、ナギサは覚悟を決める。
そのままナギサは地面に落ち、ぐちゃぐちゃに潰れたトマトのように中身が絞り出され、体の内側と外側が区別できないほどべちゃべちゃになり、ナギサの華奢な体が惨憺たる真っ赤な鮮血で染まる――、
「わけないじゃん」
想像よりも柔らかい、というより優しい感覚。何かに包み込まれるような、何かに抱きしめられるような。
痛みは微塵も感じないし、死んだ感覚もない。
――なんだ、死ぬのって結構楽なんだ。
「だーかーらっ、死んでないよ?」
閉じていた目をナギサが開けると、ナギサの体は赤く染まっていなかった。
体勢も逆さまではなく、横になっている。
ナギサの真上で男――白く、少し青い男が笑っている。
「あなた……は」
「こんにちは、ナギサちゃん。リタイアは許さないぞ? こんな高いところから落ちたらレオノアでもない限り生き残れないよ? しかしボクも人生で二回目だよ、こんなの」
白く美しい男――死神がナギサを横抱きしていた。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
死神はナギサの乱れた髪をかき分け整えながら、
「キミみたいに可愛い子の顔がぐちゃぐちゃになったら、ボクの性癖がおかしくなりそうだ。そんな倒錯的な嗜好を持つのは嫌だからね」
死神はナギサを抱えたまま数メートル移動し、ナギサを立たせる。
「なんの用……ですか……?」
「心外だなぁ。仮にも命の恩人だよ? それとももっかい飛び降りる?」
それは無理だ。もう、ナギサは屋上から飛び降りることなんてできない。怖い。ただただ、怖い。飛び降りる瞬間を思い出すだけで、身の毛がよだち、手足がガクガクと震える。
「ボクはナギサちゃんとお話をしに来たんだよ」
「話……?」
「そうお話。愛の告白ではないよ? 『キミが、なぜ失明するのか』について」
……全く、意図がつかめない。理解の範疇を大幅に超えている。
ナギサが失明するのは、未知の病を患ってしまったから。それ以上もそれ以下もない。
「未知の病って、なんで未知の病っていうか知ってる? 文字通り『わからない』からだよ」
「――――っ!! ま……さか……」
ナギサの脳内に憶測が流れ込み、死神の表情がその信憑性を裏付けていく。
「正解。ボクのせいだよ」
死神の言葉で、ナギサの憶測が肯定されてしまう。
考えなかったわけじゃない。ナギサの視力が低下しだした頃に、ナギサは死神と出会っている。だがそれは単なる偶然で、弱ったナギサで遊ぶために死神が現れたと勝手に解釈していた。
「な、なんで……?」
「なんでナギなの? って? 教えて欲しい?」
死神は首の骨を二回鳴らし、人の嫌悪感を助長させる笑みをこぼした。
そして、自分のツヤツヤな唇を潤すようにペロリと舐めてから、
「契約に従っただけさ」
「けい……やく……?」
「そう、契約。4月29……じゃなくて、4月の30だね。その日に『ある人』と『ある契約』を交わしたわけ」
瞬間、数メートル離れていた死神はナギサの前まで移動した。とてもじゃないが目で追える速度ではなかった。
「その『ある人』はね、目の病気を持ってたのさ。ボクはその人に、『この世界の誰かの視力を三ヶ月かけて奪う代わりに、キミの眼を治してあげる。ちなみに、その誰かは失明しちゃうよ』って言ったの。そしたら、その『ある人』は割とすぐにオッケーしたのさ」
つまり、その誰かの眼球の生贄にナギサが選ばれたということ。なんとも報われない話だ。自分の知らないところで勝手に契約を進められ、自分には不利益しかないという不条理。
ナギサは何か悪いことをしたのだろうか? 両親が亡くなってから、同じく両親を亡くしたシグレに頼りっきりで迷惑な存在だったかもしれない。でも、それでも写真家になりたいという夢を掲げ、日々精進してきたつもりだ。料理だって、歌だって、勉強だってそれなりに頑張ってきた。誇れるような人生ではなかったが、胸を張れる生涯にしてみせようと奮闘してきた。
――なのに、なのになんでナギなの?
ナギサよりもひどい人生を歩んでいる人たちなんて、それこそ腐るほどいるはず。誰がナギサをこんな目にあわせたのか。ナギサの写真家の夢も、シグレとの海を見る約束にも、どちらとも眼球が必要なのに。なぜナギサだけがこんなにも理不尽な形で眼球を失わなければならないのか。誰がそんな身勝手な暴挙に出たのか。
――誰が? なぜ? なんで? どうして? 何のために?
気づけば、ナギサは怒りの矛先を死神ではなく、『死神と契約したこの世界の誰か』に向けていた。
直接的にナギサを苦しめているのは死神なのに、怨嗟と憎悪の対象は死神ではない。ナギサはその『誰か』に対して、抑えられない憤慨を感じていた。呪いをかけるように、ナギサはその誰かを怨む。
――死んでしまえばいいのに。
とまで思うくらいに、ナギサは憤怒の炎を燃やしていた。
自分だけ幸せになって、ナギサを地獄に突き落とした最悪のクズ。
間接的に、その『誰か』はシグレまでをも苦しめた。それがナギサにとっては何よりも許せなかった。自分に牙を向けたことより、シグレを苦しめたこと、ナギサの手でシグレの眼球を潰させようとしたこと。それが最もナギサにとって看過できないことだった。
ナギサはその誰かを、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に、
――絶対に許さない。
「シグレくんだよ」
「え……?」
ダメだ。聞いちゃ、ダメだ。耳に入れちゃ、ダメだ。
理解できない、じゃない。理解したくない。これ以上死神に口を開いてほしくない。これ以上真相を知りたくない。これ以上何も知りたくない。これ以上、何も……。
「だから、キミを生贄にしてボクと契約した人は,シグレくんだよ」
「う、うそだっ――――――!!」
「嘘じゃない、本当」
死神は一歩前に出て、自分の額をナギサの額にくっつけた。
――と同時に、ナギサの脳内に『記憶』が混入する。
黒西公園でベンチに座る二人の男——死神とシグレ。まるで実体験するかのように、ナギサは死神とシグレの契約を追憶する。詳らかにはわからない。何を話しているのか。シグレがどんな表情をしているのか。それらは何もわからない。
――でも、シグレが死神と契約したこと、それだけはわかってしまう。
ナギサの中のジグソーパズルのピースが埋まる。契約した人がシグレなら全ての辻褄が合うからだ。
最近コンタクトも付けていないのに、眼鏡をナギサに貸したことなど、その他多くの不可解なピースが死神の一言で綺麗に嵌ってしまう。
「う、う……うそ……うそ、だ……」
わかっている。理解している。死神の言葉が、虚偽でも、たちの悪い冗談でもないことを。現場まで見たんだ。ナギサはわかっている。
だから、自分に暗示をかけるように、自分の声が言霊になるように、せめてナギサという存在だけはシグレを信じていられるように、ナギサは死神の言葉を否定する。
「嘘じゃないよ」
ナギサはその場に崩れ落ち、なにもない地面を眺める。
そんな暗示は無意味で、そんな言霊なんて存在しなくて、ナギサの体と共に崩れ落ちた。
ナギサにとって最も大切で、最も信頼していて、最も幸せになって欲しかった人。そんなかけがえのない人にナギサは裏切られた。ナギサにとってかけがえのないシグレ。
――でも、シグレにとってナギサは、かけがえのある人だったんだね。
「ナギサちゃん、立って」
崩れ落ちて静かに涙を流すナギサに、死神は手を差し伸べる。
それどころではないナギサが無視し続けてると、死神が強引にナギサの両手首を掴んだ。そのままゆっくりとナギサを立ち上がらせ、優しく抱きしめる。
「……ぅ…………うぅ……あぁ…………」
ナギサの精神はとっくに限界を迎えていた。
シグレとカレンの会話。ユウコとアカネとミドリの会話。そこにトドメの一撃がやってくる。
シグレは、シグレだけはナギサを犠牲にするはずがない、そう思っていた。
――でも、違った。シグレはいとも簡単にナギサを裏切り、売り払った。先刻の会話も本心なのではないかと考えてしまう。
精神が擦り切れ摩耗したナギサは、嫌悪しているはずの死神を抱き返す。
そんなナギサの背中を死神は優しくさする。ナギサの嗚咽によってこぼれた涙は死神の胸元を濡らした。
「あまり弱ったキミを必要以上に責めたくないけど、少し考えてみてほしい」
「…………」
ナギサは何も答えない。違う、何も答えられない。全身が、ぐちゃぐちゃに、ばらばらに、砕け散るような、痛みを感じる。シグレとカレンの会話を聞いたときよりも、屋上から飛び降りたときよりも、激しく全身を抉るような痛み。自分という存在を根本から否定されるような、そんな鈍痛。
「シグレくんは、失明するキミに何をした?」
何も、しなかった。ナギサを無視し、いないもの扱いして、酷い罵詈雑言を浴びせてきた。
「イエス。今日だって、カレンちゃんとイチャイチャして、キミを体以外価値のない女だと言った。そんな具合に、彼は何もしないどころか、キミに酷いことを平気で言ったんだ。『キミが失明するおかげで彼に色が宿るのに』だ。キミは写真家の夢を断念しなければならないのに、彼は色を見る夢まであと一歩なんだ。全部キミの犠牲の上で成り立っているのに。許せる?」
――許せ……ない……。
「それどころか、彼はキミじゃなく、大好きな凛奏ちゃんと恋人になろうとしている。キミという屍の上で、彼は他の女と肩を寄せ合い、甘い関係を築こうとしているんだ。しかも、キミが失明する未来を、彼は鼻で嗤い、それまでも利用しようと、キミを侮辱した。許せる?」
――許せない……。
「キミは、かけがえのないシグレくんに裏切られ、夢を諦め、色どころか光をも失い、真っ暗闇に放り投げられる。なのに彼は、キミを裏切り、夢を叶え、色どころか視力も回復させ、終いには、凛奏ちゃんと幸せになろうとしている。彼にとって、キミはかけがえのある使い捨ての駒だったんじゃないの? 許せる?」
――許せない。
「じゃあ、キミはこれから何をしなければならない?」
これからナギサがすべきこと。それはこの一ヶ月間、ナギサがなるべく考えないようにしていたことだ。『無関係』のシグレに迷惑はかけられない。かけがえのないシグレに酷いことなんてできない。
そんな思考から導き出された結論が、シグレに危害を加えないこと。
でも……でも、シグレにとってナギサがかけがえのある使い捨ての駒なんだったら、
――――眼球……潰しちゃっても、いいよね……?
「シグの……いや、津島時雨の、眼球を潰すこと……です」
「そうだ、その通り。だからステージで、殺意と憎悪と義憤を込めた歌声を披露しておいで」
今のナギサに死神の歪んだ笑みや、浅ましく汚れた声は届かない。
ナギサは死神の胸元に顔を埋めながら、コクコクと頷く。
「やっぱ、『シャーデンフロイデ』だよなぁ」
死神の鼻で嗤うような台詞も、悪辣な表情も、最後までナギサに届くことはなかった。
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