学祭二日目3 『失望と絶望で彩られた地獄な現実』
――ぐるぐるぐるぐる。
――ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。
――べちゃべちゃべちゃべちゃ。
意識が、暗闇に、閉じ込められて。自分は、ナギサは、独り、孤独を、骨の髄まで、味わい、噛みしめる。一滴残らず、闇い世界の、闇い静寂を、受け取る。
視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も、味覚も、全てが、淘汰され、自分の、体が、あるのかすら、理解できなくて、自分が、自分なのかすら、判断できなくて、まるで、深海に沈んでしまうような、まるで、砂漠に埋まってしまうような、まるで、棺桶の中に閉じ込められるような、孤独。
そんなひとりぼっちのナギサに、音が、音が聞こえる。
誰かの焦る声。誰かの怒りに満ちた声。誰かの呻き声。誰かの歪んだ嗤い声。誰かの叫び声。誰かの感嘆を漏らす声。誰かの泣きそうな声。誰かの愛する声。誰かの嫌悪する声。誰かの、誰かの、誰かの、誰かの、誰かの、誰かの…………ナギサの。
五感がうっすらと回復し、耳に静寂の音がやってくる。視界が開け、ボンヤリと霧が色褪せていく。鈍い疼痛が頭の中に反響しているが、ナギサの意識が回復の兆しを見せた。
目を開けたナギサは、二年六組の教室内の廊下側の壁に寄り掛かる形で座り込んでいた。
近くの床には、ナギサの大切なカメラが置いてある。時計を見ると、この教室に来てからまだ五分くらいしか経っていなかった。
ナギサは時刻と、この場にいるはずのモモコがいないことを確認し、自分が失神していたことを理解する。
顔が、頬が濡れている。モモコに平手打ちされた左頬の熱を冷やすような冷たい感覚。
その冷たさの原因は、涙だった。
そこで、ナギサは気づく。あの誰かの声は、自分の声だったんだと。
自分が、自我を失いそうな感覚に抗うために色々な感情の声を上げていたのだと。
深海に溺れながらも、ジタバタしてもがくように。
砂漠に埋もれながらも、ガサガサと砂を掻きむしるように。
棺桶の中で、火葬されまいと暴れまわるように。ナギサは感情を荒ぶらせていた。
怖かった。死んでしまうかと思った。いや、死ぬより怖かった。自分が自分で無くなってしまうような感覚だった。ナギサの頬を流れるせせらぎは、悲しみや恐怖ではなく、安堵だった。
たとえようのない恐怖から生還した、愁眉を開くような涙なんだ。
頬をつたう涙と、口の端から漏れた泡を拭き取る。深呼吸をしてから潤んだ視界を周りに向けると、眼鏡が落ちていた。
それを拾ったナギサは目を見開き、これも夢であって欲しいと、夢じゃなければイケナイと、願う。
――眼鏡のレンズに、蜘蛛の巣のようなヒビが入っていた。
フレームなどは無事だが、レンズはもう使い物にならない。
「な、な……んで……?」
シグレからの借り物なのに。モモコが壊したのだろうか? だとしたらそれだけは許せない。気絶したナギサを放置し、シグレの眼鏡を粉砕してから立ち去るなんて、そんなこといくらナギサでも看過できない。
カメラの中身が消されていないことを確認して、ナギサは胸を撫で下ろす。それと同時に、呑んでいた、堪えていた涙がナギサの目頭と目尻から溢れ出した。
「シ〜グ〜レ〜、くんっ!」
声を抑えて涙を流すナギサの背後——廊下から声が聞こえる。
壁を挟んで、すぐそこに人がいる。
ナギサの位置は、教室の扉のすぐそばであり、扉は全開のため話し声がよく聞こえる。なんなら息遣いまでわかる。
「こんなとこで……カレン」
シグレの、シグレの声が聞こえた。優しい声、悲しい声。
眼鏡を破損させてしまったことの罪悪感から、ナギサは息を呑んだ。壁一枚を挟んだ二人の動向を、音だけで盗み聞きする。ナギサは今動くことができない。
少しでも腰を上げたら、ナギサの頭が不透明な壁を超え、透明なガラスに達してしまう。そしたら、すぐそばの二人に見つかってしまうかもしれない。
だから、今は両手で口を塞いで、黙り込むしかない。
「会えて嬉しいよ〜シグレくん」
「僕もだよ」
カレンの猫なで声と共に、シグレの優しく甘い声が聞こえる。
ナギサが聞いたことのない甘くとろけそうな声。
「いや、ここ学校だよ。カレン」
「いーじゃん。誰もいないんだし〜。チューしよっ」
カレンの求愛と、シグレの満更でもないような口調。ナギサの心臓の鼓動が、ビートを打つように悲鳴を上げる。
――チュッ、と音が聞こえた。
少しばかりの沈黙の後、女の荒い吐息が聞こえる。まるで今まで息を止めていたかのような。
「クレープ味だねっ、シグレくんっ」
キスした。この言葉がナギサの脳内に響き渡り、埋め尽くし、塗り固める。
――だって、シグはリンカちゃんのことが…………?
「でもさぁ、可哀想だよねー。ナギサちゃん? だっけ? あの子絶対シーくんのこと好きじゃ〜ん。振ってあげたほうがいいんじゃないの〜?」
「いいや、まだ使える。あいつは馬鹿だし使い道はいくらでもある」
「え〜? たとえば〜?」
「そう、だな……体、かな。顔は……どうでもいいけど、体は悪くないし。ぶっちゃけそれ目的で接してるというか。ま、そんなこと全然ないから、そろそろ捨てようか迷ってるところ」
シグレの言葉を鼓膜に入れてしまったナギサは、息を吸うことすら忘れ、ただただ絶句していた。頭が追いつかず、理解できない。理解したくない。
「え〜? 最低〜。体目的〜? シーくん酷すぎぃ〜」
ナギサは叫びそうな体を懸命に抑え、泣くことすら忘れて口を必死に塞ぐ。
「それにあいつ、あと二週間で失明するからな。介護とかは怠いけど、そっち目的ならむしろ歓迎かもな。抵抗のしようもないし。難病患ってくれて万々歳だわ」
「ひっど〜、私のこともそんなふうに思ってるの〜?」
「カレンは本気だよ」
また小さな音が鳴り響いた。何かと何かが触れ合う音。
それはたぶん、唇と唇が触れ合う音だ。
「………………なぁ、カレン。今度、海でも見に行かないか?」
「海? なんで〜?」
「色の彩られた同じ海を、カレンと一緒に見たいから」
それは、ナギサとシグレが交わしたかけがえのない約束。なんぴとたりとも不可侵な聖域。ナギサとシグレを固く結ぶ、細くも頑丈な糸のようなもの。
ナギサの息が荒くなり、また涙が落ちる。両手で口を塞いでも、涙だけは止められなかった。
「ん〜、い〜いよん。……約束しよっ?」
「あぁ、約束だ」
ナギサの中で何かがプツンと音を立てて切れた。自分の信頼を、期待を、願望を、希望を、尊厳を、心を、想いを、土足で踏み躙られたような感覚。
ナギサはカメラを持ち、眼鏡は見捨て、教室から走り去る。二人の真隣を通ることも厭わないくらい、ナギサは全力疾走で駆け抜けた。
どこに向かうのかも決めないまま、ただただ今の、この瞬間を走り続ける。あわよくば遥か後方にいる一人の男の子が追いかけてきてくれるのでは、という淡い期待を、微かな希望を胸に抱いて。
――だが、ナギサを追う人なんていない。
抱いた希望はあっさりとあしらわれ、絶望へと彩られていった。
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