学祭二日目2 『譲れないモノ』
「話って、なんだろ……」
二年六組の教室前に到着したと同時に、ナギサの口から声が漏れた。
教室の廊下側の壁は、床から一メートル上までは不透明で文字通り壁だ。だが、それよりも上はガラス張りになっていて透明である。
だから、教室の外からでも中を見ることができる。
窓際の一番後ろのところに人が立っていた。その人はクラスの学級委員長で、大きなカメラを持っている。
そのカメラは、料理の邪魔になるという理由でナギサが教室に置いてきたものだ。
「モモコ……ちゃん……?」
ナギサはおそるおそる教室の中に入り、モモコの元へと歩く。だが、モモコが先にナギサに詰め寄った。
モモコの眼光には憤怒が宿っている。
「そ、そのカメラさ、な、ナギのだから……その、見たいならいちおう言ってほしいな……ご、ごめんね……」
ナギサとて、何をされても許すことができるほどお人好しではない。所有物であるカメラの中身を無断で見られたのだ。ナギサには怒り、注意する権利がある。
――だが、そんな度胸や気骨はない。ナギサは人を怒るのが苦手だ。その人が悲しい気持ちになることを考えると、胸が痛くなってしまう。だから咄嗟に謝ってしまう。
自分が悪くなくても謝罪してしまうこと。これはナギサの悪い癖だ。
「……どういうつもり」
「ど、どういうつもりって……?」
「なんなのあの写真」
「なんなのって……?」
モモコは持っているカメラに一度視線を落とした。
「津島くんばっかじゃない……」
やはり見られてしまっていた。でも、それはナギサがやましい気持ちで撮ったわけじゃない。盗撮だってナギサはしていない。
「シグしかお友達いないからさ〜。あははは。必然的というか、そんな感じなんだよねぇ」
「じゃあ、あの写真はなに?!」
「も、モモコちゃん落ち着いて? ね? シグの写真が多いのは謝ります、ごめんね。…………し、シグって結構イケメン……だよね? だ、だから映えるというか、インスタ映え! みたいな感じで撮る機会が多くなっちゃったんだよねぇ」
後半に関して、ナギサは弁解になると思っていた。
だから、その発言がモモコの堪忍袋の緒を切ることになるのは、あまりにも想定外だった。
外の喧騒とは正反対の静寂に包まれる三階——二年六組の教室内に乾いた音が響き渡る。
それはナギサにとって青天の霹靂の出来事だった。
響いた音が消えてから、自分の左頬が熱を帯びていることを自覚する。
「モモコ……ちゃん? 手……痛くない……? で、でもナギはちょっと痛かったから、その、もう叩かないでほしいな……ビンタするとしても、あと一回だけにしてほしい、かな……」
暴行を加えられても尚、謝罪と気遣いをするナギサ。それはナギサの本心から出た言葉だったが、モモコには届かない。むしろ程度の低い詭弁を並べているとモモコは勘違いしてしまう。
「とぼけないで――――ッ!! リンが……リンカが……どんな気持ちでいるのか……わかってるの……?」
わからない。わかるわけない。ナギサは死神じゃない。だから人の気持ちなんてわかるはずもない。
「モモコちゃん……」
「いっつもベタベタつきまとって、甘えて、頼って……リンカの気持ちを少しでも考えたことはあるの……?」
ある。考えたことくらい、ある。ナギサがシグレと話しているときに、たまにリンカが二人を見ていたんだから。わからないなりに、リンカがどんな気持ちなのか、考えたことはあった。
「ごめんね、モモコちゃん。ナギ――私、屋台に戻らないと」
これ以上は暖簾に腕押しだ。モモコは感情に支配されている。ナギサが何を言おうと、モモコの激昂は止められないだろう。だからここは距離を置く。それがナギサにとっての最適解であり、最善策だ。
「――ッ!! 待ちなさいよ!」
振り向き、教室を後にしようとしたナギサの手首をモモコが掴む。言葉にできない感情を打ち付けるように、ナギサの手首が握りしめられる。
「考えたことくらい、あるよ」
モモコが文句を垂れるよりも早く、ナギサが声を出した。
ナギサは眼鏡を外して、それを片手で握った。視線を交錯させ、本音を話すために。
「察してもいるよ。でも、それとなんの関係があるの?」
ナギサは苦笑しながらモモコに疑問を投げかける。これ以上は火に油を注ぐだけだとわかっていても、ナギサの口は止まらなかった。
「あるに決まってるでしょ!? リンは津島くんのことが――」
「シグとリンカちゃんは付き合ってるの?」
モモコの口が止まる。突然何かにせき止められたかのように、モモコの口から音は鳴らない。
「…………ち、違うけど……で、でも、リンと津島はりょ――」
「シグはリンカちゃんの物なの?」
モモコの開いた口が再び止まり、何も言えなくなった。頬を硬くし、目を丸くしている。
「違うよね、シグはシグ。誰の物でもない。だから、戦うの」
「……なにと……?」
「自分と……リンカちゃんと」
たぶんモモコは歌のことだと思ったのだろう。彼女は目を細め、眉をしかめる。だが、真意を悟ったのか、すぐに目を見開いた。
「あんたが勝てるわけないでしょ!? だって津島は――」
「リンカちゃんのことが好き、でしょ?」
「わかってるなら、なんで……」
「ナギにも――ボクにも引けないこと、それくらいあるよ」
モモコは露骨に眉根を寄せた。理解不能だ、と言いたげに。
「負けるとわかっていても? そんな負け戦でも……?」
「うん。勝てるなんて思ってない。でも、負け戦は負け戦でも、戦うか戦わないかには、致命的な差があると思う。戦って負けるのと、戦わないで負けるのは、全然違うから」
「なんで……そんな……」
「大切だから」
「大切……? それはリンカだって!!」
ナギサは深く息を吸う。すぅーっと音を立てて、空気がナギサの肺に入り込んだ。
「もし、ボクとシグのどっちかが失明しなきゃいけないなら、ボクはボクの失明を選ぶ。それくらい大事」
心の奥底から出た言葉。一度血迷っておいて言うのはひどく滑稽だが、これはナギサの本心だ。シグレの犠牲の上でナギサが幸せになるなら、ナギサはそんな紛い物なんていらない。たぶんシグレもそうだから。
もし、シグレが『イロを見えるようになる』代わりに、ナギサが『失明する』なら、シグレはきっとナギサを取ると思う。あくまでもたとえ話で、空想の世界だけど。
それはナギサからの強い信頼であり、強い期待だ。がんじがらめに塗り固められた、膨張した理想とも言える。
――シグレがナギサを犠牲にするはずがない、という。
「意味が……意味がわからない。少しもわからない。なんで、なんであんたは――ッ!」
「モモコちゃんは、シグのことが好きなの?」
そんなわけがないことを、ナギサは知っている。モモコには別に好きな人がいることくらいナギサにはわかる。むしろ親友を苦しめるシグレをモモコは嫌っているだろう。これはナギサなりの抵抗であり、ナギサなりの発破のかけ方だ。
これを言われたら、モモコは引くしかない。
「そんなわけ……」
モモコの放つ激昂の勢いが衰えた。
それを機に、ナギサが屋台に戻ろうと背中を向けると、
「…………眼鏡」
モモコがそんな呟きをした。ナギサが今一度振り返ると、モモコはまたナギサに詰め寄る。
「その眼鏡、あんたのじゃないでしょ」
プライドが邪魔をしたのか、ここで引くわけにはいかないと考えたのか。
正直勘弁して欲しいとナギサは嘆息。このままでは埒が明かない。
「借りてるからね」
「…………あんたのじゃない。渡しなさい」
「それはシグに聞いてみないと。ボクの——ナギのじゃないからこそ」
ナギサはぐうの音も出ない正論を述べた。ナギサの所有物ではないからこそ、シグレに確認を取らなくてはならないという道理。モモコは完膚なきまでにナギサに言い負かされる。
だからといって、モモコの溜飲が下がるわけもない。
そしたら最後の手段は一つしかなくて、
「渡しなさい――――――ッ!!」
モモコはカメラを机の上に置いてからナギサの胸ぐらを掴み、廊下側の壁――ガラスにナギサを叩きつける。
追い詰められたナギサは必死に離れようと、奪われまいと抵抗する。
「やめて――っ!」
強引に眼鏡を奪い取ろうとするモモコと、懸命に足掻くナギサは揉め合いになる。
でも、壁側に追い詰められたナギサが圧倒的に不利で、ナギサは手に持った眼鏡を床に落としてしまう。
眼鏡が無傷なのを察して、ナギサがほっと胸を撫で下ろしたと同時に、
「あんたなんかより、リンの方があいつのことを想ってるれ!! 部外者は関わるなッ!」
モモコが怒気を帯びた声音を出す。それに合わせて、ナギサの後頭部がガラスに打ち付けられた。ガラスは無傷だが、ナギサの方はそうもいかない。
「あんたもリンカも狂ってる!! あんな男を好きになるなんて――ッ!」
モモコのシグレを侮辱する発言も、今のナギサには届かない。今のナギサはそれどころではないのだ。打ち付けられた後頭部が悲鳴をあげている。
ナギサの全身から力が抜ける。睡魔が唐突に襲ってきたような、そんな意識が刈り取られそうな感覚。視界が靄に覆われたようにボヤけ、目の前のモモコの顔も捉えられなくなる。
力が抜けたナギサの体は崩れ落ち、その場に座り込んでしまう。
――これは夢だろうか? 現実なんだろうか?
夢? 夢ってなんだ。現実? 現実って、なんだ。
すぐ近くでモモコが何か言っているが、ノイズがかかったように不明瞭だ。
――このまま、ナギは、死んじゃうの……?
ナギサの意識が遠のき、魂が吸い取られるような奇々怪々な感覚を味わう? 痛くない。苦しくなイ。まるで、真っ暗闇二、放り投ゲ、られル、よウ、ナ。顔の左が熱い熱い灼けるように熱い?またモモコちゃんにぶたれたのかな?やめてって言ったのにノニノ?熱いノ?冷たイ?消えるようナ色褪せるようナ無くなるようナ変わるようナ正気を失いそうになりナギサの頭が疑問符で埋め尽くされる?正気?笑気?もう失ってなイ?怖いこと言わないナイナイナイノノのノノの心ガ蝕まレムシバ?虫歯は痛イカラ治さないトちゃんと歯磨きしないからなるんだヨ?してるの二?歯磨キ?じ分みがきもシテルヨ?あれここどコ?
シグに、レグ二会いたい。
――誰でもいい……シグでも、リンカちゃんでも、モモコちゃんでも、ユウくんでも、誰か……誰か、ナギを……ナギサを助け…………られるわけないでしょ? オマエは紛い物だもの。マガイモノ? 絵? あぁ? 魂ガ、自我ガ、自分ガ、ナギサガ、ナギサ? ■■? ボク? ナギ? シグ? レグ? 死神? 悪魔? ナギは……ナギは、ボクで、ボクじゃなくて、ボクジャナイノ? ナギはボクデショ? ボクはナギが嫌いで、キライニナラナイデ? ナギは何もわからなくて――。
意識が、遠のいて、真っ暗な、独房に、閉じ込められ……。
ナギサの狭まる視界が最後に捉えたのは、大切な人の、大切な眼鏡だった。
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