【零章】 『ボクは眼球をささげる、昏い目をした君に』

 ――2015年4月29日。


 シグレが死神と契約する、四年前。


 凛奏が死神と契約する、前日。

 

 自殺しようとした少女の前に、悪魔が現れた。

 屋上の鉄柵を乗り越え、狭いスペースに立つ少女に悪魔が声をかけたのだ。


 悪魔という割には純白で、端正な顔立ちだった。

 白髪に、毛先は青。雪のように白い容貌。赤い瞳。


 悪魔は少女に一つだけ願いを叶えてあげようと言った。

 少女は数秒考えてから、自分の願いを赤裸々に語った。


「………………キミ、本気……?」


「ええ、本気よ。いくつも頼み事はあるかもしれないけれど、願いはたった一つ。だから大丈夫でしょ」


 悪魔は微苦笑を浮かべる。浮かべざるをえない。


「…………つまりキミの願いは、大嫌いな凛奏に色を与え、大好きな時雨から色を――いや、人格を、命を奪う。さらに、『凪沙』という人格を封印して、『ナギサ』という紛い物を作り出す。その紛い物であるナギサを失明させ、イロのわからないシグレに色を与える。そして、最後には――――津島時雨を、キミの物にする……と。そういうことかい?」


 悪魔は一拍置いてから、その少女の名を言う。

 


凪沙なぎさちゃん」

 


 凪沙は当然と言いたげな視線を悪魔に送り、


「ええ、大体は合ってる。でも、一つ間違ってるわ」


 その言葉に、悪魔は小首を傾げた。


「――アイシテルの。だいすきなんかじゃない。アイシテルの」


 凪沙の訂正に、悪魔は「ククク」と感慨深そうに笑う。


「本気だ――ッ! キミのその言葉は、詭弁でも欺瞞でも眉唾ものでもないッ! 本心から溢れ出た言葉なのかッ! 本気で彼を愛しているのかッ!」


 凪沙は軽蔑するような睨みを悪魔に向けた。


「でもさぁ? 初めの凛奏ちゃんとの契約で四人殺す必要あるの? しかも、それ凪沙ちゃんと時雨くんの両親なんでしょ?」


「罪悪感を植え付ける。あいつは馬鹿な勘違い女だから、生まれ変わったシグレに奉仕しなければならないとか考え始めるわ。その予防策よ」


 平然とした顔で両親を死に導こうとする凪沙に、悪魔は口角を上げて、


「なにかご両親に恨みでもあるわけ?」


 その悪魔の疑問に、凪沙は首を横に振って否定した。


「ママとパパは大好きよ。だからこそ、愛娘のために役に立ってもらうの」


 悪魔は不気味な笑い声を上げて、


「――キミは、イカれてる」


「――あなたはイカれてすらいないでしょ。狂えることのできない、狂人」


「――――殺すよ?」


 悪魔の冷えた声音。常人なら怯えて悲鳴も出せないような脅迫。それに凪沙は微塵も屈しず、


「あなたとなんか、死にたくない」と吐き捨てた。


 自分に畏怖を抱かなかった凪沙を見て、悪魔はますます笑みを強める。


「でも、キミも健気だよね。彼のために髪を切ったり、凛奏ちゃんに近づくために歌を練習したり、一人称を『ボク』に変えたり。なのに、喧嘩しちゃったの?」


「……昨日、告白したの。『アイシテル』って。でも断られたの。だから、最終手段を使ったの。絶対に使ってはいけない手法」


 凪沙の強情だった態度が崩れ、泣きそうな声に変わった。


「女の武器、それでもダメだったんだね。普通の中学生なら、キミみたいな可愛い子に迫られたら抵抗できないと思うんだけどね」


「レグは普通じゃないもの。でも、わかってた。レグが受け入れないことくらい。でも、負け戦でも挑戦しようと思ってしまったの。軽率だったわ。本当に馬鹿だった……こんなことになるなんて……」


「――で、キミは泣きながら懇願したのね。でも、時雨くんはキミを姉に近しい存在としか思っていなかった。あくまで幼馴染としてキミを好きだ、と」


「そんなの求めてない」


「――って言ったわけね。でもさぁ、時雨くんとは幼馴染だったわけでしょ? キミはお世辞抜きに可愛いと思うんだけどさ、時雨くんはキミのことを少しも意識しなかったのかな?」


 凪沙は悪魔から目を逸らし、空を眺めた。昏く彩られた夕焼け。

 その夕陽なんかよりもよっぽど昏い目をして、


「ボクもしてると思ってた。――でも、違った。ボクとレグはとても近かった。誰よりも近くて、誰よりもお互いを理解し合ってた。だから、長い時間をかけてでも、いつか交わると思ってた。――でも、違った。ボクとレグは平行線だった。どんなに近くても、どんなに似ていても、どこまで続いても、決して交わることのない、平行線。そんな中、あの女がやってきたの。苦悩して、苦心して、煩悶し悶々とするボクから、いとも簡単にレグを奪っていったの。二人の直線は一瞬で交わり合った。皆も、それこそレグとあの女も気づかなかったかもしれない。でも、ボクはわかったの。だって、ボクはレグと最も近い平行線なんだから」


 凪沙の苦悩。それを悪魔は聞き、自分の顎を触りながらよく味わう。


「なるほどね。でも、わざわざキミが封印される必要はないんじゃないの? これから作る『ナギサ』という人格、彼女に任せっきりでいいわけ?」


「たぶん、いや絶対。絶対に、レグはボクを女として愛することはない。わかるの。わかってしまうの。ボクを愛さないレグ。あの女を愛するレグ。それら全てを含めて、ボクはレグをアイシテルんだから」


 盲目的な愛。そんな生易しいものじゃない。凪沙は全てを見てきた。津島時雨の全てを。だからこそわかること。

 それは、


 ――彼は自分を愛さない。


 時雨が誑かされてるとか、凛奏が誑かしてるとかでもない。それがわかるからこそ、凪沙に救いはない。

 それはもう、ゴールを失ったマラソンと同じなのだから。


「でも、不安なことは否定できないわ。だから、五回だけ保険を用意したいの」


「保険? 具体的に」


「四年後に契約を交わしてから、三ヶ月後までの間に五回だけ、体の主導権を握ることができる保険」


 悪魔は唇を舐め、「なるほど」と興味津々な様子で頷く。


「別に五回と言わずに無制限にもできるよ?」


「ダメよ。レグの顔を見たら、きっとすぐに使っちゃう。だから、これは自分に対しての縛りみたいなもの。時間も三分だけにしてほしい。あと、もう一つお願いしたいの」


 悪魔は目を細めて、「なんでもどうぞ」と受け入れる。


「左目の目尻の下らへんに、泣きぼくろを付けて欲しいの。薄くて小さい妖艶な感じの。あれ、すごくチャーミングだと思うから、かなりレグに効くと思うの」

「いいけど、姉さんも呼ばなくちゃならないかもしれないな。それは置いといて、キミが体の主導権を握るとき、そのホクロは消す?」


「そうね。そうさせてもらうわ。ボクと紛い物が全く同じだと、気が狂いそうだものね。この泣きぼくろを、ボクと紛い物のターニングポイントにさせてもらうわ」


 悪魔は自分の白い手袋を弄りながら、


「でも、中々緻密な計画だね。だけど、ボクから言わせて貰えば、破綻してるとも思える。だって、誰か一人が一つでもキミの予想と反する行動をとれば、その時点で計画はご破産だ。時雨くんが失明を選んだり、ナギサちゃんがシグレくんの眼球を潰すことを選んだり、とかね。もしこれら全てが的中するのだとしたら、キミはノストラダムスより凄いよ」


 ありえないとでも言いたげに、悪魔は口を歪めて微笑んだ。


「――アイシテルの」


「え?」


「アイシテルの。だからわかるの。レグがどんな行動をとるのか。レグの愛した凛奏がどんな行動をとるのか。新しいボクがどんな行動をとるのか。全部わかるの」


 今の凪沙の視界に、悪魔の姿はない。己が懸想する相手のことしか、視野に入っていない。


「それと、なんで悪魔なんて自称してるのかはわからないけど、それやめて。たぶん計画に支障をきたすから」


「じゃ、『死神』かな」


「好きにして」


 凪沙は鉄柵を乗り越え、屋上のアスファルトを踏む。そして悪魔――死神に近づく。


「――レグはね、昏い目をしているの。いっつも、底の見えないような、昏い目。だから、ボクが助けてみせる」


「キミが昏くしたんじゃないの?」


 凪沙は見えていない。死神のことを――ではなく、時雨以外の全てを。


「…………なによりも『ナギサ』ちゃんが一番可哀想だね。勝手に生み出されて、勝手に光を奪われて、最終的に肉体をも奪われる。間違いなく一番の被害者はナギサちゃんだね」


 死神の指摘を受けても、凪沙が良心の呵責に苛まれる様子はない。

 自分の言葉を無視する凪沙に、死神は歪んだ微笑を送った。


「じゃ、そろそろお別れかな? 凪沙ちゃん」


「待って」


 凪沙は死神を制止し、ポケットから一枚の写真を取り出した。恋焦がれ、アイシタ男。そして、カツアイされた男。その写真に、何よりも嬉しそうな、何よりも愛しそうな笑顔を向けた。


 それから、その写真に優しく接吻をする。

 凪沙は――魔女は――いや、■■は、右頬だけで笑いながら、

 


 

【ボクは眼球をささげる、昏い目をした君に】

 



 ――これは、割愛された女が渇愛されるまでの物語。

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