蛇足     『シャーデンフロイデ』

 海に沈んでいく二人の男女を感じながら、死神は黒東高校の屋上で涙を流す。


 天を仰ぎ、両腕を広げ、夕陽の喝采を浴びるように、死神はその真紅の双眸から涙を零した。


「歪んだ愛。違う。まっすぐな愛。違う。純粋に歪んだ、行き場を失った愛。それは、ありもしないゴールを目指し、歩みを進める。一歩進むごとに何倍も膨張する愛。それは、もう人一人では受け取れないものなんだろう。でも、受け取った。すべてを平らげ、すべてを味わい、すべてを噛み締めた。そして、呪いのように暴走した愛は、一人の心に純愛として収まった。実に劇的で、実に感慨深いものじゃないか」


 死神は涙を拭き取り、ロングコートのポケットに手を突っ込んだ。


「自分に想いを寄せる幼馴染の心に気づけず、恋を独り歩きにさせた。女は追ってはいけないんだ。女は追われなくちゃいけない。男は女を追いかけなくちゃいけない。なのに、他の女を追いかけ、自分を追いかける女のことを気にかけなかったこと。時雨くん、それが君の罪だ」


 死神は続ける。


「自分に想いを寄せる幼馴染を見抜けず、彼女を独り砂浜に置き去りにした。最後に彼女が懇願した『自分を忘れないで』という遺言。そんな簡単なことすら数十分で足蹴にした。彼女の最期の願いすら、君は果たすことができなかったんだ。シグレくん、それが君の罪だ」


「――天然。こんなところで独り言とは、いと酔狂なことですね、■■」


 屋上の鉄扉の前にひとりの少女が立っていた。


 小柄で、身長は百四十センチくらいしかない。

 死神と同じサイズの黒と白で彩られたロングコートを羽織っている。

 が、小柄な体躯とコートのサイズが合っていないのでかなりブカブカだ。

 袖はダラダラ、コートも地面にダラリと垂れている。

 コートの中には何も着ていない。女性にあるまじき服装。


 その少女は長くストレートな白い髪を地面に届くほど伸ばしている。

 毛先は紫紺のような輝きを見せ、幻想的な絶景が擬人化したような、存在すら曖昧な美女。


「姉さんか。その名前は捨てたよ。それにひとりじゃない」


「必然。申し訳ありません。ひとりじゃないというのは一体どういうことなのですか?」


「ひとりじゃないさ。今だってこんなにもたくさんの人たちがボクらを見てる」


 少女は妖しく、しかし妖艶に微笑んで、「釈然」と頷いた。


「それより姉さん、助かったよ。手伝ってくれてありがと。なんかお返しでもしようか?」


「蒼然。そうですね、でしたら今夜――」


「それは遠慮しとく」


 死神の即答に、動揺も見せずに少女は微笑を向けた。


「俄然。彼ら彼女らの、物語を見せてくれませんか?」


 死神は二つ返事で了承。少女の額に自分の額をくっつけて記憶を送る。


「あ……ぜん……」


 少女は涙を流し、端正に整った容貌にさらなる美しさを奏でる。


「どう? すごいでしょ?」


「愕然……美しい愛の、愛の協奏曲……」


 死神は白い手袋を着けた手で、顎を滑らかに触った。


「姉さん。勉強になったよ。記憶と感情について」


「突然。どのようなものと貴方様はみなしたのですか?」


 死神は空に浮かぶ夕焼けを眺めながら、


「記憶は言わば、絵のようなものだよ。一秒一秒を五感で認識して、それをキャンバスに描いていく。もちろん、そのキャンバスに描かれた色が消えたら、絵も消えてしまう。絵画が燃えてしまったら、残るのは爛れた燃えくずだけ。記憶とはそういうものだ」


 少女は瞠目して頷く。


「感情は言わば、刺青のようなものだよ。その一瞬に感じたものを肉体に刻み込む。時間の流れなんて関係ない。この世で時間に抗えるものがあるとしたら、それは感情だけだろう。刻み込まれた刺青が色褪せることはない。消そうとしても、元に戻ることはないんだ。刺青を消すのには痛みを伴う。それと同じで、自分の感情を押し殺そうとすれば、その分だけ激しい痛みを味わうことになる。そして、その痕は一生消えてくれない。感情とはそういうものだ」


 少女は今一度涙を流しながら、「艶然。いい学びを得られましたね、レヴィ」と感服した。


 死神は一度笑ってから、鉄柵に腕をかけ、部活に勤しむ黒東生を上から見下ろす。


「人間ってすごいよね。食べるためでも、眠るためでも、犯すためでもなく、殺すために殺すんだよ」


「敢然。手段と目的の違いですね。一般的に生物は生きるために、種の存続のために殺す。だけど人間は違う。殺すために殺す。中途半端な知恵を宿してしまったが故の過ち。それを人間は気づけない。何度争おうと、何度戦をしようと、何度戦争をしようと、何万人、何億人死なせようと、自分に銃口を向けられるまで、それに気づけない愚か者です。人間を淘汰しようとしたあの人の気持ちもわかります」


「その人も結局人間を愛して堕落しちゃったけどね。じゃあボクらって、殺すために殺すんじゃなくて、手に入れるために殺すわけだから、人間より勝っているのかな? でも、生物の本能に近いような気もするから逆に劣ってたり?」


「依然。わたくしも貴方様も、どちらも人ですよ。ですが、そうですね。三大欲求のために殺す生物。それをはねのけ、我欲のために殺す人間。我々も我欲のために殺しこそすれ、目的を持って殺しています。殺すという目的があるのではなく、殺すという手段を講じて、目的を、本懐を果たそうと健気に尽くしているのです。ですから、答えは出せませんね。答えは、手に入れてからで十分です」


 死神は鉄柵から腕を離し、少女の元へと歩く。


「もうワンハンドレッドまで二十年もないしね、その通りだ。あっちの世界はどうなの?」


「忽然。わかりませんね。ですが、悪くはないと思いますよ」


「不死身なんて悪趣味だよなぁ。いくら殺されても死ぬことはできないなんて」


 少女は白く透き通った髪の毛を優しく撫でながら、


「ルカとツムギは……どうなのですか?」


「んーびみょ。これからが楽しみって感じかな」


「悠然。楽しんできてくださいね、レヴィ」


 死神は「ああ」と頷き、体を反転させ、遠くの空を見る。


「違う。空じゃない、君だよ君。え? 誰って? だからそこの君。今、椅子に座ってる君。今、ベッドで横になってる君。今、驚いてる君。そして――」


 死神は君に言う。


「人の不幸が大好きな君たち。君たちは好きでしょ? こうやって人が苦しんで、もがいてるところ。どう思った? 興奮した? 面白いと思った? 感動した? ハハハハハハ。ほらね、君たちには当事者意識がない。君たちは当事者どころか、傍観者ですらない。ただの俯瞰者だ。この僕を俯瞰する君たちにいいことを教えてあげよっか? 今、君たちがつまらないと思ったのか、呆気にとられてるのか、涙を流しているのか、そんなの僕にはわからない。でも、また新しい人の不幸を見たいって思ったでしょ? だから見せてあげるよ、新しいショーを」


 死神は『君』に言う。


「人の不幸は蜜の味って言うもんね。皆もそう思うでしょ? 人の不幸は蜜の味。それは安全圏から俯瞰することができる。ただ見るだけで自分が感情移入できるんだから、楽でいい。ね、知ってる? 人の不幸は蜜の味をドイツ語で表すとなんて言うか」


 死神は『君たち』に言う。


「始めよう。復讐の連鎖、その螺旋のような渦を『僕ら』の蜜として。君たちが観たい、喜劇で悲劇な復讐劇を」


 死神は赤い瞳を青い瞳に変えて、




【『シャーデンフロイデ』の始まりだ】




 宣戦布告が告げられた。

 『君たち』には関係のない、喜劇で悲劇な復讐劇の。 

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ボクは眼球をささげる、昏い目をした君に 白雨 浮葉 @ryusei10164226

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