第三章1     『異常な日常』

 5月も下旬に差し掛かった頃。僕はもちろん学校に来ていた。


 クラスは二年六組で、席は一番後ろの窓際。


 僕の隣はナギサだ。話し方や精神年齢にそぐわず、ナギサは意外と成績がいい。今も真面目に授業を受けている。


「ね、ねぇシグ」


 ナギサが小声で囁いた。


「なに?」


「ノート見せてくれない?」


「は? なんで?」


 ナギサは一瞬口を噤む。数秒してから、何事も無かったかのように、


「……シグのノートって要点まとめられてて見やすいからさ。ね? お願い!」


 と言った。


「……まあ、別にいいけど」


 こんなことは初めてだ。些か引っかかるところはあったが、特別おかしなことでもないので素直に見せることにする。少し面倒だけど、まあこれくらいならいい。


「ありがと」とナギサは屈託のない笑顔で感謝した。


 そして特に何もなく授業が終わる。終わったと同時にナギサが唐突に、


「へいこ〜せ〜んのそのさ〜きで〜、ぼくはないていた〜」


 大声で歌い始める。まるで幼稚園の合唱コンクールだ。お世辞にも上手いとは言えないので、僕は片手で耳を塞いだ。


「やめろやめろ」


「あ〜、ちみもうりょうをばっこする!」 


 恐れ知らずの陽気な笑顔をナギサは浮かべた。恐れは知って欲しい。


「その歌って有名だったりする?」


「有名だよ! いま流行ってる『カツアイ』って歌!」


「カツアイ……」と僕は復唱する。


「そうだよん」とナギサは微笑み、鎖骨までストレートに伸ばされた自分のクロ髪を耳にかけた。

 いつもの幼稚なナギサとは違い、少し妖艶な雰囲気を孕んでいた。


「ナギサ。お前歌上手いだろ。なんでそんなふざけた歌い方するんだよ」


「なんか音程とかリズムとか気にして歌うのって疲れるもん。だからそういうのはたまにでいいの〜。今は大きな声で熱唱したかったの〜。え? シグ今褒めた? シグが褒めた!」


「クララが立ったみたいに言うな。……まあそれも一理あるのかもな。今度の学祭の出し物で歌ってみたらどうだ?」


 首の後ろを触りながらふと周りを見渡すと、席に座る僕とナギサは周囲の視線を浴びていた。


「そうだねぇ。気が向いたらかな? それかなんかご褒美くれるなら!」


「じゃあ出なくてい――」


 と言い終わる前に、僕らの前にひとりの少女が立っているのが見えた。


 その少女はクラスメイトであり、皆を引っ張る学級委員長だ。さらにリンカとは親友の仲である。


 その少女の名は、高橋桃子たかはしももこという。

 モモコは髪をポニーテールにして縛り、鋭い目線をナギサに送っていた。


「モモコちゃん! どうしたの?」


「山崎さん。今日あなた日直だよ。終わらせなければいけない仕事たくさんあるよ。男子に媚びてる暇があったら、さっさとした方が賢明だよ」


 あくまでも友好的に接しようとするナギサを払い除けるように、モモコは冷徹な口調でナギサを戒めた。

 軽蔑とは違った、敵意を込めた視線と共に。僕にはそれが納得できない。


「そんな言い方――」


「ごめん! 忘れてた! うっかりやさんだったよ! ごめんねモモコちゃん! すぐ行って参ります!」


 僕の抗弁を阻止するようにナギサは謝罪の弁を述べる。続けて、モモコに向かって敬礼ポーズをとり、ホワイトボードに向かっていった。


「委員長、あれは言い過ぎなんじゃないか」


 モモコは何か呆れたような嘆息をして僕に近づいた。


「時雨くん。あなたはどっちを選ぶの?」


 僕は状況を全く理解できていないフリをした。でもなんとなく想像はついた。


「はあ……あなたがリンのことを好きなのはわかってるの」


 永遠に続くような長い沈黙を僕は盾にした。でも、そんな薄っぺらい盾は、彼女の意志という矛に突き破られる。盾を突き破られた僕は非常に脆弱で、抵抗などできない。


「リンカのことが本気で好きなら、あの子と距離を置きなさい」


 その後モモコは何も言わずに自席へと戻っていった。

 僕が呆然としていると、


「おいっ」


 背丈の高い美丈夫が僕に声をかけてきた。


「ユウ」


 その男の名は海瀬悠うみせゆうという。身長は百八十センチで筋肉もそこそこある。さらに超有名月刊誌が主催の美男子コンテストではファイナリストになるという文句なしの男前だ。髪はキンパツに染めているらしい。


「なんでそんな呆けたツラしてんだよ?」


「いや、なんでも……」


「へぇ。てかシグレ、おまえんとこのハニーは?」


「はぁ?」


 ユウは僕の肩に手を回して、


「リンカのこと気になるとか言ってたのになぁ? まあわかる。ナギサちゃんも可愛いもんな。わかるわ。で、ナギサちゃんとはどこまでいったの?」


「どこもいってねーよ!」


 面倒くさいやつに絡まれてしまった。仲はいいのだが、女絡みの話になるとこうやって悪い癖が出る男なのだ。なんせ高校生でホストクラブでのバイト経験ありだ。俗に言うチャラ男だ。


「そんなつれない顔すんなよ、おまえせっかくイケメンなのに。あーそうそう。6月1日の遊園地のやつ。あれ朝八時、黒西の寮のエントランスで集合になったわ」


「八時?! おいおいせっかくの休日に早起きしなきゃいけないのかよ」


 最悪だ早すぎる。僕はブラック企業に勤めているわけではないのに。


「おまえは十分前に起きても大丈夫だろ」


 ぐうの音も出ないのに少し腹が立った。


「なあシグレ、再来週ナンパしに街いかね」


「無理」


 そのあとは普通に授業を受け、異常な日常の一ページを終えた。

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