22

 グラスの中の氷が、カランと音を立てて溶ける。机の向かい側では、沙世が数学の課題を解いている。西高では使っていない名前の問題集だ。そういえば前に先生が、北高では西高よりワンランク上の難易度の問題集を使っているのだと言っていたような気がする。

「千夏は中間試験、いつからなの?」

「来週の水曜日から」

「ふうん、じゃあうちよりちょっと後なんだね。千夏はもう課題終わったの?」

 せわしなくペンを動かしながら、沙世は会話を続ける。

「うん、あらかたね」

「いいなあ。別に怠けてるわけじゃないのに、課題ぜんぜん終わらないんだよ。今めっちゃ焦ってる」

「沙世でもそんなことがあるんだね」

「あるよお」

 明るい声を立てて笑うと、きりがついたのか、沙世は机の上のカフェオレを飲んだ。汗をかいたグラスの指で触れた部分から、つうっとしずくが垂れる。

「そういえば、西高って開校記念日に遠足があるんでしょ」

「そうそう。めっちゃハードだった」

「うわあ、やだなあ。校外学習みたいなのなら楽しいけど、西高の遠足はガチの山登りだって聞いたもん。無理、わたし耐えられない」

「やれば意外とできるもんだよ」

 そう言いながら、千夏もカフェオレに口をつける。

 赤いジャージがぞろぞろと登っていく光景は、今思い出しても異様だった。山頂で生徒歌を歌っているときなんて、あまりの気持ち悪さに悪寒がしたくらいだ。慣れない山登りなんかしたから、みんな頭がおかしくなっているのだ。宗教みたいだと思った。名づけるなら、「理想の生徒教」。謎の一体感と全能感が場の空気を支配していた。先生たちの言うことを聞いていれば進学できるという教えを思い出して、気持ち悪さが増殖した。

「ねえ千夏、ここわかる?」

 沙世の声で現実に引き戻された。ノートを差し出してこちらを覗き込んでくる。

「沙世にわからない問題が、わたしにわかるわけないでしょ」

「もう、千夏はすぐにそういうこと言うんだから。せめて問題くらい見てみないと、わかるものもわからないでしょ。わたしが苦手でも、千夏は得意なものだってあるだろうし」

 沙世は人好きのする笑顔を浮かべた。残酷なことを言う。テストの点で千夏が沙世に勝てたことは一度もなかった。昔から、一番得意な教科でさえも沙世には敵わなかった。部活でも、同じ楽器を同じように、同じ時間だけ練習しているはずなのに、目立つソロはいつも沙世のものだった。

 沙世はすごい。みんなが憧れる天使のような幼馴染が、千夏は誇らしかった。誇らしいだけでは済ませられなくなったのはいつからだろう。沙世に抱く感情に、少しずつきれいではないものが混じっていくのが嫌だった。

 いっそのこと、取るに取りないものとして見下してくれればいい。二人の間にはこんなにも差が開いてしまったのに、沙世だけが未だにお互いを対等だと思っている。その無自覚さに腹が立つ。

「そんなに言うなら、一応見るけど……」

 沙世が差し出したノートを引き寄せる。教科書と照らし合わせてみたが、まだ授業で触れていない範囲だった。

「ごめん、わからない」

 まだ習ってない、とは言わなかった。それを言うのは、自分が一段劣っていることを認めるようで癪だった。

「そっか、邪魔してごめん」

「ううん」

 ふたたび沈黙が訪れる。沙世は問題集の答えをめくり、千夏は英語の教科書の日本語訳をノートに書いていた。同じ静けさなのに、さっきまでとは何かが違う。取り巻く空気が、ほんの少しよそよそしさを含んでいる。たぶん沙世は感じていない。千夏が意識しているから感じるのかもしれない。

 カフェオレのグラスはびっしょりと汗をかいて、机に水たまりを作っている。

「この間、模試の結果が返ってきたんだけどさ」

 沙世が顔を上げずに言う。

「ああ、あれね」

 声が少しうわずった。あの模試の結果は散々だった。同じく先日返却されて、現実に打ちのめされたところだ。

「あれを見て、なんというか、北高の手ごわさみたいなものを実感したんだよね」

 背筋がひやりとした。今、その話は聞きたくない。沙世が話し始めてから、目が教科書を上滑りして、英文の内容が少しも頭に入ってこない。気がついたら何度も同じ行を読んでいた。沙世の声と彼女のシャーペンが紙を擦る音だけが、やけにはっきりと聞こえる。

「わたしね、すっごく傲慢だと思うんだけど、北高でも自分は通用すると思ってたの。一位は無理でも、上位の方には入れるかなって。でもぜんぜんそんなことなくて、得意科目でやっと一桁台に入れるかどうかってところなわけ」

「沙世でも苦戦することがあるんだね」

「するよ、人間だもん」

 沙世があっけらかんと笑う。

「じゃあ、嫉妬は? 悔しいとか、負けたくないとか思わないの?」

 思わず顔を上げて訊いていた。

 妬み、嫉み。いつも千夏の中を渦巻いている、みっともなくて汚い感情。沙世にはないのだろうか。このきれいで完璧な幼馴染の汚いところを見つけて喜びたい。

 千夏の切羽詰まった声に、沙世も手を止めて顔を上げた。少し考え込むようなしぐさをして、千夏の目を見返す。

「悔しかったし、負けたくないと思った。でもそれ以上にわたし、嬉しかったのかもしれない」

「嬉しい?」

「そう。なんか、限界突破した気がして。地元の子どもしかいない中学校で、ずっと自分が一番だったわけでしょ。あの頃のわたしは、大海を知らなければ空の高さも知らない蛙だったんだよ。でも今は、空の高さを知ってる。それが嬉しいの」

 そうやってまた、千夏の手の届かないところまでひとりで行ってしまう。

 笑っている沙世が腹立たしかった。沙世は、自分には千夏しかいないということに気づいていない。素直で善良で誰からも好かれる彼女にとっては、千夏もまたその他大勢の「お友達」に過ぎないのかもしれない。けれど、あまりにいい子過ぎる彼女は、誰からも一線を引かれてしまうところがあった。彼女はみんなを平等に好きかもしれないが、本当に沙世を好きでいるのは千夏だけだった。

「ねえ、千夏はどうだった?」

 屈託なく沙世が訊ねる。

「たいしたことなかったよ。数学なんか上から四分の一くらいだし、一番得意な国語も思ったより微妙だった」

 返却された成績表には、ひとつもSが付いていなかった。数学に至ってはB評価だ。

 成績が返されてから授業が終わるまで、先生が何を言っていたかまるで思い出せない。みんなが自分の成績を確認して、教室は興奮に包まれていた。誰もが安心したがっていた。自分よりできない人を探して、見下したがっていた。不毛で浅ましくて、なのにみんなの気持ちが手に取るようにわかる自分が嫌だった。自分と同じ生き物なのだと痛感する。いや、それを誰にも見せないように繕っている自分は、本当は誰よりも不毛なのかもしれない。

 場の空気に飲まれたのか、前の席のあかりも振り返って話しかけてきた。普段はほとんど関わりもないのに、こういうときだけ話しかけてくるタイプの人が、千夏は心底嫌いだった。わざと面倒くさいのをにじませて対応したが、あかりは意に介さずしゃべり続けていた。

 やばいやばいと言う割に、あかりは安心したような顔をしていた。彼女はいつも作り物めいた感じがある。そう親しいわけではないが、今見せているのが彼女の本当ではない気がしていた。

 ――本当は、やばいとか思ってないんじゃないの。

 思わず言ってしまっていた。あかりが瞳を揺らすのを見て、悪いことをしたと思った。自分が上手くいかないからといって、彼女に八つ当たりしていいことにはならない。

 あかりは「ごめんね」と言って、前に向き直った。謝るべきは千夏なのに、そうやって先にあかりが謝ってしまうから、千夏は謝れないままあかりの背中を見ているしかなかった。また、いらいらが募っていく。

「千夏、どうかした?」

 はっと我に返ると、沙世が顔を覗き込んでいた。

「あ、いや、ちょっといろいろ考えてて」

 千夏の瞳を、沙世の目が追いかける。絶対に目を合わせようとしない千夏に、あきらめたのか沙世はまたペンを動かし始めた。

 余計なことを思い出していたせいで、勉強はあまり進んでいない。一時間がやけに長く感じる。時計の針は、五時を指していた。

「わたし、そろそろ帰るね」

 すっかりぬるくなったカフェオレを飲み干して、千夏は立ちあがった。

「え、六時までいるんじゃなかったの?」

「お母さんにお使い頼まれてたの思い出した」

「そっか、それならしょうがないね」

 沙世はあっさり引き下がった。けれどその顔には「まだ帰らないでほしい」と書いてある。千夏はそれを見なかったことにして、帰り支度を始めた。お使いは方便だ。沙世もたぶんわかっている。でも、無茶は言わない。お互いに、どこまでのわがままが許されるのかは長い付き合いの中でわかっていた。居心地のいい関係でいるためには、なんでも言い合うより言わないでいることの方が大事なこともある。

「ごめんね、沙世。試験頑張ってね」

 荷物をまとめて、ドアノブを握る。

「千夏も、頑張ってね」

 背中に声をかけられる。千夏は振り返らずに「うん」と言って、そのまま部屋を出た。後ろで大きな音を立ててドアが閉まった。

 まだ外は明るいが、たしかに夕方が忍び寄っている。もうしばらくすれば、閑静な住宅街に静かな夜が降りてくる。角をひとつ曲がって、千夏は立ち止った。空を見上げると、白い月が浮かんでいた。また、歩き出す。月は千夏が歩くのと同じ速さで逃げていく。決して追いつくことも追い越すこともできない。

 なんだか沙世のようだ。いや、彼女は遠ざかっている気さえするから少し違うか。千夏の空はいつも、沙世がいるところだった。沙世との差を埋めたくて、追いつきたくて必死なのに、沙世は勝手に空を押し上げてしまう。追いついたと思ったときにはもういなくて、千夏はまたひとり取り残される。

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