あたしの止まり木
9
髪を結う。まっすぐでさらさらした感触に、あかりはまだ慣れない。眼鏡を外して見る空は、高くて開放的だった。
早朝の空は雲ひとつなく、その新しさを誇るように輝いている。春の風は香辛料みたいだ。少しだけとがっていて、新鮮で、むずむずする。とりわけ、今日みたいな特別な日には。
これは暑くなるだろうな、とあかりは思った。春と言っても、四月もそろそろ終わろうかというころだ。日焼け止めを持ってくるべきだったかもしれない。
バスを降りて少し坂道を登る。これからこの山の頂上まで歩いて登るのかと考えると、少々気が重くなる。初めての遠足。友達との思い出作りに期待がないわけではないけれど、登り切れるのかというと不安な部分はある。集合場所の神社の境内にはもう西高の生徒が集まっていた。トレードマークの赤いジャージが点々としている。
昨夜、珍しく姉のひかりから電話がかかってきた。
『明日、開校記念遠足なんだって?』
――そうだけど。
あかりがぶっきらぼうに言うと、なぜかひかりは嬉しそうに、ちょっといやらしく笑った。
『うわー、懐かしい。あたしが高校生だったころとなんにも変わってないんだ。あんた、ちゃんと履きなれたスニーカーで行くのよ。間違っても入学するときに買ったやつとかだめだからね。靴擦れができてひどい目みるんだから』
――えー、履きなれたのって、中学のときの白いスニーカーくらいしかないんだけど。
『うわ、ダサいやつだ。でも、ちゃんとそれ履いて行きなさいよ』
ひかりはふんと鼻で笑った。むかついたが、この姉がこういう物言いをすることに関してあかりはもうあきらめている。いちいち腹を立てていても時間と体力の無駄遣いだし、素直じゃないからこういう言い方をするだけで悪意はないのだ。
――お姉ちゃんは、大学どう?
『楽しくやってるよ。お父さんの目もないから、いちいちうるさいこと言われないしね』
――いいよね、自由そうで。
あかりはため息をついた。県外の公立大学に入学したひかりは、去年から下宿でひとり暮らしをしている。もともと自由な人だけれど、家を出てからは奔放さに磨きがかかっているようだ。
『あんたもできるならさっさと家を出なさいよ』
ひかりが、今度はやさしく笑った。なんだ、こんな笑い方もできるんじゃない、と思ったけれど、姉がこんなふうに笑うようになったのは家を出てからのような気がする。
近況報告もそこそこに、もう眠いから、とひかりは電話を切った。最後に念を押すように、白いスニーカーで行きなさいよと言っていた。
木陰に腰を下ろして、リュックからキャップを探り出す。額のところに校章がついたやつ。ひかりのお下がりだ。頭にかぶって、アジャスターの間からポニーテールを引っぱり出す。中学を卒業してすぐにかけたストレートパーマのおかげで、髪はまっすぐさらさらだ。一か月経った今でもうねうねくるくるしていない自分の髪に慣れなくて、つい触って確かめたくなる。
不満ではあったけれど、ひかりの言う通りに中学生のときに履いていた白いスニーカーを履いてきた。少し黄ばんで薄汚くなっている。後ろのところに大きく「矢島」と書いてあるのを思い出して、恥ずかしくなってきた。こんなの履いている人、他に誰かいるだろうか。
「おはよう、あかりん」
控えめに肩を叩かれて振り返ると、
「マキちゃん莉子さん、おはよう」
とびきりの笑顔で挨拶を返す。これが、高校に入ってからのあかりのルーティンだった。二人の顔を見たら、条件反射のように笑顔になる。あなたたちと仲良くしたいんです、という最大限のアピール。さりげなく二人の足元を確認した。のぞみは白地にピンクの差し色のコンバース、莉子は紺のニューバランス。二人ともおしゃれで、今日も少しの隙もなく完璧だ。さりげなく後ろに回って確認してみたが、もちろん名前なんて書いてなかった。
あかりは自分がこんな間抜けな靴を履いてきたことがものすごく恥ずかしくなってきた。気づかれる前に、どうにか弁明しなければならない。そうしなければ、この二人の隣にいてはいけないような気がした。
「二人とも、かわいいスニーカーだね。あたしなんか中学校のときのやつだよ。お姉ちゃんがこれを履いて行けっていうから。ほんとダサいよね、こんな目立つところにでかでか名前書いててさ、いやになっちゃう。お姉ちゃんの言うことなんか無視して、あたしもかわいいやつ履いてくればよかった」
ごまかすように笑う。いつもより早口になっていたかもしれない。落ち着きを取り戻すために眼鏡のブリッジを押し上げようとして、かけていなかったことに思い至る。焦りまくりだ。ちゃんとごまかせているだろうか。
「えー、いいお姉さんじゃない。わたしもそういうの教えてくれる人が欲しかったな」
のぞみがふわりと微笑む。それだけで周りの雰囲気が柔らかくなるような、儚い雰囲気を持つ子だ。
「それにしても、開校記念日に遠足って時代錯誤も甚だしいよね。愛校心のかたまりみたいな行事だわ」
莉子が投げやりに言う。その飾らない口調がスマートな彼女らしい。一重できつめの目元も、切れ者っぽくてかっこいい。
「まあまあ、そんなこと言わずに楽しもうよ。せっかくの行事なんだし、楽しまなきゃソンでしょ? 始めてみたら楽しいことだってあるかもしれないし」
自分の笑い声の明るさにあかりは驚いた。思ってもいない言葉がぽんぽん出てくる。あかりもこの遠足をそれほど前向きに捉えていたわけではないのに。
高校に入学してから、ずっとこんな感じだ。テンション上げて、元気いっぱいの明るい女の子になりきっている。おかげでハイレベルな友達もできて、今のところあかりの高校デビューは成功していた。
拡声器のキーンという音がして、生徒会の人が「早く並んでください」と叫んでいるのが聴こえた。
「じゃあ、第一ポイントでね」
二人に念を押して、あかりは人の群れの中に入っていった。どうやら生徒は出席番号順に並ぶことになっているらしい。一年二組の列を探していると千夏のうしろ姿が目に入った。「ちょっとごめんね」と言いながら、彼女の前に入り込む。出席順だと矢島は若宮のひとつ前だ。
点呼を取って健康観察をする。先生たちが前の方でしきりに何か言っているが、拡声器の性能がいまひとつなせいで後ろの方にはぜんぜん聴こえない。
「ねえ、先生の話聴こえた?」
話が終わってすぐ、あかりは振り向いて千夏に訊ねた。
「あんまり聞こえなかった」
千夏はまるで興味がなさそうにそっけなく答えた。あまり話したことはないが、彼女は気難しそうだといつも思う。
千夏のひとことで冷めた空気を温め直すように、あかりはそうだよねと笑った。近づきつつも一定の距離を保って、彼女の作ったガラスの壁に、決して吐息をかけて曇らせたりしないように。
出発は、まず一度遠足を経験している二年生。それに続いて一年生。最後に、思い出作りのためにだらだら歩くのを許される三年生。生徒が境内からぞろぞろ出ていく様子は、アリの行列を思い起こさせる。みんな校章のついた黒いキャップに赤いジャージで一列に進む。
そんなことを考えているうちに、前方の集団が動き出した。あかりも置いて行かれないように早足で前の人の背中を追う。開校記念遠足の幕開けだ。
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