電話が鳴る。祐はタオルケットをかぶって耳を塞いだ。布団の上で体を小さく丸める。ベルはなかなか鳴りやまない。

 なんとなく学校に行けなくなってから、何日が過ぎただろう。最初の十日くらいまでは数えていたが、どうでもよくなってやめてしまった。

 電話はいつまでも鳴り続ける。あの耳に障る高い音がむき出しの神経を逆撫でするようで、ぞわぞわと落ち着かない。頼んでもいないのに傍若無人に鳴り響いて、出ない祐を責めている。七コール目で、あきらめたのか電話は鳴り止んだ。

 もちろん勉強がわからなくなったわけではないし、友達がいないわけでもない。いじめられたりしてないし、学校に行きたくなくなる理由など何もないはずだった。

 初めて休んだ日の朝は、霧雨が降っていた。頭が重くて、休んでしまいたいという考えが頭をよぎった。ほんの一瞬、米ひと粒くらいしかなかったはずのその考えはあっという間に増殖して、頭の中がそれでいっぱいになってしまった。

 あの日、もう少しだけ踏ん張れば学校に行けたかもしれない。その次の日も、もう少し頑張れていたらもとに戻れたはずだ。今朝だって、頭痛があったのはたしかだけれど、我慢できないほどではなかった。あと少し。本当に、あと少し何かが違えば、敷かれたレールを踏み外すことはなかったのに。

 ふん、と祐は鼻で笑った。

 バカみたいだ。あと少しが出来なかったから、こんなところでうずくまっているのだ。

 思えば、何か「できない」ことに直面するのはこれが初めてだった。学校を休んでいても、のうのうと寝ていられるわけではない。わけのわからない焦燥感に苛まれながら、なぜ自分が学校に行けないのかをずっと考え続けている。

 母は学校に行っていなくても何も言わないけれど、無言のうちに圧力を感じる。こんな状況になっても、やはり母は干渉してこなかった。

 理解ある母親を演じようとしているならお門違いだ。そう思っていたけれど、開きっぱなしのスマートフォンの検索履歴を見たときにその考えは捨てた。「高校生 不登校」という文字が一番に上がっていて、なんだかいたたまれなくなった。

 家に誰もいないのは幸いだった。母がいたら、とんでもなく悪いことをしている気がして家にさえも居場所がなくなってしまう。

 朝、たまに祐が起きてきて一緒に朝食を取っていると、ときどき何かを言いたそうにこちらを見ている。前はこんなふうに顔色をうかがって話をするような人ではなかった。相手がどうであろうとお構いなしのようなところさえあったのに、今は腫れ物に触るような扱いだ。

 いらいらする。聞きたいことがあるなら、地雷を踏み抜いてでも聞けばいいのに。

 祐はタオルケットを跳ね上げて、大の字になった。窓の外が、少しずつ色をなくして夜になっていく。時計を見ると、八時前だった。

 聞けばいいのに、じゃない。本当は聞いてほしいのだ。

 何を悩んでいるのか、誰かに聴いてほしかった。母じゃないなら、本当の祐を見ようとしてくれる人がいい。どうしてここまで悩んでいるのか、自分自身にもわからない。でも、誰かが聴いてくれるなら、不器用にでも言葉で正解を辿れる気がした。いいかげん、祐は溜めてきた感情を吐き出さなければならない。

 どうも祐は、みんなにある心の一部が欠落しているか、上手く機能していないらしい。だから他人の気持ちがわからないし、複雑すぎる感情を上手く片付けられない。祐の世界がきれいだったのは、どこに収めていいかわからない感情に出会うことがなかったからだ。

 ひたすら自分に向き合うしかない時間を過ごして、祐はそのことにようやく気付いた。

 また、電話が鳴った。三コール、四コール。

 祐はあきらめて立ち上がった。鳴り続けるベルにいらいらするくらいなら、いっそ電話に出る方がましな気がしてきた。電気をつけるのも億劫で、薄暗い中で受話器を取った。

『西高等学校の藤堂です。及川さんのお宅でしょうか』

 先生の声がした。いつもよりよそゆきの、外面の声だ。

「先生」

『ああ、及川か。どうだ、体調は』

 先生の声が、いつもの調子に戻る。

「どこも悪くないです」

『それならいいんだが』

「いいってことはないでしょう。だって俺、不登校なんですから」

 先生が言葉に詰まる気配を、受話器越しに感じた。

「なんで学校に行けないのかわからないんです。何に悩んでるのかも。毎日朝起きて、ほんの少し頑張れなくて学校に行けない自分が嫌になるんです。わからないことばっかりで、知らなかったものに埋もれて、俺が消えていく」

 限界まで張った糸が、ぷつんと切れる音がした。

「俺、おかしいんです。なんかもう、限界で、いっぱいで、苦しい」

 あごの先から涙のしずくが落ちて、足の甲を濡らした。

「俺は、決めるのが怖い。間違うのが怖い」

 声が震える。泣いているのを悟られないように、息を殺す。

 たっぷりと間が開いたあと、先生は口を開いた。

『休んでみたらいいんじゃないか』

 意外な言葉だった。責められたり詰られたり、なだめすかされて学校に来るように言われるのだと思っていた。先生の言葉は、甘くやわらかに祐の耳の奥をなでた。

 急に腰が抜けてしまって、祐はその場にへたり込んだ。左手で受話器を握りしめて、右手は電話台の足を抱くように縋り付いていた。そうしていなければ、座っていることさえできなかった。

『休めばよくなるとか、安直なことを考えてるわけじゃないんだけどさ、休んでみたらいいと思うんだよ、俺は。上手く言えないけど、そんなに変化を怖れるお前の体が、学校に来ないという選択を無意識にしてるんだろ。どこも悪くなくても、それだけで立派に休む理由だよ』

 祐が溜めこんで腐らせたものを、先生の声が押し流していく。電話越しなのに、先生と向かい合って話をしているような錯覚に陥る。顔を上げたら目の前にいて、あの三白眼はきっと優しくこちらを見ている。

『ま、教師という立場上、こういうことを言えるのは周りに誰もいない時だけだけど』

 先生が軽やかに笑う。

『これは俺が感じることだけどな、物事に完全な失敗は存在しない。どの道を通っても、なるようになるんだ。数学みたいにな。すぐに答えにたどり着く解法もあるけど、時間のかかる解法もある。問題は、自分で悩んで解くから面白いんじゃないか。そうだろ?』

 にやりと笑った先生の顔が脳裏に浮かぶ。

 先生の話はきれいごとだ。表面をさらりとなでて、ちょっときれいに見せかけて、本当に知りたい複雑な難しいところは教えてくれない。整っているようで、実は一番ぐちゃぐちゃしている。祐が苦手なものだ。それなのに今、涙が止まらない。

『言っとくけど、休んでもお前は楽になれないよ。むしろ苦しくなることもある。しんどいよ。でもちゃんとそこを通ってきた及川は、もう一回り大きくなれると思うよ』

 先生は「お大事に」と言って電話を切った。病気でもないのにおかしいと思ったが、ある意味では病んでいるのかもしれないと祐は思いなおした。

 先生の言葉は答えではなかった。あの中に確かな正答はないけれど、間違いなく真実を含んでいるのだと思った。心が震えたのだ。そんなことは、生まれて初めてだった。

 祐は電話台につかまって立ち上がった。固く受話器を握りしめていた手は硬直していて、右手で一本ずつ指を外さなければならなかった。

 窓を開けてベランダに出る。海のにおいがした。外の空気を吸うのは久しぶりだ。

 曇っていて、星のひとつも見えない夜だった。かすかな月明かりが厚い雲の隙間から漏れている。ずっと暗い部屋にいた祐には、それさえも眩しかった。

 蝉が目覚めるのは、こんな夜かもしれない。

 唐突に、祐は思った。深く土の中に潜って長い眠りについていた幼虫は、こんな夜に目を覚まして、初めての空を見る。

「学校、行かなくてもいいんだって」

 誰に言うでもなくつぶやいた。

 重苦しい雲に覆われた空は、目覚めの日にはふさわしくない。けれど、こんな夜だからこそ歩き出せると祐は思った。

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