7
ソーラーパネル畑と、赤茶色の屋根が流れていく。向かい合う座席にはまばらに人が座っていて、その向こう側に広い海が佇んでいる。
田舎道を走る電車は、朝でも人が少ない。祐は座席に腰掛けて、リュックをその隣に置いた。それが迷惑にならないくらい、車内は空いている。流れていく変わり映えのない景色をぼうっと眺める。
約束の一週間はあっというまに過ぎた。進路希望調査票は、名前と出席番号のほかに何も書けていない。
高校の最寄り駅が近づくにつれて、乗客が増えてくる。リュックを膝の上に抱えて、座席をあけた。隣にパンツスーツの女性が座る。きつい香水の匂いに、祐は頭が痛くなった。できるだけにおいを嗅がないように息をつめる。ふと、帰りたいなと思った。
高架橋から見下ろすと、片側三車線の道路と塾ビルの立ち並ぶ町が見える。反対側には、いろんな建物に隔たれて小さくしか見えなくなった海。
‟Attention please. The next stop is……„
英語の音声案内が流れて、ドアが開く。香水の人が立ち上がった、祐もそれに続いて席を立つ。ドア付近はいつの間にかすし詰め状態で、祐がホームに吐き出されたのはほとんど最後の方だった。
改札を通り抜ける人の流れの中に、千夏の背中を見つけた。彼女はいつも早く登校しているから違う人かとも思ったが、あのあずき色のリュックは千夏のもので間違いない。
「珍しいね、こんな時間に会うなんて」
「ちょっと寝坊しちゃって」
祐が声をかけると、千夏はそう言って恥ずかしそうに笑った。少し顔色が悪い気がする。
「まあそんな日もあるよね。俺は寝坊したら完全に遅刻決定だけど」
「ほんと、及川くんは学校に通ってるだけでもえらいと思うよ」
赤いレンガの敷き詰められた歩道を、二人並んで歩く。最近梅雨入りした空は、分厚い雲に覆われていた。
「及川くんは、結局どうするの」
千夏に訊かれて、祐の体を全身を針で刺すようなぴりっとした痛みが走った。何をかなんて、訊かなくてもわかる。進路の話だ。
「あの、さ」
歩きながら空を見上げる。ああ、中途半端だなあ。晴れるでもなく降るでもなく、ぎりぎりのところで持ちこたえている空模様が、どっちつかずな自分の心と重なった。
「どうして選ばないといけないんだろうね」
千夏は祐の言っている意味を図りかねたのか、何も言わずに続きを待っている。
「十六歳の決断が、人生を二分するんだよ。おかしいと思わない? 間違えたらどうするの」
「駒沢先生の話なら、気にしなくていいと思うけど」
「……気にするよ」
祐の声は、道路を走る車の排気音にかき消された。千夏が大きくため息をつく。
「及川くんは、自分が置かれた状況が恵まれてるってことに気づいてないよね」
「どういうこと」
恵まれているだなんて、思ったこともない。意味がわからなくて訊き返したけれど、千夏は目を合わせてくれなかった。
「わたしは、というか、きっとほかのみんなも、たいていは及川くんみたいに選んでられないの。駒沢先生は得意不得意で決めるものじゃないって言ったけど、それができるのは器用に勉強できる人だけだよ。凡人はあきらめなきゃいけないの。進学校まで来ちゃって、勉強を強みに社会に出るしか道が残ってないんだから、せめて自分の一番強いもので勝負しようと思うのが当然でしょ」
彼女の目は、いつも変わらず遠くを見ている。どこにフォーカスしているのか知らないが、確実に一点に定まっている。千夏には最初から進む道がある。祐からしてみれば、その方がよほど恵まれている。これも、ないものねだりだろうか。
「でも……」
祐が口を開くと、やっと千夏がこちらを見た。
「及川くん、ちゃんと決めようとしてるの? ほんとは、逃げたいだけなんじゃないの?」
返す言葉が見つからなかった。出したかったはずの言葉が、喉の奥でつっかえている。
悩んでいるふりをして、本当は選ぶことから逃げている。そう言われればそんな気もした。
「若宮さん、やっぱりかっこいいよ」
祐がわからないことまで、千夏は知っている。
祐は笑った。鼻から漏れる空気が少しだけ自虐的な響きを含んでいた。千夏はこちらを見ない。
目の前の信号が点滅して、赤に変わる。足を止めた二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
いつだったかに強引に巻き込まれるようにして始まったあかりの勉強会は、気がついたら火曜日の恒例行事になっていた。本音を言えば早く帰りたいのだが、誘いを断るのも面倒なので参加している。最初こそあかりが声をかけた人だけで行われていたが、最近ではクラスメイトなら誰でも参加できて、課題でも自習でも好きなように勉強していいことになっていた。
ほとんどの人は自由参加なのに、祐はあかりによってほぼ強制的に毎回参加させられる。祐がクラスで一番成績がいいからというのもあるけれど、理由はそれだけではないらしい。
「及川くん、マキちゃんがここわからないって言ってるんだけど」
教室の前の方の席から、あかりが祐を呼ぶ。どうもあかりは「マキちゃん」と祐の仲を取り持ちたいらしい。あまりそう言うことに敏感な方ではないが、ここまで露骨にされれば誰でも察するだろう。
「おい、祐、呼ばれてるぞ」
悟が振り返って祐の肩を叩く。のろのろと立ち上がると、悟に肩を抱かれてあかりのところまで連れていかれた。
正直、こういうことは面倒くさい。祐は「マキちゃん」のマキが名字なのか名前なのかも知らないくらい、彼女に興味がなかった。彼女から声をかけられたこともなければ、あかりを通してしかしゃべったこともないのだ。
マキちゃんのつまずいているところは、それほど難問でもなかった。ちょっとつついてやるだけでするすると答えが出る。
本当に悩んだのか? そこにいる誰もわからなかったのか? その解答集をめくってみれば答えは書いてあるはずなのに、どうしてわざわざ俺に訊く? あんたは俺が好きなのか? 俺が引っ付けている「天才」っていうステータスに、憧れてるだけじゃないのか?
「そういえば、上條くんたちは進路希望、文理どっちで出したの?」
あかりがさらさらのツインテールを揺らしながらかわいらしく首を傾げる。
「俺は文系。祐は?」
悟が先に答えて、祐に水を向ける。
「……実はまだどっちとも決めてなくて。今日は白紙で出した」
一瞬、空気が歪んだ。急に重くなった雰囲気に、時が止まったかのような沈黙。きっと祐の言葉がみんなの普通と違ったのだろう。わかっていた。みんなこんなことでは悩まないのだ。
「はは、なんでもできる天才は選びたい放題ってわけだ」
耐え難い沈黙を、悟が笑い声で裂いた。祐は彼の言葉を残念に思った。
……天才。ああ、お前の目にも本当の俺は映っていないのか。
不思議なものだ。「天才」の自分のままでいたいはずなのに、そうではない自分も知っていてほしいだなんて。でも、クラスの全員にそれを知られたいわけではない。悟だから、わかっていてほしいのだ。
ゆがんだ世界が少しずつ形を取り戻してくる。悟の笑い声につられて、あかりもマキちゃんも、その隣の背の高い女子も笑い出した。祐も笑った。自分の矛盾と滑稽を笑った。こんなにたくさんの人に囲まれているのに、この空間はとても孤独だった。
窓際の席で、ぼんやり外を眺めていた。昼休みのグラウンドは、数日続いた雨でどろどろになっている。乾ききらないしずくが太陽の光を反射して、バスケやサッカーのゴールをきらきらさせてた。
千夏は午後の古典単語の小テストの勉強にかかりきりだし、悟はサッカー部の人に誘われてバレーをしに行ってしまった。期末試験が終わったらクラスマッチがあるらしい。祐も誘われたが、調子が悪いからと断った。嘘じゃない。最近は、いつも自分の世界がぐちゃぐちゃしている。きれいに真っ白に保たれていた祐の内側は今、特撮の怪獣が踏み荒らした町のような惨状だった。
「及川くん」
あかりの声がした。
「隣、いい?」
「どうぞ」
祐は振り返らずに答えた。彼女は座ったきり、何も言わない。話しかけたそうな雰囲気だけ、うっすらと感じる。あかりの気配はいつもどこかわざとらしい。鈍感な祐がそう思うのだから相当だ。何か隠しているようだが、隠しきれていない感じがする。
しびれを切らして、祐は口を開いた。
「なに、次の勉強会なら、俺は参加できないよ。用事があるから」
あかりが話しかけてくる理由で心当たりがあるとすれば、これくらいしかない。
「あの、そうじゃなくて……」
「じゃあなに」
無性にいらいらしている。彼女は悪くないのに。
ごめん、とつぶやくと、あかりは小さく首を横に振った。
「及川くん、マキちゃんのこと好きじゃないでしょ」
予想外の質問で、祐は返事に困った。
「なんで、それを矢島さんが訊くの」
あかりは祐とマキちゃんを引っ付けようとしていたはずだ。祐はようやくあかりの方を向いた。彼女は自分の発した言葉に自分でも信じられない、という顔をしていた。
「なんで、だろうね。というか、及川くん気づいてたの」
「あれだけ露骨にやれば、どんな鈍感な奴でも気づくよ」
「そっか」
あかりは立ち上がって、窓のサンに手をかけた。
「あたしね、人よりちょっとだけ他人の考えてることがわかるんだ。でも、それを知ってどんなふうに振舞っていいかわからなくて、いつも間違えてる気がする」
「あの子たちと上手くいってないの」
あかりの背中に問いかける。彼女はいつもマキちゃんとあの背の高い子と一緒にいるけれど、今日は姿が見当たらない。
「どう見える?」
振り返って、不敵な笑みを浮かべる。しょぼくれた背中を見た後では、その笑顔はアンバランスだった。なぜか痛々しくて、瞳の奥に祐はあかりの寂しさを見た。
「輪の中心で、楽しそうにしてたじゃん」
でも、今は寂しそうだ。
それは言わなかった。鈍感な祐でさえ感じ取れるほどの寂しさを必死で隠しているのに、それを掘り返すようなことはできない。それに、うっかり触れてしまってあふれ出してしまったら、今の自分には受け止めきれない。祐も自分のことでいっぱいなのだ。他人にまで構っていられない。
「そうかあ」
さらさらの長い髪が、光に透けて茶色に輝いている。納得しているような、不本意なような、いまいち汲み取れない様子であかりは笑った。
「及川くんにそう見えるなら、そうかもしれない」
じゃあねと言って立ち去ろうとする彼女を、祐は引き止めた。
「ねえ、なんで俺に言ったの」
別に親しいわけでもない。週に一度、一時間だけ一緒に勉強している、それだけの間柄なのに。彼女なら相談相手にふさわしい人はもっと他にいるだろう。
「及川くんは、しがらみとかこだわりとかなさそうで、ニュートラルだから。同じ立場に立ってる人に話してもだめだし、反対側にいる人には理解されないけど、及川くんならちょっとわかってくれる気がしたんだよね」
あかりは自分の寂しさを誰かに見つけてもらいたいのだろうか。でもそれは、今の祐には力不足だ。
「俺は、わかんないよ。矢島さんが欲しい言葉を、俺はあげられない」
真面目な顔で言った祐を見て、あかりは吹き出した。よく表情の変わる人だ。おなかを抱えて、目尻には涙まで溜めている。そこまでおかしなことを言った覚えはない。
涙を拭って、上がった息を整えてから、あかりは言った。
「なんかごめんね。そんなに大真面目に聴いてくれると思わなくて。本当は、あたしにもよくわからないの。自分でもわかんないことを、他人に理解しろっていうのは傲慢だね」
泣き笑いの笑顔を見たとき、祐は初めて彼女の笑顔を見た気がした。今までもあかりはずっと笑っていたけれど、それらはすべて偽物で、これが本物だと思った。
「誰にでも、わかってもらいたいときくらいあると思うけど」
祐がつぶやくと、あかりはびっくりしたように振り返って「そうだね」と言った。
予鈴が鳴る。あかりはいつの間にか戻ってきていた友達のところへ帰っていった。にぎやかだったグラウンドが静かになり、教室にけだるい空気と、授業が始まるほんの少しの緊張が漂う。
「ニュートラル、か」
ひとことつぶやいて、祐の自分の席に戻った。
祐がニュートラルに見えるのは、どこにも属せないからだ。いつも透明な壁越しに、激しく感情の揺れ動く外の世界を見ている。自分の心は、晴れた瀬戸内の凪のように、少しの波も立たない。
席に着いて古典の教科書を机の中から探り出す。
「及川くん、顔色悪いけど大丈夫?」
千夏が顔を覗き込むようにして様子をうかがってきた。
「平気」
大丈夫なわけではないけれど、助けを求める方法を祐は知らなかった。腹の底で溜まったまま腐っていった感情を、もうずっと吐き出せないでいる。
誰も手を引いてはくれない。手を伸ばす勇気もない。土の中のように真っ暗な中を、祐が必死でもがいていることに、気づいてくれる人は誰もいない。
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