「俺はどっちでもいいと思うけどな」

 藤堂先生がため息をついた。パイプ椅子の背もたれがぎゅっと悲鳴を上げる。祐は先生の顔を見るふりをして、その奥の窓の外を見ていた。昼休憩だというのに、グラウンドには誰もいない。昨夜から降り続いた雨は朝になっても止むどころか、ますます強くなってきている。

 数学教室の資料室には、所狭しと問題集が並んでいた。旧帝大や有名私立の赤本、青チャートにまぎれて、色あせた赤チャートもある。最後に使ったのは誰だろう。

 面談は文理選択をどうするかの話で止まったまま、二十分が過ぎようとしていた。文系か理系か、どちらに進みたいかと聞かれても、いまいちぴんと来ない。どちらに進むのが最適なのか、答えがさっぱりわからない。

「みんなはどんなふうに決めるんですか」

「みんながどうしようと、これはお前が決めることだよ」

 藤堂先生は脇に置いてある机に肘をついて、またひとつため息をついた。狭くてほのかに甘い埃のにおいがする部屋に、雨音だけが響く。デジタル時計の文字盤が七時五十八分を表示したまま、少しも動かない。祐はペンを回そうとして、何も持っていなかったことに気づいた。何か回さなければ、時間が進まないような気がする。

 この教室で、一体どれだけの人が先生と進路を話し合ってきたのだろう。みんな正しい答えを導き出せたのだろうか。

「まあ本決定までには時間があるし、今すぐ決めろってことでもないから。いったん持ち帰って親御さんともしっかり話し合ってみたらいいし、じっくり考えて来い」

 先生の目が祐の瞳をとらえる。糸で引っ張られるように、先生の三白眼から目が離せなくなった。

 ――よく考えて決めないと、きっと取り返しのつかないことになると思うんだ。

 昨日の駒沢先生の言葉がどんどん大きくなって、祐の中で破裂した。耳の奥で何度もこだまする。

「知らないことは、教えてもらわないとわかりません。ちゃんとわからないと決められません。間違えたらいけないから。俺の場合、どっちを選ぶのが正しいですか」

 祐が訊ねると、藤堂先生は乾いた笑みを漏らした。何かを懐かしむような、それでいて嘲るような笑い方だった。授業中の先生は若さに溢れてエネルギッシュな印象なのに、今日はずいぶんとくたびれている。

「そんなこと、誰にもわからないよ。選んでみてかなり時間が経ってから、これでよかったのかもしれないとか、間違えたかなとか思うもんだ。でもそれにしたって答えじゃない。正解なんかどこにもない」

 先生が、顔をずいと近づける。

「お前みたいな構え方じゃ、この先どこへも行けないぞ」

 心臓が握りつぶされるように痛む。息の仕方を知らない魚のように、はくはくと体が酸素を求める。先生の目が、捕食者のそれに見えた。

 祐には、まだ知らないことがたくさんある。秀才だなんだと騒がれても、本当の自分は無知でちっぽけな生き物だ。先生に空っぽな自分を見切られてしまった気がして、急に全身に鳥肌が立つ。

 どうにかして口を開こうとしたとき、ふいに先生の手が頭上に伸びてきた。髪の毛をわしゃわしゃとかき混ぜられる。

「悪い、ちょっと言い過ぎたな。お前の話を聞いてると、俺も思うところがあってさ。たしかにどちらかを選ぶってことはリスクを伴う。でも、及川はちょっと神経質になりすぎだ。お前ならどこでもやっていけると思うし、しっかり考えて決めた道ならどうなっても悔いはないと、俺は思うよ」

 大きくて温かい手のひらを頭に感じながら、ふと先生のひどい隈の理由に思い至った。きっとこんなふうにクラス全員の話を聞いているのだろう。祐の欲しい答えを、先生はくれなかった。けれど、優しい人には違いないと思った。

「一次調査の紙、提出期限は来週だからな。忘れずに出せよ」

 手渡された一枚の紙を持って、祐は部屋を出た。

 教室へと続く階段を上る。四階の吹きさらしの廊下は、雨が斜めに降り注いでいた。祐は紙を濡らしてしまわないように教室側に寄って歩いた。

 思考はまとまりを持たず、知らない感情が腹の中をぐるぐるしている。空っぽだった祐の中に、突然収めどころのわからないものがたくさん湧いてきた。

 もう、これ以上、誰も俺のことを暴かないでほしい。

 覗き込まれたら最後、自分の中がすっからかんなのがばれてしまう。周囲の人が見ている自分が大きくなればなるほど、本当の自分が小さくなっていく気がした。

 なんとなく、今日は千夏に会いたくないと思った。みんなが見ている大きな「及川祐」であろうとする矮小な自分を、彼女だけは見抜いてしまいそうな気がする。初めてしゃべった日、千夏の、すべてお見通しのような瞳が祐の世界に色を差した。あのときは、新しさと物珍しさに目を見開いて喜んでいたけれど、今はただ恐ろしい。

 別に、大きくありたいわけではない。ただ、期待よりも小さな自分を知られてしまうのが怖いのだ。

 教室に戻ると、千夏はまだ来ていなかった。いつも早く来る彼女にしては珍しい。もしかしたら、今日は休むのかもしれない。

 祐はほっとしていた。あれほど真面目な千夏が学校を休むなんてただごとではないのに、今日会わなくて済むということにひどく安心している。そういう自分がとても薄情に思えて、どんどん小さくなっていく。

 

 派手に足音の響くコンクリートの階段を上る。アパートのドアを開けると、いい感じに出来上がった酔っ払いがいた。

「おかえりぃ、祐」

 何も言わずに家に上がる。リュックを置いてシャツのボタンをふたつ目まで開けると、それまで詰めていた息が少し楽になった。冷蔵庫から水を出してコップに注ぐ。さりげなく母の出勤カレンダーを見ると、今日は珍しく休みだった。

「あんまり早くから飲むなよ」

 居間を振り返って言うと「いいじゃん、たまの休みくらい」と背を向けた母が缶ビールを傾ける。そろそろ三本目くらいか。

「晩ごはん、カレー作ったから自分で温めて」

 テレビのチャンネルを変えながら、母が言う。祐は返事もしないでコンロの鍋を火にかけた。

 看護師で夜勤の多い母とは、ほとんどすれ違いのような生活をしている。祐がほんの幼いころに離婚しているから、父の顔は知らなかった。

 カレーの皿を持って、母の向かい側に座る。

 相談するなら今日しかない。カレーを口に運びながら、いつ言い出そうかタイミングをうかがう。どう切り出したらいいのかわからなくて、自分の中で言葉を探す。

 どうしたいかと訊かれても困るのだ。どうしたいとも思っていないのだから。祐の中で感情はいつも収まるべき場所を持っていたのに、今どこに収めたらいいのかわからないものたちを持て余して、右往左往している。何か言いたいはずなのに、言葉が形を持ってくれない。

 まとまりのない気持ちを吐き出すのは苦手だった。出してしまったら最後、どこまでも際限なく広がり続けてしまいそうな気がする。だから、手に負えるところで、それが何かをわかっているものだけを言葉にするのだ。

 ひな壇芸人たちのしゃがれた笑い声が、やけに耳につく。気がついたら、カレーは冷めてツヤを失っていた。

「ごちそうさま」

 食べ終えて、祐は立ち上がった。結局何も言えなかった。

 うちの母親が、息子にべったりで始終何かを尋ねてこなければ気が済まないような人だったらよかったのに。それなら自分から言い出さなくても、少しいつもと様子が違うだけであれこれ聞いてもらえただろう。

 食器を下げようとして立ち上がると、母に呼び止められた。祐は立ち止って顔だけを母の方に向けた。何か聞き出そうとしてくれるのではないかと、淡い期待をした。たぶん、母は祐がいつもと少し違うことに気づいている。それでいて、言い出すのを待っている。

「これも一緒に下げて」

 空いたビール缶を押し付けられる。祐はため息をついて、母の手から缶を奪った。

「ついでにもう一本出してー」

 スマートフォンを片手に言う。祐はそれを無視して皿を洗い始めた。

「ねえ、祐」

 テレビの音と皿を流す水の音が混じりあう中で、母の上機嫌な声がする。

「結局さ、敷かれたレールに沿って生きていくのが、一番ラクで正しい道なんだよ。どこかで間違えたら、その道を降りなきゃいけなくなっちゃう」

 ああ、また始まった。

 母は酔うと必ずと言っていいほどこの話をする。小さな子どもを連れて離婚して、親子二人で生きていくというのは、並大抵のことではないのだろう。幼心にも、家の事情はわかっていた。たぶん、自分たち親子は普通ならしなくていい苦労をたくさんしてきた。今、母が夜勤ばかりの看護師の仕事をしているのも、祐の学費を出すためなのだ。

「あんたは間違えちゃいけないよ」

 母の声を聴きたくなくて、蛇口のレバーを最大まで上げる。水しぶきが激しく散って、白いシャツを点々と濡らした。

 何をもって間違いとするのだろう。どの道を選べば正解? 誰でもいいから教えてほしい。誰かがこっちだと手を引いてくれたら、迷わずその道を選べる。先生に言われなくても、文理どちらを選んでもうまくやれることはわかっていた。でも、上手くやることと正解は違う。祐はただ、間違うことだけが怖いのだ。

 洗い終わった食器を乾燥かごに入れて、祐は自室のドアを開けた。ちらりと母の方を見たけれど、テレビに夢中でこちらのことは少しも見ていなかった。

 祐の部屋は、彼の心の中と同じくらい、いつもきれいに片付いていた。殺風景と言ってもいい。電気も付けないまま、机の上の定位置に置かれたスマートフォンを手に取る。千夏に明日の予習の範囲を連絡しなくてはならない。

 ずいぶん前に連絡先を聞いたのに、メッセージを送るのは初めてだった。LINEを開いて若宮千夏の名前を探す。三スクロールくらいで見つかった。以前千夏のアイコンを見たときは中学校の友達と思われる女の子とのツーショットだったのに、いつの間にかウィズダム英和辞典に変わっていた。

『風邪かな、大丈夫?』

 打ち込んで送信しようとしたとき、今朝のことを思い出した。千夏に会いたくないと思ったこと、来ていないことにほっとしたこと。なんて薄情なんだろう。急に「大丈夫?」という言葉が安い再生紙のように薄っぺらで価値のないもののように思えてくる。

 何を書いたらいいかわからなくなって、何度もテキストを打っては消した。別に用件だけ伝えてしまえばいいのに、そうするのも何かいけないことのような気がしていた。千夏に後ろめたい気持ちを抱いてしまったことへの、祐なりの罪滅ぼしのつもりだった。

 それに、なんでもお見通しの千夏と、言葉を交わすきっかけが欲しかったのかもしれない。SOSを出したかった。困っているんだ、助けてくれ、と。朝、それを知られたくないと思ったばかりなのに、我ながら現金なものだ。彼女なら、欲しい言葉をくれる気がした。

 見られたくない、暴かれたくない。だけど、知ってほしい。理解されたい。

 相反する二つの感情が祐の中を渦巻いている。きれいに片付いていたはずの祐の世界は、どこに収めていいかわからない感情でぐちゃぐちゃになっていた。

 上手く言葉にできないから、溜まっていく一方で吐き出せない。

 言葉が、感情が、飲み込んだまま腹の底で腐っていく。

 暗い部屋で、スマートフォンの画面だけが白く浮いていた。画面が勝手に暗くなるまで、祐はずっと立ち尽くしていた。

 

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