窓から吹き込んでくる風が熱をはらんできて、衣替えの季節になった。制服の移行期間に入った教室は、白いシャツと学ランの背中でオセロみたいだ。女子はベストがあるから、まだ白い背中を見せている人は少ない。

 梅雨入り前なのに、季節は夏のふりをして近づいてくる。乾いた日差しに、体の深いところから力を持っていかれる気がする。気まぐれな気候に騙された蝉が、どこかでじわじわと鳴いている。

 教壇には小柄で小太りの初老の先生が立っていた。

 生物基礎の駒沢先生は、授業中に必ずシンキングタイムを取る。その間に自分の考えていることを、教室中を歩き回りながらつらつらと話す。僕の話は聞き流していいよ、と言うが、少しも考えることに集中できない。たぶん、先生は生徒に考えさせる気などない。

 祐はシュッと三回、素早くペンを回した。

「みなさんがこの高校で得られるものは、残念ながら学歴だけです。身も蓋もない言い方だけどね。工業高校や商業高校なら、社会に出るためのスキルを身に付けるけど、みんながやってることって勉強だけだよね。それが悪いっていうわけじゃないんだけどさ、進学校を出ただけの人なんて、社会にはいらないんだ。どこにも需要はありません。だから、みんなは一生懸命勉強するよね。そして、できるだけいい大学を目指す」

 先生はゆっくりと教卓の方へと戻っていく。話は続く。

「君たちは一年後、いや、もうあと半年後には文理選択をするわけだけど、これがなかなか難しい。文理を選ぶってことは、たくさんある人生の選択肢のうちの半分を棄てるってことです。慎重にしなくちゃいけないよね。数学が苦手だから文系とか、国語ができないから理系とか、そんな単純なことで決めたらいけません。友達がいるからとか、もってのほかだよね。自分が何をしたいのか。よく考えて決めないと、きっと取り返しのつかないことになると思うんだ」

 ねっとりと絡みつくような口調で、むちゃくちゃなことを言う。

 まだ、大人になるまで何年もあるのに。この学校にあと二年以上もいて、さらに大学は四年ある。大学院まで行けば、社会に出るまでもっと時間がかかる。

 それなのに、これからの人生の方向を、たった半年で間違えないように決めろだなんて、むちゃくちゃだ。

 まだ、人生と呼べるようなものは始まっていないような気がしていた。それがいつ始まるのかもわからないけれど、今はまだ準備期間だ。蝉が、長い時間を幼虫として土の中で過ごしているみたいに。生きてはいるけれど、記憶もあるけれど、眠っていて、力を溜めている。

 今大切なことを決めてしまうのは、夢の中で起こったことをそのまま実行に移すのと同じくらい不確実で危うい。

 祐はまだ、現実を見たことがない。知らない。

 それが、とても恐ろしかった。

「はい、注目」

 先生が教卓の前で手を上げる。そんなことしなくても、聴く気がある人はちゃんと見ているし、やる気がない人は何をしても聴きはしない。

 千夏は先生に熱心な視線を送っている。彼女は何のために勉強を頑張るのだろう。勉強の先に、彼女は何を見ているのだろう。

 ぐるぐるとペンを回す。滞った時間を、押し流していく。無性にいらいらしてだんだん回転が激しくなっていく。勢い余って、教卓の方へ弾き飛んだ。

 ひっと、喉に息が詰まる。いやな汗が額ににじむ。

 駒沢先生は、嫌に演技がかった手つきで祐のシャーペンを拾い上げた。回すものがなくなった右手は、手持ち無沙汰に空をさまよっている。先生がじわじわこちらに向かってくる。また、時計の針が進まなくなる。

 先生は無言で祐の机にペンを置いた。

 何事もなかったかのように、前に戻って説明を続ける。先生は何も言わなかった。

 

 教室を、千夏とそろって出る。

 一緒に帰るのは、半ば暗黙の了解になっていた。最近は何も言わなくてもお互いの帰り支度が整うまで教室を出るのを待っているし、都合の悪いときはあらかじめ断っておく習慣もできた。

 千夏は友達をつくる気がないのか、誰ともつるもうとせずいつもひとりで教室にいる。教室の中では悟といることが多い祐は、それほど千夏と接点があるわけではなかったが、なぜか一緒に下校することだけは続いていた。

 正門をくぐって坂道を下る。夕方の気配を感じる日差しがアスファルトをほんのり赤っぽく照らす。

 川沿いを少し歩くと、シーソーとブランコがあるだけの小さな公園が見えてくる。祐はなんとなく「寄っていく?」と訊いた。今日は六限終わりで、バスの時間にも少し余裕がある。千夏はいつも早く帰りたそうにしているから断られるかと思ったが、意外にも「うん」と首を縦に振った。

 教科書や辞書でパンパンになったリュックをベンチに置き、祐はブランコの方を向いてシーソーにまたがった。千夏はブランコの上に立っていた。気まぐれに膝を曲げて、ゆるゆると揺らしている。

「ねえ、若宮さんは文系と理系、どっちにするの」

「文系かな」

 千夏は祐の方を見ずに言った。

「及川くんは?」

「わかんない」

「出た、わかんない。また、誰か決めてくれないかなとか思ってるの?」

「まあ、そんなところ」

 千夏がくすくすと笑う。すらりと伸びた脚に目が行く。ブランコが揺れるたびに紺のスカートがひらひらして、きれいだなと祐は思った。

「なんで文系にするって決めたの」

 祐は千夏の横顔に問いかけた。

「そっちの方が得意だから」

「駒沢先生は、そういう決め方はだめだって言った」

「関係ないよ。わたしがそうしたいと思ったから決めたの。受験は戦争だよ。先生たちだってみんなそう言ってるのに、誰が使い慣れない武器で戦うっていうの。おかしいじゃん」

 千夏がぐっと深く膝を曲げて、ブランコが大きく弧を描いた。

「先生の言うことなんか気にしない。わたしはわたしが正しいと思ったようにやる」

 ブランコなんかを漕いでいるのに、千夏はとてもかっこよかった。一本筋が通っていて、凛として、どこか一点を強く見据えている。ちゃんと目標がある。

「俺、何が得意なのかもよくわからないからなあ」

「何でもできるもんね」

 千夏はひょいとブランコから降りた。振り返って祐の方を見る。

「わたしはときどき、そういうのが羨ましい」

 そう言った千夏は、何とも言えない表情をしていた。この前見たものとも違って、悔しさと悲しさと慈しみが入り混じったような、何と呼んでいいかわからない表情だった。

「俺は、若宮さんが羨ましいよ」

「そういうの、ないものねだりっていうんだよ」

 千夏はリュックを背負いながら言った。さっきまで気配にとどめていた夕日が、本格的に町をオレンジ色に染めている。祐も立ち上がって、自分の荷物を持ち上げた。

 できるなら、もっと歪になりたかった。まん丸で掴みどころがない自分を、自分でも持て余しているのだ。

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